雨のヒ

 いつだって物語の始まりは唐突だと――佐藤律は思う。

 

 ピピピピ――。

 長く。ただ長く。

 こだましているように、不協和音にも聞こえる携帯のアラームが音色をあげる。

 ベッドサイドのテーブルをノールックでむさぐり回す。けたたましく鳴り響く携帯のアラームを止めるためだ。

 しばらくのあいだ健闘したものの一向に携帯を見つけることができず、律は嫌々おもたい瞼を開けた。携帯はテーブルからずり落ちたようで、床でブブブと振動して鳴いていた。

 おもむろに携帯のアラームを止めて、上半身を起こした。ハッキリとしないボヤけた視界が広がっていた。その光景を呆然と眺める。

 

 いつもの部屋。

 匂い。

 音。

 淀んだ空気。

 東京。


「ん――ッ」

 大きく伸びる。めしめしと音が鳴りそうなほど歪んだ身体を目一杯伸ばす。

 思わず息がこぼれ落ちた。

 律は、しばらくの間ベッドの向かいにおいてある棚の上に置かれた水槽を見入っていた。水槽のなかには、一年前くらいに家の近くのペットショップで購入したベタが二匹何食わぬ顔で泳いでいる。まるでボロボロの雑巾みたいになった鰭が朱に淡く艶めいて揺れていた。

 

 ――ピロン、となった携帯の通知で律は、ふと我に返った。

 視線を携帯の画面にうつす。

 画面には、「律、今日も休み?」と一文。

 かつての友人からだった。

 そのメッセージをみて、律はおもむろに顔を顰めた。

 律は、ここ数か月学校へ行っていなかった。

 べつにいじめられていたわけじゃない。ただ、学校へいくとどこか気持ちが詰まって、苦しくて、それでいて自分を見失ってしまうようで――けれど、そんな自分から目を背けるのもいやで――。


 世間一般では、十七歳が学校へ通うのはあたりまえだ。少なくとも、律の周りでは当たり前とされている。

 だから、学校へ行っていない律を、家族ははずれ者のようにみる。

 母の顔からは、笑顔が減り。

 父の言葉からは、優しさが減った。

 最初のころは、なんとか学校へ行かせようと模索していたようだ。両親共に、律の心のどこかに暗い影があるのではないのかと、思っていたようだった。

「学校でイジメとかあったのかい?」

「先生がきらい?」

「律、友達が学校にいこうだって」

「律……律……」

 しばらくして、家に一度、スクールカウンセラーのおばさんがやってきた。

 その時は、かなり驚いた。律が思っていた以上に、律の不登校は大事になっていた。

 しかし、結局そのおばさんも一度きただけでもう二度とこなくなった。なぜだかは分からない。


 そうして、現在。律は普通の十七歳のレールから外れた十七歳として生活している。

 もちろん、世の中には律以上に普通と言うレールから外れた十七歳はいるだろう。けれど、少なくとも律の知るこの狭い世界では、律は普通のレールから外れた側なのだ。

 

 唐突に、窓枠からポツリと、かわいい音色が聞こえた。

 律は手にしていた携帯をざつに放り投げると、ベットから起き上がり、ガッと力強くカーテンを開けた。

 ぼんやりと眩しい曇り空だった。空を見て、思わず息を呑む。

「雨だ……」

 ポツリと――まるで水たまりに雨粒が落ちるように律は呟いた。

 窓を開けて左手を外に差し出す。ポツポツとひんやりとした雨粒が、手のひらに無遠慮に降り注ぐ。


 ――気持ちがいい。

 今日は出かけよう。

 雨の日に出かける場所は決まっている。

〝武蔵野〟にいこう。

 律は、心のなかでそうつぶやいた。

 

 

 どこか遠くの空で、雷が悲鳴をあげた。



 

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