第9話 アテンドTHE大化改新(9)
九
「……お姉ちゃん? どうしたの。死相浮いてるよ」
妹が言うに、朝の私はそんな顔だったらしい。
朝から甘いチョコクロを、パックに浸かりすぎて渋い麦茶で流し込んだせい。単に寝起きが苦手で機嫌が悪いせい。もちろんそれもある。けれど、それだけじゃない。
朝から酷いものを見てしまった。それはテレビで毎日報道される凄惨な事件より私の中で比べるなら酷い代物。敵は夢でも、世間でもなく、英単語帳の中に何気なく隠れていた。
思い出すだけで背筋が凍る感じが襲ってくる。起きてすぐ顔は洗ったけれど、邪気を払うため、今度は冷水で洗って化粧水、乳液を入念に叩く。
それでも足りない感覚がつきまとって、お次はヘアセットへ。いつもは雑誌で見かけた少し凝った髪型にしているのだけど、気分を変えるため今日はポニーテールにしてみる。シンプルだけれど、たまにはいい。お気に入りの赤いシュシュが高く留まっているのを見たら、やっと少し気分が晴れた。
すでに店の方にいる両親へ「行ってきます」と届くように告げたら、家を出る。わたぱんの始業時間は私の登校時間よりずっと早い七時だ。もう甘い香りが玄関先まで垂れこめてきていた。
外は、私の心を正反対に写したような秋爽の装いをしていた。乾いた空気を深く肺まで吸い込むと、心の垢が少し浮いた心地がした。考えないよう努めて、通学路を行く。
学校は商店街をずっと先まで行って曲がり、さらに坂を上ったところにある。片道徒歩三十分とその道程は長い。けれど、滅多に退屈はしない。商店街の人はみんな知り合いか、それ以上の付き合いがある人たちばかりだ。前を通りかかれば、
「今日も学校頑張りやー」大体声をかけられる。この関西弁混じりなのは、隣の電気屋の山田さん。風貌がいかつくて、何度見ても慣れない怖さがある。頭を控えめに二、三回下げて、挨拶の代わりにした。同じように、クリーニング屋、靴屋、みんなが顔見知りだ。
「結衣、おはよう」
「おはよう、きっちゃん」
「んー……なんか顔色悪いけど大丈夫? 薬飲んでいく?」
とくに仲がいいのは、薬局勤めの木津さん、きっちゃん。小さい頃からの付き合いで、最近はもう今年で三十といつも嘆いている。合コンもネットも駆使して、絶賛婚活中。
「そんなことないよ、いらない」
「本当? 風邪引いてからじゃ遅いんだからね、受験生!」
そして、いつも少し大げさだ。だからいつも「気楽に生きたら結婚できるよ」、と言うのだけど、いつまで経っても男といるのを見ない。ひとしきり宥めたあと、また進む。されど、そこまで言われれば気になるのが乙女の心情というもの。
「うーん、……そんなにやつれてるかな」
そんな時に鏡がわりにするのは、綺麗なショウウィンドウのブティック。ではなく、ガラス張りで作られた薬局隣の碁会所。夕方は近づきがたいけれど、朝は大きな姿見に変化する。囲碁盤を奥に見据えつつ、笑ってみたり、真面目な顔をしてみたり、歩いてずれた髪留めの位置を整えてみたり。まぁ、と自分に及第点を与えたところで、
「ごめん、待ったー?」
ばーゆがやって来た。いつもここで待ち合わせをして一緒に行くのだ。大体は三人、偶に二人。
「そんなにだよ、今来たところ」
今日はその偶の日だ。つばきは学級委員をしているから、朝早い日が月に一度はある。笑い話をしつつ商店街を抜ける。続くは店舗も住宅も混在して、雑多な路地裏だ。
たまたま家と家の間わずか五十センチくらいを縫うようにして猫が前に飛び出してきた。
「可愛いなぁ、おいで!」ばーゆは、来るわけもないのに手を広げて、来なかったら「やっぱり餌がないとだめかなぁ、現金な奴め」とちょっと腐る。
そうこうして、ようやく学校へ続く獣道、通称・三年坂とご対面だ。
京都の本家とは違って、由来はただ長いから。しかも道はヒビの入ったアスファルトと土、風情ある石畳なんて夢のまた夢。たんぽぽが割れ目に逞しく葉を張っている。
「さぁ山登り張り切っていってみよー!」
ばーゆはかけっこでもしよう、という勢いで宣言する。朝から力が有り余っている。
「道は長いんだからゆっくり行こう?」
「えー、まぁいいけどさ。結衣、なんかお疲れ気味? 勉強のしすぎも悪だよ。今日は一段と低空飛行って感じ。なんかあった?」
「ううん、テレビで嫌なニュース見たぐらい」
「なにそれ、そんな嫌なのあったっけ……。誰か芸能人の結婚とか?」
まさかばーゆにも言われるなんて。今日で三人目、気にしないよう振舞っても、あのおぞましい紙切れのことが確実に尾を引いているらしかった。
「あー、もう走ろう!! ばーゆ、行くよ」
思い出したら、無性に腹が立ってきた。こうなったら、山登りでもしきって忘れてやる。それから昼休みは、熱唱だ。私はかばんを右手で握りしめ、フックにつけたぬいぐるみを揺らしながら坂を駆ける。
「お、なんか全然分かんないけど、元気出たっぽい? 行こう、行こう、山なんてひとっ飛び~!」
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