第14話 アテンドTHE大化改新(14)

十四



 茫然自失としていた、教室の角隅で。

予想もせず双方削り合いの消耗戦だった。最後の最後、半ば自暴自棄の状態で応戦して、ラストにはなんとか持ち込んだ五分五分の展開。

しかし、ショックは並では計り知れないものがあった。薄々あのノートが恥ずかしいことには気づいてはいたが、他人にあれだけ罵られるともはや立ち直れない域。その上、さらに精神を磨耗するのは、今頃情報が当の本人へ漏洩しているのではという恐怖だ。

おかげで午後の生物の授業も、自習にと開いた日本史も全く頭に入ってこない。また飛鳥時代を周旋する。百済観音、釈迦三尊像、区別がつかない。

眠れればいいのだけど、おちおちそうもいかず、頭はくだらないIFを巡らせる。言いふらされれば、終わりだ。残り半年、ゴール間近にして俺の高校生活が暗礁に乗り上げる。今となってはどうしてあんなもの書いたのか、と後悔しか沸かない、

しかし運命のオールは俺ではなく、あの女子が握っていた。あれこれ考えても、俺にはどうすることもできないのだった。

──だが反対に、俺があの女子のオールを握っているのも確かだった。預り知らぬ間に、一蓮托生。和解なんて絶対しない、とあの女子の捨て台詞が思い浮かぶ。俺も当然だ、と言い返した。今思えば、意地を張りすぎたかもしれない。たぶんそれはお互いに。

放課後、俺はホームルームが終わってすぐ、二つ隣の教室へ出向く。

すると、あの女子もこちらへ向かおうとしていた。意見は一緒らしい。まだ終礼の終わらない隣のクラスの前で向き合う。

「あの」「あの」声が重なった。呼吸が合わない、テンポがずれる。

「はい……」

「お、お先にどうぞ」

「じゃあ、俺が……あの、お話があって」

「私も、私もです」

隣のクラスから、終礼そっちのけの奇奇たる視線を感じる。たぶんそれはとんだ勘違いであるのだが、ともかくここは場違いと言えそうだった。

向かう場所は、当然一つだった。別棟に到着する。その間会話なく、他に人などいるわけもない別棟はしんとして無音。前を歩く彼女の揺れるポニーテールとシュシュを眺める。

美術室前で立ち止まり、一応誰もいないことを念入りに確認してから、

「まだ誰にも言ってないよな?」

「……うん、まだ。あ、あなたは?」

「俺もまだ」

ぎこちなく話を始める。まだ知り合って数時間。それも散々な出会い方をした。

「えっと、川中くんだったよね」

「……うん。渡辺さん、だよな」

「うん、渡辺。……その、さっきはごめん。許してはないけど、ちょっと言い過ぎたとは思う」

「俺こそ、ごめん。つい買い言葉というか」

午後の授業中、頭を冷やしていたのは彼女も一緒だったようだ。さっきまでは怒りっぽい印象しかなかったけれど、今はしおらしささえ感じられた。

「お家、パン屋なんだよね。同じ」渡辺さんが言う。いきなり本題よりは、多少なり会話を交わしたほうがいいと考えたらしい。

「知ってる。最近繁盛してるよな」

「……まぁ、そこそこ。川中くんのとこは?」

「ちょっと低調気味」

「そ、そうなんだ……。ご、ごめん」

「継ぎたくないから別にいいんだけどさ、家計が回らなくて」

「あ……私も」

「え?」

「私も継ぎたくないの、パン屋」

渡辺さんの言葉のあと、ほんの少し間が空く。俺はつい吹き出してしまった。

パン屋を継ぎたくない、と思う感情をこんなところで共有できるとは思ってもみなかった。緊張していたぶん、いきなりつっかえを外された感覚で余計なほど笑う。つられたのか、渡辺さんも笑っていた。

それから、さっきまでの対立が冗談のように、一気に友好ムードになって、パン屋への不満を次々こぼし合う。別棟で歌を歌っていたのは、そういう小さな不満が募り募ったのを発散するためだったらしい。俺も経緯を説明する。渡辺さんも同じ番組を見ていたたけれど、真に受ける人がいるなんて、と笑われた。

受験生、パン屋、抱える不満。存外、いや俺たちは十分似た者同士だった。

「今回のことなんだけどさ、お互いの秘密にしよう」

「うん、しよう。絶対口外禁止ね」

「あぁ。それから友達になってくれると嬉しい。えと、変な意味じゃない。ほら! パン屋の家の苦労って中々誰も分かってくれないから」

「うん、なろう、友達。私もそういう人と会いたかったし」

低い天井、風に揺れる歪んだ窓枠に、経年劣化で撓んだ床。傾いた日に照らされて、埃が静かに舞う。喧騒の放課後からすっかり取り残されてしまった別棟(ここ)では、つばを飲み込む音さえ聞こえてしまいそうだ。

「……あ、これどうしようか?」

そんなおかしな場所に、渡辺さんの声が響く。指すのは、壁に記された昼間の罵詈雑言だ。本音を言えば消したいに決まっていたが、消えないのもまた分かっていた。だから、俺はペンを取り出し下に付け足す。「勘違い歌姫」と。

渡辺さんは当然怒る。だが、これで本当の痛み分けだ。この文字見ただけじゃあ誰も分からないよ、とひとしきり宥めてすかす。

「……携帯。連絡先教えてよ」

「あぁ。ラインでいい?」

「うん。いまどきメールなんかポイントカードの案内にしか使ってないよ」

「……ずいぶんキーホルダー付けてるんだな」

「そう? 川中くんのが寂し過ぎるんじゃない」

そうしてようやく、似た者同士、出会って早々の大喧嘩に終止符が打たれ、和解が成立した。事後策としては考えられる限りの、最善の落とし所。まとまるところにまとまり、落ち着いた。

はずだったのだが、一度満たされるとさらなる欲が出てしまうのが人間の性で。不躾とは思いつつも聞いてみる。

「……あと、できれば本当全く危害とかは絶対加えないから、吉良さんに会わせてくれない?」

「無理! あれだけは許してないからね。この先も絶対認めない! 早くあの紙捨てたら? ただの黒歴史ノートじゃん。あとで見返したら絶対後悔するね、これ予言」

「なら、葵にも会わせてやらないからな」

「……っ、……でも無理!」

息を詰まらせる程度の効果はあったようだけれど、最後まで渡辺さんの意見が覆ることはなかった。

廊下を包む夕日が、沈むにつれてその朱色を濃くしていた。なぜか、いつもより悪い心地がしない。受験まで残り数ヶ月、高校生活の最終章。ここへきて改新の兆し──なのかもしれない。





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