第29話 仕組まれた邂逅
「どうしよ! お母さん行ってしまうけど、こっちも気になる……」
エルネは先ほどまでの様子を、屋根の上から眺めていた。
もちろん直接見ているのはパックルで、エルネは小屋のベッドの上に腰掛けているのだが、やはり自分も行けば良かったと後悔していた。
そうすれば両方のあとを追えるのにと。
しかしその悩みは杞憂に終わった。
なぜなら、アルネラが席を立ち歩いていったすぐあと、カール・ノルティスに何か命じられた御者がアルネラのあとを追うように歩きだしたからだ。
「――なっ!」
エルネは思わず立ちあがった。
理由はわからない。
でも、自分の母は明らかにこの男を観察していた。
最初、死んだと聞かされていた父親なのではないか?
なんて考えもしたが、アルネラの様子からわからないでいた。
しかし、その疑問は今まさに吹き飛ばされた。
アルネラのあとを追うよう御者に命じた男の顔が、肌が粟立つほどに邪悪であったからだ。
「あの男、一体お母さんのなんなの?」
エルネは困惑しながらも御者のあとを追うようにパックルに命じた。
カール・ノルティスのことも気になるが、今は母を捨て置けない。
それに御者は用がすめばカール・ノルティスの元に戻るはずだ。
カール・ノルティスの行方はその時ゆっくり確認したらいい。
「用がすめば……? や、やっぱりヘルマに頼んで私も行けば良かった!」
ヘルマとはエルネが契約している狼の妖精獣である。
当初、ヘルマに乗り町までアルネラのあとを追うことも選択肢にあった。
しかし、不安はあるものの危険が差し迫っているわけでもないだろうとたかをくくり、また母に対する罪悪感から、パックルで状況を確認することを選んだのだ。
しかしパックルは戦う術を持っていない。
せいぜい、飛びかかって相手の目を眩ませることができる程度だ。
エルネは今すぐにでもヘルマに乗ってアルネラの元に急ぎたかったが、ふたりの行き先を確認する必要があるためほぞを噛む思いでただ見守った。
翌日、日が昇りきるのも待たず、エルネは人間の町に急いでいた。
白銀の大狼ヘルマに乗って。
「ヘルマ急いで! 私のことは気にしないでいいから、もっと早く!」
ヘルマは短く吠えると、激しく地面を蹴りあげた。
途端、体を大きく揺さぶられるエルネ。
しかしエルネはそんなこと気にする余裕もなく、昨日のことを反芻していた。
昨日あれから母と御者のあとを追ったものの、エルネが心配しているようなことは何も起こらなかった。
通りに行きかう人が少なくなかったからかも知れないが、アルネラは何事もなく仕立て屋に寄り、そして何事もなく宿へと戻っていった。
その様子を見て胸をなでおろそうとしたエルネであったが、しばらくその場で立ちつくしていた御者が不意に宿に入っていくのを見て、再び警戒を強めた。
御者は辺りにアルネラがいないことを確認すると、宿の主人に声をかけ、上着の内ポケットから何かを取りだして見せた。
その途端、宿の主人は大業に頭を下げ、カウンターの引き出しから一冊の帳簿を取りだしぱらぱらとめくっていった。
そのため、どのような会話がなされているかわからぬことにエルネは歯がゆい思いを募らせた
しかし、宿の主人が帳簿をめくる手を止め指さした文字を見て、エルネは途端に顔色を変えた。
そこには、母の名が書かれていた。
御者はその名を確認するとニヤリと笑み、懐から銀貨を取りだし店主に握らせた。
あからさまに喜んだ様子の店主が、御者にぺらぺらと何か話しているが、エルネにはそれに気を向ける余裕はなかった。
なんで……?
お母さんのことを調べてどうするの?
あの男は何者?
お母さんに何をするの?
エルネは居ても立ってもいられなくなり、飛び跳ねるようにベッドから立ち上がると外に飛びだした。
いつの間にか辺りには、夜のとばりが下りていた。
「お母さん……」
すぐにでも町に向かいたいエルネであったが、母の言葉を思い出しぐっと堪えた。
『夜は絶対に森に入ってはダメよ』
母との約束をやぶることを心配しているわけではない。
夜に森に入ってはいけない理由、それは狂暴な魔物が多く徘徊しているからである。
エルネにとって魔物は恐怖の象徴だ。
しかし、母の身を案ずるエルネにとってそれは克服できないものではない。
だが、エルネは歯を食いしばりながら堪えた。
なぜなら、万が一にも魔物に襲われたら母のもとに危険を伝えに行くことができないからである。
そして、ずっと母を見守りながら夜明けを迎えたエルネは、一刻も早くとヘルマを急がせていた。
「お母さん、すぐに私がいくからね!」
母の状況を確認できない不安に塗りつぶされないよう、グッと歯を食いしばりながら。
◇◇◇◇
アルネラは朝一番で宿を出ると、大きな荷物を抱え家路を急いでいた。
全てふっきれたような清々しい顔で。
しかし、その時は静かに近づいていた。
それはアルネラが町から遠く離れた山道を歩いている時である。
「ふふふ、エルネ喜ぶかしら。あの子にはずっと我慢させていたんだもん。これからはいっぱい幸せになってもらわないとね」
今にでも鼻歌を歌いだしそうなほど上機嫌なアルネラであったが、しっかりと辺りの警戒を怠っていなかった。
町のギルドが定期的に討伐を行っているためさほど数は多くないが、一応魔物が生息している山である。
今までにも何度か魔物に遭遇したことはある。
この山の魔物は脅威度が低いため、魔物の嫌う香木が詰まった匂い袋で簡単に追い払えるが、遭遇しないに越したことはない。
戦いに長けていないアルネラにとっては尚更である。
そんなことからしっかりと辺りを警戒していた。
そのつもりであった……。
しかしそれは突然に現れた。
アルネラが歩く道は深い藪で囲まれているため、確かに視界は開けていない。
しかし、幼少の頃からエルフの里で狩猟のノウハウを叩き込まれていたアルネラは、索敵能力にだけはそれなりの自身を持っている。
そんなアルネラが、こんなに接近されるまでその存在に全く気付かないなんてあり得ない話であり、その事実がアルネラをひどく困惑させた。
しかし、アルネラを困惑させる一番の理由は別のところにあった。
それは目の前に現れた魔物が、この山には到底似つかわしくないほどの狂気を撒き散らしていたからであった。
「な、なんなの? こんなやつ……。見たこがない……」
一刻も早く対処しなければいけないこの状況に、アルネラはガタガタと体を震わせた。
それも無理はない。
アルネラの眼前に立つのは、下級ながらも残忍なデーモン種の魔物『オーレ・モーベレ』であるのだ。
ヘドロ色をしたその魔物には頭がついておらず、胴からはいくつもの突起がついた太い触手状の腕と脚だけが生えている。
体はタイヤでも腐らせたかのようにゴツゴツブヨブヨとした質感をしており、今にも臭いだしそうだ。
そして胴体には、縦に裂いたかのような大きな口がついており、幾つもの赤い肉ヒダの間から不揃いな臼歯を覗かせている。
その上の包皮から覗く小さな一つ目が女性器を連想させ、アルネラの心に嫌悪感をもたらした。
その醜悪な様相とデーモン種特有の威圧感が、アルネラの恐怖心に拍車をかけていた。
しかしアルネラはすんでのところで恐怖を振りはらった。
エルネを一人残す恐怖に比べたらどうということはない、と考えたからだ。
アルネラは目を背けたくなる気持ちを抑え、腰に結んでいる匂い袋を手に取ると、オーレ・モーベレの大きく開かれた口目がけて力いっぱいに投げつけた
グルウアアアアオオオオオオォ……
耳を塞ぎたくなる不快な叫びが、辺りに響き渡る。
その様子を好機と見たアルネラは、続けて自身が唯一使うことのできる攻撃魔法を唱えた。
『
途端、轟音とともにオーレ・モーベレ目がけて風が吹きすさぶ。
スキルレベルは低いものの、小型の魔物ならそのまま数メートルは吹き飛ばすこともできる威力だ。
しかしアルネラは、これでオーレ・モーベレを倒せるなんて思ってはいない。
戦いに慣れていないアルネラですら力の差が歴然とわかるほど、目の前の魔物は異常な威圧を発している。
しかし幸いなことに、この魔物は走るに適した形態をしていない。
恐らく全力で疾走したら逃げることは難しくないだろう。
そう考え、アルネラは呪文の発動と同時に、オーレ・モーベレの逆方向に全力で駆けていた。
機先を制した見事なタイミング。
このまま逃げ切れる!
アルネラがそう思ったのも束の間、風斬り音とともにオーレ・モーベレの触手状の右腕が伸び、アルネラは足首を捕まれ中空につり上げられてしまった。
「くっ! は、はなせえええぇ!」
そんな言葉を聞くはずもなく、オーレ・モーベレは大きな口から涎をしたらせアルネラを引き寄せる。
なんとか逃れようと必死に身をよじるが、拘束はとけそうもない。
いちかばちか、捕食の間際に包皮に包まれた目玉を突き刺してやると、腰のショートソードに手を伸ばしたその時……。
『
どこからともなく飛んできた巨大な火球が、オーレ・モーベレの右腕に着弾しアルネラを解放した。
「大丈夫ですか!」
ふいに重力の影響を受けうずくまる様に着地したアルネラのもとに、誰かが駆け寄ってきた。
顔を上げると、武装した一団を引き連れた壮年の男性が立っていた。
忘れるはずもない人物。
大小様々な宝石をあちらこちらにつけた男。
愛した人の仇、カール・ノルティスである。
その瞬間、アルネラは一連の出来事が全て仕組まれたものだと理解した。
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