第12話 アテンドTHE大化改新(12)
十二
別棟への扉を開けると、思った通り今日も歌声が聞こえてきた。やはり、彼女はいた。心なしか昨日より大きな声量と、荒れて不安定な音程。獣が縄張りを侵されて激昂しているかのよう。だが、なんとか心に鞭打ち、長く感じる廊下を一直線に例の女子の元へ向かう。迷いはなかった。勢いのままに、話しかける。
彼女は、今日も目立つ赤いシュシュをしていた。だらしなく足を投げ出した身体の右横には無造作に英単語帳が転がり、左にはおにぎりの袋と音楽プレーヤー。
いくら呼びかけても反応はなかった。俺としては結構思い切って話しかけたつもりだったのだが、目を瞑って歌っているものだから、全く気づいていない。仕方なく目の前に回り込んで、負けないよう腹の底から声を出す。すると、
「君の道を進めー、あぁぁ、あぁ────あ?」やっと反応が返ってきて、歌声がやんだ。
「……………えっと」
よっぽど驚いたのだろう、比喩ではなく彼女の目はまんまるに見開かれていた。ぴったりと目が合う。
あれ、なにを言おうとしてたんだっけか。その瞬間に全てが飛んだ、これも比喩ではなく。それは向こうも同じだったようで、見つめ合ったまま互いに無言のままボーカルが嗄れた声で叫ぶのを聞く。
「少しいい……でしょうか」後も先もなく、こう切り出すのが精一杯だった。
「あ……はい。ちょっと待ってください、音止めますから」
「お願いします」
「いいえ、うるさかった……ですよね」
「え、あぁ……まぁ」
騒々しかった音楽が止められる。また沈黙が訪れて、今度は隙間風が窓を擦れる音だけがした。
次に話を切り出したのは、彼女の方だった。
「あの……見ました?」
「なにをでしょう」
「そのー、お恥ずかしいところ、というか?」
「あー、恥ずかしいところですか。え、いや、パンツは見てないですけど」
彼女は赤面して、素早く内へ股を閉じる。
「安心してください、見てませんから!」嘘はついていない。
「そ、そ、そうですよね、……あはは、すいません。あの、私が言ってるのはそうじゃなくて、う──」
「あぁ歌っているところなら、ばっちり」
俺は、彼女の浮かべていた微笑みが、凍りついて崩れ落ちていく瞬間を見た。それはもうまじまじと。上がっていた口角は下を向き、目線が左上をくるくる泳ぎだす。
「……じ、実は違うんです」
言い訳が始まるのは、人間観察など縁がない俺にも予想がついた。
「と、言うと?」
「私、受験生で。英語の発音をしてたんです。あー、あー……attend! そう、attend! この発音をしてまして──」
「……いや、歌ってましたよね」
返事はない。
「昨日も聞いたんですけど」
「あは、昨日も……あはは」
いとも容易く破れ去った嘘を前に、空っぽの笑い声が、目に光のない真顔から発される。ついには嘘を認め、
「お願いします! 誰にも言わないで! 何年生? 年下? 同級生? とにかく誰にも言わないで、お願い!」
膝をつき、両手を合わせて頼み込んでくる始末。俺は落ち着いて、と取りなす。この押しが強い感じ、とても友達がいない人とは思えなかった。なら、なぜ彼女はこんなところに一人でいるのだろう。
「俺も受験生だよ。言わないから、まず手下ろせよ」
「そうなんだ、一緒……。えと、本当?」
「あぁ、言うメリットないから」
「ありがとう!」
「いいよ。その代わりに、と言ったらあれだけど、ちょっと聞いていいか?」
とにもかくにも遠回りしたけれど、ようやく本題だ。走って焦れば躓く。とっくりと、遠回しに、相手を探りながらごく慎重に。
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