第4話 アテンドTHE大化改新(4)
四
俺は、メモ用のノートを持ち歩いている。
リングのついたバインダーにルーズリーフを挟んでいくタイプの一見普通のノート、けれどこれは単なる勉強用のものじゃない。自分が思ったこと考えたことをメモする少し変わったノート、いわば「自分ノート」だ。きっかけは、聞き齧りだった。テレビで「天才特集!」というのがやっていた。ぼやっと見ていたのだけど、その一つのコーナーで「天才はとにかくメモを取る」と言っていたのだ。
一冊ノートを持っていて、そこに小さな思いつきから大きな目標までを書き出して、たまに読み返す。あのアインシュタインもメモマシーンだったとか。
その時は特に気にも留めなかったのだけど、学年随一の天才で、親友の大石葵が同じようなことをしているのをふと見かけて「これだ」と思った。
珍しく即行動に移った。そのままメモだけ書き出すのは味気ないと思ったので、一ページ目に「Want to doリスト」と銘打って目標を箇条書きにすることにした。
調子よく一から十まで番号を打ったはいいが、一つ目に「受験合格」と書いたところで手が止まる。考えてみれば十も書き出すほどなかった。それでも、今後メモを書いていくうちに埋まればいいか、とメモを始めて早一か月。今も毎日ふと気づいたこと等を綴っている。このノートを書くのは比較的楽しい。普段決して人に言えないようなことも書くことで供養してやることができている。
が、そのせい、もはやこのノートはトップ級シークレットになってしまった。掘り出してはいけない化石、もし他人の目に触れようものなら、切腹して果てたいレベルのもの。本当にどうしようもないことまで書いてしまってあった。「風呂のお湯は熱すぎても冷たすぎても駄目、同じように人間は適度が一番いい」とか「バター塗りのことをスパチュラというらしい」とか。
あれから書き足した目標もそう。
・受験合格 ・店の売上アップ ・父の説得
ここまではまぁいい。
・運動不足の解消 ・カードゲームでスーパーレアを当てる
だいぶ話が矮小になってきたが、これもまだ許せる。でもここから先は──
「おい、大雅なに俯いてんの?」
つと、話しかけられた。その大石葵からだった。俺はとっさにノートを奥に引っ込め、日本史の参考書を引きずり出す。
「え、自主勉だ、自主勉!」
「なんでわざわざ机の下で」
「さっきまで授業中にやってたから……その流れ?」
「そっかそっか、まぁあるよな」
俺の額に季節外れの汗が滲むのをよそに、爽やかに彼は笑う。嫌味かよ、と思うぐらい格好がついている。その整った顔を見ながら、机の下やっとノートをたたむ。
「ん。なんだよ、お疲れモードか? 目、クマ出てる」
「えっと、ああまあそんなとこ」まるきり嘘ではない。実際、疲れはあった。「昨日は仕込みが時間かかったからさ」
「それはお疲れ様。でも、手間が掛かってるだけ美味かったよ」
あれから、件のカレーうどんパンを作っては試食すること十回以上。もはや舌も鼻も香辛料漬けになってしまった深夜三時。そこになってようやく親父は合格点を出した。
そして、パン屋の宿命。もちろん今日の昼飯もカレーうどんパンだ。それも、「友達の分も」と五個も持たされた。一つたりとて食べる気になれず、葵に一つ、残り四つは大食らいの良太に食わせた。代わりに、と貰ったコンビニサラダのうまいこと。ドレッシングなんか要らない。素材の味そのものがいい。
「でも今日は俺も少し寝不足だ。カレーのが寝てるかもしれない」
「勉強か? 精が出るな」
「ううん、映画。深夜に見始めるものじゃないな、結局ろくに覚えてない」
葵はうろ覚えの筋を話し出す。つまらなさそうな恋愛洋画だ。とても高校生が見る類いのものではない。けれど、これが葵の趣味なのだ。まるで代官山のマダム。
「そうそう、途中で主人公が日本に旅行に行くんだけど、通りがかりのエキストラがもう良太にそっくりで」
「僕のそっくりさんの話もいいけど、二人とも? 行かないと間に合わないよ。次、美術」
良太が俺と葵の間に身体をねじ込む。見ると、他には誰もいなくなっていた。葵はそれを見たあと、ちょっと俺の方を向いてはにかんだ。
「もうそんな時間か。早く行かないと叱られる」
俺が女子ならそれだけで落ちていたかもしれない。
美術室は別棟の三階にある。日頃、美術や音楽といった選択教科以外に行くことはない寂れた棟だ。廊下はろくに掃除もされていないのだろう、埃が舞いそれを光がきらきらと見せる。足元を見れば、そこらにカメムシの死骸だ。誰かが踏んだのか、つんと酸っぱく匂った。鼻を押さえつつ。警戒しながら通り抜けて美術室に入る。ちょうどチャイムの鳴るタイミングだった。
美術教師はもう教壇にいて、授業が始まる。そして出席確認後すぐに、先生は準備室の方へ引っ込んでいった。授業といえど、ほぼ自習時間のようなのがこの授業だ。教師からは平板と彫刻刀だけが与えられ、ほとんどなにも制限されない。唯一禁止なのは、他教科の勉強をすること。話しながらやっていても仏顔なのに、これだけは見つかったら形相を鬼の面に変えて叱る。よっぽど他教科が嫌いなのだろう。だから、この時間は勉強の息抜き時間。寝て過ごすこともある。
「お腹すいたなー、あとで購買行こうよ」
「さっきカレーパン食べただろ、四つも」
「……そうだった。別にお腹はすいてないんだけど、もう口ぐせでさー」
今日もたわいもないことを話しているうちに時間が過ぎていき、授業が終わった。これで切り替えて勉強に──が、落とし穴はその先に忽然と現れた。
「今日で提出だから、出して帰るように」
先生が授業終わりに告げる。
自分のを見ると、ほぼ新しい板そのもの、線が一本入っただけの状態だった。
「ちなみに終わってない奴は居残りだからな」
焦って横を見たら、一緒になって話していたはずの葵も良太も作品がしっかりと形になっていた。どこを見ても、ここまで未完成なのは自分だけだった。
最近はろくに提出物も出せないことが多すぎる。このまま出さずにこっそり帰ろうか、とも思った。けれど、それではまた一人、職員室に出向くことになってしまう。
とにかく出せばいいか。そう決めて、新古品ほど綺麗な板に「無と線」、それっぽいタイトルをつけて提出した。
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