第28話 残された希望

 目を覚ますとそこは病院のベッドの上だった。


 アルネラは、初めなぜ自分がそこにいるのか理解できなかった。

 しかし、握りしめられていた手を開いた時にこぼれ落ちた指輪を見て、全てを思いだし悲鳴をあげた。


 慌ててやって来た看護婦に、体を抑えつけられながら何かを飲まされると少し心が落ち着いた。


 アルネラは、心配そうに様子を伺う看護婦にエドガーのことを聞いてみた。

 看護婦は優しくアルネラを抱きしめると、静かにエドガーの死を告げた。


 その言葉をきいた途端、アルネラは音がなるほどに歯を食いしばった。


 最愛の人を奪った仇、カール・ノルティスを殺さなければいけない。

 それを成すために、涙を流すことで緊張の糸が切れてしまうことを良しとしなかった。


 自分には、もう復讐以外何もないのだから。

 アルネラは気を抜くと決壊しそうな悲愴な思いを、無理やり押し込めた。


 そしてアルネラは看護婦に、カール・ノルティスについて訊ねた。

 看護婦は、先日まで欠かさず見舞いに顔を出していたが家の事で急遽ノルティス地方に帰っていったと言った。


 アルネラは、その光景を想像し、わなわなと身を震わせた。


 何たる凌辱か。


 自分の知らぬ間とは言え、最愛の人を殺した相手に素知らぬ顔で毎日見舞われていたのだ。


「気持ちはわかるけど気を落ちつけて。あなたは3日の間ずっと眠っていたのだから」


 何も事情を知らないで何がわかると言うの!

 そんな不満が言葉となり漏れでようとするが、それは看護婦が続けた言葉により霧散していった。


「それに、あなたの体はもう自分だけのものじゃないのよ」

「……え?」

「あなたの体には、あなたと旦那さんの赤ちゃんがいるんだから」


 言葉の意味を理解したとき、アルネラの目から止めどない涙があふれた。

 自分には何も残っていないと思っていた。

 憎悪を糧に、ただ人を殺すことだけを考える人生なのだと。


 しかし残っていた。

 エドガーは残してくれていた。

 それもとびきりに大きな、自分と愛する人との希望が。


「ありがとう……。ありがとう……」


 アルネラは誰にいうでもなく何度何度も呟いた。

 涙と鼻水を滴らせたとても美しい笑顔で。


 アルネラは翌日の朝、なかば無理やりに退院した。


 お腹の子のことを思えば、医者と看護婦が言うとおり体を労わるべきだとはわかっている。

 だが、今は一刻も早くこの地を離れたかった。


 もしカール・ノルティスを見てしまったら、きっと抑えることができないから。


 子爵の子の陰謀を暴こうとしても誰も信じてくれない。

 例え信じてくれたとしても、手を貸すものは誰もいないだろう。

 となると、できることとなれば刺違えるだけ。

 少し前までは返り討ちにあってもいいとさえ思っていたし、もちろん今でも殺したいほどに憎んでいる。


 しかし今のアルネラは生きる必要がある。


 エドガーとの子を産みたい。

 成長を見守りたい。

 そのためには何としてでも生き抜いてやる!

 そう決意していた。


 アルネラは帰宅するとすぐに荷物の整理をした。

 決して裕福ではなかったが贅沢をしていたわけでもないので、エルフの里までの路銀はじゅうぶんにある。

 しかしもう帰ってくることは無いだろうと考え、エドガーの使っていたショートソードを残し荷物は全て処分した。

 扱えもせぬ剣ではあるが、腰の剣帯に刺すと不思議と安心感に包まれた。


 そしてアルネラはお世話になっていた酒場に顔を出し、実家に帰ることを告げた。

 店主や同僚たちは、そのまま身投げでもするのではないかと大層に心配してくれた。


 お腹の中に子供がいるので出産するまで両親の世話になるつもりだと告げると、少しばかりだがと同僚たちはカンパを店主は退職金を手渡してくれた。

 どこに帰るのかと聞かれたが遠いところとだけ伝え、アルネラは皆に頭をさげ村を後にした。




 思いきって村を出たのはいいものの、エルフの里の同胞たちは人間の男に嫁いだアルネラを快く思っていなかった。

 しかし事情を説明しほかに頼る宛もないと泣きついたところ、極力ほかのエルフたちに干渉しないこと、子供が10歳になったら里を出ること。

 その2つを条件に住まうことを許してもらえた。


 それからしばらくして、アルネラは女の子を出産した。

 エドガーに似た目元に、エドガーと同じ髪色をしたわが子を見てアルネラは喜びの涙を流した。

 ふたりの名前を取りエルネと名付けた。


 里での生活は冷たい視線を向けるものも少なくなかったが、エルネがすくすくと成長していく毎日にアルネラは幸せを感じていた。

 ただひとつだけ、エルネが里の子供たちと遊ぶことを許可してもらえないことだけが不憫であった。


 アルネラがそのことを申し訳なさそうにすると


「たくさんの本と動物たちがいるから寂しくないよ」


 とエルネはいつも笑顔で答えていた。



 やがてまた月日は流れ、エルフの里を出たふたりは人間の村から遠く離れた場所にある、小さな山小屋で毎日を送っていた。


「じゃあ、母さんは町に薬を売りにいってくるからね」


「私も行きたい!」


 絹糸のような黒髪を肩まで伸ばした少女が、必死な形相で母親の手を掴んだ。


「だめよエルネ。人間の町は私たちにとってはとても危険な場所なの。エルフの里でもそう教えられたでしょ?」

「でも……」

「もっと大きくなったら連れていってあげるから」

「いつもそう言ってるもん」

「じゃあ、エルネが12歳になったら連れて行ってあげる」

「えー、まだ1年以上もあるよ」

「エルネが大好きな本を買ってきてあげるから、ね」

「うーん、わかった……。気をつけてね」


 まだ納得していないエルネであったが、母親の困り顔を見て仕方なく頷いた。


「いつもごめんね。じゃあ、行ってきます」


 エルネのそんな気持ちを知りつつも、アルネラは人間の村にエルネを連れていくことに対してまだ心の整理ができていなかった。


 わが子の将来を考えれば、このまま誰とも関わらせない訳にはいかない。

 しかし、もし万が一エルネまで失ったら……。


 エドガーを失ったときに根付いた人間への懐疑心。

 それはエルフの里で10年あまり過ごしている内に、簡単には拭えないほどに深くアルネラの心を侵食していた。



「さーて、今日は何をしよっかな」


 エルネはだんだんと小さくなるアルネラの背を見送りながら、わざと明るい様子で声にした。

 エルフの血を引いているため大人びた顔立ちをして見えるが、10歳の少女であるエルネはやはり母親と離れるのは寂しくて仕方ない。

 こんな人里離れた山奥には他に暮らすものなどいないため、その思いはひとしおだ。


 しかしエルネは、寂しさを紛らわす変わったひとり遊びの方法を持っていた。


「よし決めた。今日はパックルと遊ぼっと」


 そう言うとエルネはどこから取りだしたのか、装飾された分厚い本をおもむろに開いた。


夏の夜の夢フェイズコミック


 エルネが唱えると、眩い光とともに1羽の青い小鳥が勢いよく本から飛びだした。

 小鳥は青い光の尾を引きながら、クルクルとエルネの周りを飛びまわっている。


「パックルこっちよ」


 パックルと呼ばれた小鳥がエルネの言葉に導かれ、青い光の軌跡を中空に描いていく。


 エルネの持つ固有スキルユニークスキル夏の夜の夢フェイズコミック』とは、主従の契約をした妖精獣を魂力で具現化した本から召喚することができるスキルである。

 召喚した妖精獣に命令を下すこともできるが、それに応じてもらえるかは信頼次第である。


 エルネはどうかというと、幼少の頃村の子供たちから隔離されていたエルネは、いつも妖精獣たちと遊んでいた。

 そんなため、主従と言うよりも友達のような関係ではあるが、互いに信頼は十分である。


「じゃあパックル、今日もお願いね」


 追いかけっこをしたり、股の間をくぐらせたりとひとしきり遊んで満足したエルネは、パックルに声をかけた。

 すると、パックルはエルネの望んだ通りに光の軌跡を残し、ロケットのような勢いで空に消えていった。


 エルネはそれを見送ると小屋に戻りベッドに腰掛け、綺麗に装飾された本を覗きこんだ。

 そこには、凄まじい勢いで流れていく空の景色が写り込んでいた。


 夏の夜の夢フェイズコミックの特殊能力のひとつで、妖精獣の視覚情報をモニターのように本に表示させているのだ。


 エルネはこの特殊能力を使い、しばしば人間の町を観察していた。

 勝手に人間の生活に触れていることを快く思わないだろうと母親に黙っていため、少なからず罪悪感はあったが、そんな気持ちを吹き飛ばすくらいにエルネにとって人間の町は魅力的であった。


 エルフの里よりも華やかな町並みを眺め妄想しているだけで幸せな気分になれるし、楽しそうに駆けまわる子供たちの周りを飛んでいると、まるで一緒に遊んでいるような気分に浸ることができる。

 その日の気分によって行く先は様々、楽しみかたも様々であったが、エルネには1か所だけ必ず立ちよるお気に入りの場所があった。


 それは人間の学校である。

 通っている子たちの中には、勉強なんてとこの場を嫌っている者もいるかも知れない。

 しかし知識欲が旺盛なエルネにとっては、まさに格好の遊び場であった。


 エルネは母親の目を盗んでは校庭に植えられた記念樹の一枝にパックルを陣取らせ、教室の板書を真剣な目つきで眺め様々なことを学んでいった。

 この頃のエルネのひとり遊びが、エルネを優秀な教育係たらしめた一因だと言えるだろう。


 このように、エルネの幼少時代は普通の10歳児の生活とはだいぶかけ離れていた。

 しかし色々と不満はあったものの、決して悪くはなかったと言えるだろう。


 少なくとも、エルネとアルネラは幸せだと感じていた。

 それだけエルネがアルネラを愛し、また、アルネラもエルネを愛していたのだ。


 しかしこんなささやか幸せも、ある日を境に陰りを見せていくのであった。


 それはエルネが12歳の誕生日をあと2ヶ月で迎えることができると、わくわくしていた頃のことであった。


 いつものように、薬を売りに行くとアルネラが町に出かけた。

 そしていつものように、ひとり遊びをしながらアルネラの帰りを待っていたエルネ。

 しかし、アルネラはいつもと同じようには帰ってこなかった。


「お母さんどうしたんだろう? いつも遅くても3日くらいで帰ってくるのに」


 エルネが心配するのも無理はない。

 アルネラが家を出てからすでに6日がたっていた。


 何度かパックルに頼み上空からの探索を試みたのだが、山の木々が視界を遮り思うような効率を上げることはできなかった。

 焦りと不安で意味もなく小屋の中をうろうろとしていると、エルネはふと以前アルネラに言われたことを思いだした。


 エルネとアルネラが住む小屋の屋根裏には、秘密の貯蔵庫がある。

 そこにはふたりで半年は暮らせるほどの干し肉や干し野菜、豆類などの保存食が蓄えられている。


「もしもお母さんの帰りが遅くなって用意しておいた食べ物がなくなったら、これを食べるのよ」


 初めてアルネラがエルネを残して人間の町に行くときにそう教えられた。

 そしてその時の会話には続きがあった。


「で、もしもそれも食べつくしてしまってどうしようもないってなった時は、貯蔵庫の奥にお金を入れた包みを隠してあるからそれを使いなさい」

「ええ! そんなに帰ってこないの? やだ、絶対にやだ!」

「大丈夫よ。お母さんも大好きなエルネに会いたいんだもん、すぐに帰ってくるわ」

「ほんとに?」

「ええ本当よ。でも途中で大雨が降ったり、魔物を避けて遠回りしないといけないかも知れない。そんな時のために、今いったことはよく覚えておいて欲しいの」

「魔物でるの?」

「安心して。ここにはエルフの里のご神木で作った守り木があるから、余程のことがない限り安全よ」

「違う! お母さんが!」

「大好きなエルネ優しい子。お母さんの心配をしてくれるのね」

「当然だもん。私も、私も一緒にいく……」

「大丈夫よエルネ、お母さんにはお父さんが残してくれたこの剣があるんだから。それに、お母さん強いのよ」


 母親が剣を振っているところなど見たことがないエルネ。

 その母親の言葉が、自分を安心させるための嘘だとすぐにわかった。

 だが、自分がついて行くと足手まといになり困らせてしまうだろうと思い、それ以上は何も言わなかった。


 その時の会話を思い出し、エルネは小屋を飛びだし空を見上げた。


「雨ふってない! もしかして、お母さん魔物に……」


 眼前の青空とは対照的に、エルネの心に暗雲が広がっていく。


「やっぱりお母さん――」


 エルネが居ても立ってもいられず、駆けだそうとした瞬間


「お母さんがどうしたの?」


 聞き覚えのある声がエルネの耳に届いた。


「お、お母さん!」


 声の方を向くと、大きなリュックを背負った大好きな母親が立っていた。


「遅くなってごめん。心配かけちゃったねエルネ」

「ほ、ほんどに、心配じたんだがらぁあああ」


 緊張の糸がとけたのか、エルネは大粒の涙を撒きちらし勢い良くアルネラに抱きついた。

 アルネラは何度も謝り、エルネの震える背中を優しく撫でてくれた。


 やがて少し落ち着きを取り戻したエルネが調子にのった様子で


「次から私もついて行くから!」


 と自信満々に言ったところ


「それはそれ、約束は約束」


 とアルネラに笑顔で一蹴されてしまったのは蛇足だろう。


 兎にも角にもエルネは安堵し、その日の晩はこれでもかとアルネラにひっつき幸せそうな顔で眠りについた。


 しかし、エルネの安堵は長く続かなかった。

 次の日の朝、ご飯を食べている時に、アルネラが今日も人間の町に行くと告げたからだ。


「えっ! なんで?」


 エルネが驚きのあまり立ちあがったのも仕方がない。

 アルネラが人間の町に行くのはいつも月に3度である。


 往路が大変だという理由もあるが、アルネラはエルネとの時間をとても大切にしている。

 なのでいつも大量に薬を作り持って行き、大量に食料や日用品を持って帰るのだ。

 そんなアルネラが6日帰ってこないだけでも珍しいのに、休む間もなく人間の町に出かけるなど有り得ないことなのである。


「人間の町で病が流行っていてね、準備していた薬じゃ足りなかったの。だからまたすぐにでも持っていかないと」

「ま、また遅くなるの?」

「なるべく早く帰るようにするわ」

「私も行く! 私いつも勉強してるから、お手伝いだってできるし」

「だめよエルネ。あなたにまで何かあったら、お母さん生きていけないわ」


 その後も負けじと懇願するエルネであったが、アルネラが首を縦に振ることは決してなかった。

 エルネは泣く泣く母を見送った。


 アルネラが帰ってきたのはそれから7日後であった。


 そんなことが何度か続いたある日、ついにエルネの我慢が限界をこえた。


「じゃあパックル、お願いね」


 パックルはピィと一鳴きすると、青い光の軌跡を描き木々の間を縫うように飛んでいった。


 すぐに目的の人物は見つかった。

 大きなリュックを重そうに背負い歩く人物、アルネラである。


 エルネはアルネラのことを信用していた。

 信用していたからこそ、この頃のアルネラの行動には見過ごせないものがあった。


 自分のことを愛する母が、理由も話さず長く家を空けるには何か訳があるはずだ。

 その話せない訳が、危険なことでなければそれでいい。

 後ろめたい気持ちはあれど、母のためにも自分のためにもそれを確認しなければいけない。

 そう思い、渋々ながらアルネラの尾行を決行したのである。


 一方アルネラは、尾行されていることなど露も知らず人間の町に急いでいた。

 自分がどうしたいのか、どうするべきかわからないままに。


 ここ最近のアルネラの不審な行動には訳があった。


 アルネラは生活の糧を得るべく、定期的に人間の町に通っている。

 道程は大変ながらも、愛娘のことを思えばどうということもなかった。

 行く道はひとり待つエルネの寂しがる顔を、帰る道は土産に喜ぶエルネの顔を思い浮かべると、自然と歩みも軽快になった。


 しかし、それはたまたま起きた。


 持ってきた薬を売りさばき、生活に必要なものも全て買い、残すは今回の一番の目的、もうすぐ12歳の誕生日を迎えるエルネに服を贈るため、仕立屋を探していた時であった。


 初めて人間の町を訪れる際、エルネはきっとおしゃれがしたいはずだ。

 それが女の子である。

 エルネの喜ぶ顔を想像すると、自然と自身の顔も綻んでくる。


 しかし、豪奢な馬車が停められた、ある高級そうな仕立て屋の前を通りかかった時、アルネラはその顔を凍りつかせた。


 大仰に店主におくられるひとりの人物。

 長い時が流れたため以前よりだいぶ印象が変わっている。

 しかしその顔だけは、何があっても忘れるはずがない人物。


 それは最愛の夫の仇、カール・ノルティスであった。


 一瞬のうちに、アルネラの中にあらゆる感情が沸きあがる。

 脳が情報を処理しきれず、ただ足を止め凝視することしかできない。


 その不自然な視線を感じたのか、カール・ノルティスは馬車に乗りこもうとしたその時、ふとアルネラの方を振り向いた。


 いまだ呆然としているアルネラ。

 そして互いの視線が交錯する。


 しかし、逆光のせいかカール・ノルティスはアルネラに気づくこともなく馬車に乗りこむと、その場を去っていった。


 ただアルネラだけが見えていた。

 いや、見えてしまったと言うべきかも知れない。


 カール・ノルティスの顔を見た瞬間、アルネラは体に何かドクリと脈打つものを感じた。

 それがどういう類いのものか、自分は一体どうしたいのか、すぐに判別するにはあまりにも長い年月がたっている。


 が、なかったことになど到底できる筈もなく、この日を境にアルネラは、危険と感じつつもカール・ノルティスについて探り始めたのであった。


 そんなアルネラが、エルネの尾行に気づかぬまま人間の町に到着した。

 アルネラはまず、懇意にしている薬屋や医院に持参した薬を納品して回った。

 そしていつも泊まっている宿に荷物を置くと、眼鏡と帽子で変装をし目的の場所へと急いだ。


 アルネラは、以前カール・ノルティスを見かけた仕立て屋の店主から、情報を買っていた。

 カール・ノルティスとはどんな人物なのか、どこに住んでいるのか、この町には何をしに来ているのか?


 当然のように、店主はアルネラを訝しんだ。

 しかしアルネラが妖艶に微笑みながら手を握り銀貨を渡すと、嫌らしい視線を向けながら話してくれた。


 その情報によると、カール・ノルティスはこの仕立て屋の服を大層気に入っており、月に2度訪れるとのことだ。

 そして今日がまさしくその日で、それに合わせアルネラは町を訪れたのである。


 アルネラは斜向かいにあるカフェに陣取ると、紅茶を飲み静かにその時を待っていた。


 しばらくすると視界の先から、砂ぼこりを上げ近づいてくるキャリッジの馬車が見えてきた。

 豪奢とも言える装飾ではあるが、ゴツゴツと無駄に派手な趣味の悪い馬車だ。

 やがてキャビンを引く馬が歩みを止めたのを見て、アルネラは固唾を飲んだ。


 御者が馬留に止め縄を繋ぎ、ゆっくりとキャビンの戸を開く。

 迎えに出ていた仕立て屋の店主が、大仰に頭を下げている。

 そしてその男は現れた。


 仇の男カール・ノルティスである。


 その姿を見て、アルネラはわなわなと震えた。

 そしてカップを震わせながら残っていた紅茶を飲み干すと、腰のショートソードに手をあて目を閉じた。

 エドガーの形見のショートソードである。


 やがて体の震えが止まった頃、アルネラはおもむろに席を立ちツカツカと歩きだした。

 そして馬車を一瞥すると、そのままその場を去っていった。


 アルネラが今日人間の町に来たのは、決着を付けるためである。


 どうしたいのか?

 どうするべきか?

 いまだ分からぬ自分の感情に対して、決着を付けるために。


 まず、怒りが湧いてきた。

 そして深い悲しみと、どす黒い殺意。

 衝動がアルネラを塗りつぶそうとしたその時……。


 ふと、エルネの顔が浮かんだ。


 今すぐにでも駆けて、このショートソードを憎き者の背に突き刺したい。

 早鐘のようになる鼓動が『殺れ! 殺れ!』と命令している。


 しかし体を動かすことができなかった。

 死ぬことが怖くて怖くて仕方ないのだ。


 痛みは怖くない。

 返り討ちにあい思いを果たせぬ無念も怖くない。


 ただ、エルネと別れることが怖かった。

 愛する娘をひとりこの地に残すことが、怖くて仕方なかった。


 アルネラが何もせず去っていったのは、この恐怖に打ち負けた訳ではない。

 エドガーへの愛は今も陰ることはない。

 復讐を果たしたい気持ちも溢れんばかりだ。


 ただ、一番大事なものは何か、どうすべきかに気が付き、自分の気持ちに決着を付けたのであった。


「エドガー、私はエルネとこの世界を生きていくわ」


 アルネラは呟くと、リーズナブルながらも丁寧な仕事をすると人気の仕立て屋へと急いだ。

 最愛の娘へのプレゼントを受け取るために。

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