人生旅日記・春の女神、佐保姫の空中散歩

大谷羊太郎

春の女神、佐保姫の空中散歩  ~姫たちの高貴なトイレ事情~

  足の向くまま あてどもなしに

  流れ流れて 白髪に変わり

  たどり着いたぜ このシリーズに

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 私は二十代と三十代、バンドマンを職業にしていました。通常、人は働いている職場で、経験を積んで実力をつけ、また周りからの信用を得て、地位をあげてゆくものです。

 ところが当時のバンドの世界は、違っていました。同じバンドにいくら長くいても、給料はあがりません。自分の腕を磨いたら、もっと高い金を払ってくれる上級バンドを探して、そちらに移る。このような形で、収入をあげてゆきます。

 これは当時まだ、音楽界が成熟していなくて、プロダクション組織がほとんどなかったからでしょう。たとえば五人編成のバンドが、一晩演奏して金を受取る。仕事が終わると、その場で、今もらったギャラを等分にわけて解散する。

 ほとんどが、そのような単純な労働システムだったわけです。

 仕事を探さなくても、腕が上がれば、上級バンドのほうから、うちにこないかと誘いがきます。

 そちらに移るときには、前もって自分の後任者、つまり自分と同じ楽器のプレイヤーを捜して、やめるバンドに入れ、仲間に迷惑をかけないようにする。これがこの業界の鉄則でした。

 次のメンバーを探すときは、今いるバンドよりも、下級ランクの中から、ということになります。話がつくと、今度は後任に選んだ者が、同じように自分の後釜を捜すことになります。こうして連鎖的に次々と、後任者探しが続く。だからどこかのバンドで一人動くと、バンド界全体が影響を受けるわけです。

 通常の社会観念ですと、職場を辞めるのに、自分の後釜探しなどしないでしょう。しかしバンド界では、一人辞めると、その楽器のプレイヤーがいなくなり、まともな演奏ができなくなる。当然、そんなバンドなど、雇うところはありません。

 とにかく、腰の落ち着かない職業で、バンド名の入った名刺などは作れません。肩書きの部分には、自分の演奏している楽器の名だけが入ります。

 私も当初は転々として、所属バンドを変えていました。ところが芸能生活後半の十年以上は、居心地がよいので、同じバンドに居座ってしまいました。

 そのバンドの看板歌手、K君の人気が、急上昇して安定し、スターと呼ばれるようになったせいです。バンドの格自体が上がったので、私はもう動かなくても、収入が安定したからです。

 K君とはうまが合い、ともに過ごした年月の間に、いさかい一つしたこともありません。

また、私が年長者だったせいもあり、彼は私に、とても気をつかってくれました。

 こうしてその日その日、バンドの連中と冗談を言い合い、ケラケラ笑い合いながら、まずはのんびりと過ごしていたわけです。

 しかし、いったん将来のことを考えると、強烈な不安感に襲われました。自分に音楽的な才能がないのは、はじめからわかっていました。この世界で、いつまでも生きてゆける自信など、まるでありません。

 だから、早く安定した職に移らなければ。そう焦るものの、転業のチャンスはなかなかつかめません。年齢を重ねるにつれ、その不安は大きくなるばかりです。

 一般会社の仕事に、なんの知識もない人間を、雇ってくれる企業があるはずはありません。だから私は、どうにでもなれと居直って、あとは運命の流れに逆らわず、身を任せていたわけです。


 私は高校卒業後、慶應義塾大学の文学部に入りました。国文学が、とても好きだったからです。趣味の楽器を弾きながら、残りの時間を国文学に触れて過ごす。まさに理想の大学生活です。

 父は銀座近くの事務所で、こじんまりと、事業をしていました。社員もそれなりにいたようでしたが、時折彼等を連れて、のんびり箱根で遊んできたりしていました。

 大学に入った当時、私は金の心配とは、まるで無縁でした。ところが、二年に進級する頃から、家の経済面が激変します。

 いわば、大津波といった天災に襲われ、家も家財道具も、一挙に失った状態になったのです。

 その上、肝心の働き手の父親が、すうっと姿を消してしまいました。どこに行ったのか、いくら探してもわかりません。音信はまったく不通です。

 詳しい事情は、知りませんが、事業の失敗で大きな借財が生まれ、その始末がこれだったということでしょう。

 このシリーズに、「人生旅日記」というタイトルをつけました。漠然とではあっても、将来について希望や見通しがあって、それに向かって進んでゆくのが、ほとんどの人だと思います。

 私の場合も、父の会社の倒産までは、そう言えました。しかし裸一貫になった後は、自分の意志など、入り込む余地などなく、運命の流れに身を任せるしかありませんでした。

 だから、確固とした目標も立てられず、そのときに足が向いた方向に、歩くだけといった形です。


 以前、時代劇で、やくざの流れ者を、ヒーローにする小説が大受けしたことがあります。

足の向くまま旅から旅に。彼等にも、それなりの信念はあるものの、とにかく先の目標もない旅烏。しかし、明るく楽しげに生きている。

 私の人生も、同じようなものとも言えます。気がつくと、白髪頭になっています。しかしそれなりに、充実した人生だったと、後悔はありません。

 このシリーズが書けるのも、人とは少し違った体験をしたせいです。そしてその体験を、文章にすると、それを読んで下さる方がいる。私は今、とても幸せだと思っています。

 私はこれまでの人生で、崖っぷちに立たされるような目に、何度も遭ってきました。しかし、どれもなんとか乗り越えてきました。そしてここで私が強調したいこと。それは、そのたびごと、思いもよらない救いの手が、いきなり伸びてきたということです。

 不思議としか言いようのない偶然が、何度となく、私を助けてくれました。そのことは、私の人生の旅路のわかれ道に、いつも誰かが立ててくれる、道しるべのようなものでした。

 それはまた、別のストーリーで追々語ってゆくこととして、今回はバンドの仕事で行った岐阜でのお話です。


       ◇◇◇


 さて、K君の話にもどりましょう。

 あるとき、岐阜で公演があって、K君にお呼びがかかり、専属バンドともども、現地に向かいました。

 公演を終えたあと、主催者が準備してくれた旅宿に入ります。そこは長良川のそばにあり、風格のある建物でした。

 山が川の向こうにそびえていて、岐阜城も見える。旅宿に入ると、宿のご主人と番頭さんが、連れ立って部屋にあいさつに見えました。

 K君の前に座ってご主人は、

「当館にお泊まりいただき、ありがとうございます」

 と、丁重にあいさつされたあと、色紙に筆墨を添えて、K君の前に差し出しました。

 K君は名の売れた芸能人なので、どこに行ってもこのように、色紙にサインを頼まれます。

 そんなとき、彼は色紙の右端上に、相手の名を書きます。中央には、今ヒットしている自分のレコードの曲名。そして左端の下に、自分の名を入れます。

 K君が手を伸ばして、色紙を自分の前に引き寄せようとしたそのときです。K君のわきに座っていた私に、アイデアがひらめいたのです。

 とっさに私は横から、宿の人に声をかけました。

「少しお時間をください。色紙は後ほど、お渡ししますので」

「では、よろしくお願いします」

 そう言い残して、宿の人たちは座を立ちました。姿が消えるのを待って、私はK君に言いました。

「曲の名を書くだけじゃ、味気ないよ。たまには、気のきいた句を書いたらどうだろう」

 私はメモに、つぎのような句を書いて、K君に渡しました。

「佐保姫の 春立ちながら 夜寒かな」

 私は彼に、句の意味を説明します。

「佐保姫というのはね、春の女神なんだ。春が来ると、佐保姫が天から降りてくる。春霞の衣をまとってね。そして地上を飛び回る」

「神様の使い姫なんだね」

「そう。あまり有名じゃないけど、佐保姫を祀った神社もあるんだよ。春、という語の枕詞まくらことばなんだ」

「枕ことば、ねえ」

「ああ。和歌で使うのさ。ある言葉の前につける決った修飾語のこと。たとえば、光、という言葉の前に、ひさかたの、とつける」

「ああ、思い出した。ひさかたの光のどけき春の日に、とかいう和歌を習ったよ」

「そう。だから、枕詞なんか、意味を読み取るときには、消したっていいさ」

 芸能の仕事中だというのに、国文学の話になりました。私は、メモに書いた句を、改めて読んで聞かせます。

「この句の意味はね、春が来たというのに、まだ夜は寒いな、ということさ」

「今夜もそうだなあ。春なのに、冷え込んでる」

「実はね、ここのそばを、長良川が流れてる。この川の名の『ながら』を、さりげなく読み込んだのさ。佐保姫が空に舞う春が来たのに、ここ、長良川の夜は寒い。そのような意味合いだな」

「へえ。まさに、今、おれたちのいるこの場所だな、今夜の寒さなどを、うまく読み込んでる。そんな句があったんですか」

 私は、ニヤリと笑みを洩らしてから答えた。「こんな句なんかは、どこにもないよ。たった今、色紙を見た瞬間、俺が読んだ句なんだから」

「えっ、大谷さんが作った句なんですか」

「ああ。人に訊かれたら、君は、自分が作ったと、胸を張って答えていいよ」

「はあ、そうしますけどね。おれに句をつくる才能があると知って、みんなは感心するだろうな」

 K君はなかなかの達筆です。筆を取り上げて、さらさらと色紙の上に筆を走らせます。宿の人に渡すと、とても喜んでくれました。あの色紙、きっと額に入れられて、目につきやすい宿のどこかに飾られたことでしょう。多くの宿泊客たちが、鑑賞してくれたに違いありません。


       ◇◇◇


 あの句についてや、旅館での色紙のことは、これまで人に話したことはありません。私の三十台の出来事ですが、はじめて今日、すべてをお話することにしました。

 しかし、この話はこれで終わりではありません。ここから先に、句をめぐる非常に面白い裏話があるのです。

 この句には、実は元歌があります。それは、次のようなものです。


 佐保姫の 春立ちながら しとをして


 この句の三句目の五文字を、「夜寒かな」と、私がとっさに変えた、というのが真相でした。

 まず、この元歌の意味を説明しましょう。説明がないと、多分、どなたも意味が不明ではないかと思います。

 春の朝、野原を歩いてみてください。草の葉には、夜露がいっぱいたまっていて、着物やズボンの裾は濡れてしまいます。

 なぜ草の葉に、水がたまっているのか。それを解き明かしたのが、元句なのです。

 元歌の句意はこうです。「あれは、佐保姫が、立ちながら用を足したから」

 春が来たので、春の女神、佐保姫は出番到来とばかりに、空から地上に降りてきます。おそらく、三保の松原に舞い降りた天女と同じように、優雅な裳をまとっていたことでしょう。そして春の女神にふさわしく、身の周りを、厚く霞が包み込んでいたと思います。

 地上からあまり高くない位置を、佐保姫はゆっくりと浮遊する。早春の草地の光景を、存分に鑑賞します。

 こうして時間をつぶすうち、尿意をもよおしてきました。そこで、地上に降りる。そして立ったままで、しと、をします。


 私は以前、高貴な姫君が、長時間、野外に出たときの様子を、本で読んだことがあります。姫君が尿意をもよおすと、一言、乗り物の中から、お付きの女性にそれを告げます。

 姫君の乗り物は行列を離れ、林の中に移動します。そして、姫君は外に出る。

 このときには、別なお付きの女性たちが、何人も手に畳んだ大きな布を持ち、行列から離れて、姫君の周りを囲みます。

 彼女たちは、布の端を持って拡げ、捧げ持つ。そうやって姫君と、世話係の女の姿を隠すのです。これで姫君と付き添いの女性一人、合わせて二人の姿は、幕に包まれて外からは見えません。

 姫君は傲然と胸を張って、立っています。あとは、付き添いの女性が姫君の衣服に触れて、準備を整えます。

 姫君は手を一切使わず、背筋を伸ばしたままで、用を済ませます。終わると、女官が衣服を整える。そして取り囲んでいた幕持ちの女性たちも、幕を畳んで、その場を去ります。

 姫君は、最後まで姿勢を崩さず、乗り物にお戻りになる、というわけです。

 つまり姫君とは、立ちながらしとをするものだと、決っているのですね。


 春の草原が濡れているのは、佐保姫が立ちながら用を済まされたからだ。句の意味は、そうなります。

 これで一応の説明はつくのですが、細かく考えると、納得のゆかない点が出てきます。草原の一箇所だけが濡れていたのなら、わかるのですが、露はあたり一面に降りていた。(さあ、この謎をどう解くか)

 真面目な顔になって、私は考え込んだ。そして苦笑とともに、うなずきました。

(合理的に解こうとしたって、出来るわけはないぞ)

 女神様が出てくるというのは、神話の世界。神様だからこそ、空中を自由自在に飛び回れる。人間離れした超能力の持ち主なら、われわれの想像を超えた動きもできるはず。

 私は女神の姿を、思い切り膨らませて、人間離れした、超巨大な女神像を、イメージの中で描きました。春を楽しもうと、その女神様は天から地上に降りてきた。

 足は地面にはつけず、直立した姿勢のままで、地上から少し離れた高さで、ふわふわと飛び回って遊びます。そのうち、尿意を覚えます。

 佐保姫は少しも慌てず、この浮遊を続けながら、ゆっくりと時間をかけて、それを処理した。これで、あたり一面の草は、露に濡れます。姫と呼ばれる高貴な身。その矜持のせいで、胸を張った独自の直立スタイルは、終始、少しも乱れることはありません。

 以上、勝手に私なりの解釈を加えてみました。国文学の視点からは、どのように読むのか、私にはわかりません。

 佐保姫は、空中散歩を楽しめるという、人間離れした超人なのです。でありながら、一方、生理的な用事も処理するという、あまりにも人間的な一面も持っている。

 それゆえ、ぐんと佐保姫に親近感を抱けます。

 色紙を依頼された瞬間、私にはいたずら心が湧き、K君にそんな句を書かせてしまいました。人に話せるような体験ではないので、今日まで私一人の胸に秘めていましたが、私のいたずらも、もう時効と思い、こうして一切を記したわけです。(おわり)


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