アメノチときどき晴レ

しろいねこ

アメの日


 いつだって物語の始まりは唐突だと――美鈴律樹は思う。


 やけに密度の高い車両、じめじめと湿った空気、雨に濡れたスーツ、ツンと鼻につくような匂いのする誰かの香水。

 都立高校に入学して半年経つけれど、どうにもこの忌々しい空間に慣れることはなかった。梅雨入り宣言がだされてから、東京の空は毎日のように鼠色のどんよりとした空模様をしている。

 列車の窓から遠くに見える東京都心の高層ビル群が、昆虫の甲殻のように鈍く輝きながら黒く染まって、ひっそりとながい影を落としている。

 その光景を見てこれからもずっと、こんな生活を送るのか、と律樹は忌々しく思った。

 律樹は、外に向けていた目を吊革を握る手にもどす。

 「ハア……」

 思わず口から深いため息が漏れた。

 家という箱から列車という箱に乗りそこから学校という箱へ通う。

 そんな機械的な毎日が、律樹にとって不快感を否めない毎日だった。

 「学校へいくのはあたりまえ」

 そうだ。

 言葉どおり当たり前なのかもしれない。

 ――けれど、〝それがすべてなのか〟と律樹は思っていた。

 学校で上っ面な関係の友達と話して、馬鹿みたいに笑って、たまに教師に注意を受けて、その教師のことを友達と一緒に愚痴って――学校には、もう一人の自分がいる。いまの自分とは違う人格だ。

 もう一人の自分を取り繕って、なんの興味のない会話で笑って、まともな人を演じる。

 これらすべてが今の自分に必要なものなのだろうか。

 違うだろう。 


 ――だから。

 だから、今日は。

 今日だけは、違うことをしようと思う。

 律樹は、おんなじ学校の制服を着た生徒とは逆方向の列車に乗る。

 車両のなかに響く無機質な機械音のアナウンスが、次の停車駅の名前を次々と言っていくうちに少しづつ車両に乗る人の数は減っていった。


 『次はー東所沢駅ー次は東所沢駅ー』


 ――ふと、なんの意味もなく。そのアナウンスを聞いて、律樹は座席から腰をあげた。

 ギギギーと、低く鈍い音をたてて列車は、『東所沢駅』で停車した。律樹は列車から降車した。

 まわりをみると、この駅で降車したのは律樹を含めてほんの数人だった。

 空気が澄んでいた。すぅと息を吸い込むと、すこしひんやりとした空気が肺に溜まった。じつに気分がよかった。

 奇妙なほど長い駅のホームを横目に捉えつつ、律樹は足を進めた。鼠色の空よりも少し薄い白色に近い灰色をしたコンクリートが、雨に濡れて少し湿っている。

 ピッとICカードをかざして改札を抜ける。


 駅からでると、見たことのない街が視界の隅まで広がっていた。

 一通り周りを見渡したのちに、ふと空を見上げた。相変わらず鼠色のどんよりした空模様だった。

 けれど、空を見上げて律樹の心は高揚した。

 目の前に広がる世界は――もう一人の自分を演じる必要も、意味もなく笑う必要も、人形みたいに箱へ移動するモノに成り下がることもナイ世界だ。

 と、律樹は思う。


すうっと少し乱暴に肺いっぱい、雨の日の冷たい空気を吸いこんだり肺の中で空気がほんの少しだけ僕と混ざり合った気がする。 

「律樹くん……」

 かすかに耳元で誰かの声が聞こえた。ぼんやりと今にも雨に流されてしまいそうな弱々くて、けれど芯のある切実な声だ。

 輝きが消えそうな遠い星の瞬きのような声。


 少しどきっとしつつ、平然をよそおってあたりを見渡す。しかし、律樹の周りには人影すらなかった。あるのは、錆びた道路標識とタクシー乗り場で暇そうに大きなあくびをする運転手のおぎさん。そして真っ白な雪みたいな色に青色の双眸の猫だけだった。 

 


 

どこか遠くの空で、雷が悲鳴をあげた。


 

 

 


 

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