愛しているから召し上がれ

神無月もなか

愛しているから召し上がれ

 昔々、今よりもうんと昔。まだ天の世界と地上の世界に交流があった頃。

 この世界には、心優しい天使様がいました。

 天使様は地上が混乱に満ちたときに現れるお方で、一点の曇りもない優しさと無償の愛で地上の世界を癒やしてくれました。


 天使様が持つ力はとても大きなもので、どんな怪我も、どんな病も、天使様にかかればあっという間に治りました。

 そして、感謝する地上の人々に、天使様はいつも決まってこう口にしていました。


『可哀想な子たち、また私たちの力が必要になればいつでもお呼びください』

『あなたたちが必要としてくれる限り、私たちは何度でもあなたたちを癒やしましょう』


 優しく心に響くそのお声は、地上の世界に生きる人々の心を支えました――。





「またその本、読んでるの?」


 夏の空気を含んだ優しい風とともに、まだ少し高さが残る少年の声が屋敷の中に入り込む。

 上半身を起こした状態でベッドに寝そべり、いつものように本を読んでいたフロレアは顔をあげ、窓際にいる彼へ笑顔を浮かべてみせた。


「本当にフロレアは“天使様”のお話が好きなんだね」

「だって、素敵じゃない。無償の愛で生き物を救う天使様。ギーゼルヘルは好きじゃないの?」

「そこまで好きじゃないかな」


 そういって、開かれた窓に両腕をつき、少年――ギーゼルヘルは苦笑いを浮かべた。

 原因不明の謎の病魔に冒されているフロレアと、いつも怪我をしているギーゼルヘル。二人が出会ったのは、今から数年前の春の日だ。

 その頃のフロレアは今ほど体調が悪くなく、医者から許しが出た日であれば少しだけ外を出歩くことができた。そのときにメイドとともに森へ散歩に出かけ、奥にあった花畑で出会ったのがギーゼルヘルだった。


 陽に当たるときらきら輝く銀髪に、母なる海を思わせる深い青色の瞳。身体のあちこちに包帯を巻いた傷ついた姿でも美しいギーゼルヘルの姿をはじめて見たとき、フロレアは感動に近い感情を抱いたものだ。

 最初はギーゼルヘルに逃げられてしまったが、何度か花畑に通ううちに親しくなった。今では外に出られなくなったフロレアへ会いに、お見舞いの料理やお菓子を持って森の奥からフロレアの家まで来てくれるほどだ。


「ギーゼルヘルは、こういうおとぎ話は苦手?」

「苦手というか……受け入れがたいのかも。なんだか信じられなくて」

「そこが面白いのに」


 けれど、そこはギーゼルヘルの良いところだとフロレアは考えている。

 夢見がちな自分とは対照的に、いつも現実をしっかり見据えて物を考えられるギーゼルヘルのことが、フロレアは大好きだった。


「フロレアが見る世界は、いつも優しくて綺麗だね」


 眩しいものを見るかのように目を細めて呟いたギーゼルヘルの柔らかい声が、夏の植物たちの香りを孕んだ風とともに室内へ流れ込んでくる。

 彼はいつも持ってきてくれる蓋付きのバスケットを持ち上げ、それを窓からフロレアの部屋の中へ入れた。そうっとバスケットを一旦床に置き、窓枠に両手をついて身体を持ち上げる。そして、いつもそうしているように器用に窓枠へ腰掛けた。


 夏の光を含んだギーゼルヘルの髪は、はじめて出会ったあの日のようにきらきらと輝いていて――溜息が出そうになるくらい美しかった。

 再びバスケットを持ち上げてこちらへと差し出してくるギーゼルヘルへ、フロレアも穏やかな表情で返す。


「ギーゼルヘルが見てる世界は、いろんなものの真実がはっきり見えて素敵ね」


 そういいながら、フロレアはバスケットを受け取って蓋をちらりと確認した。

 この日、ギーゼルヘルが持ってきてくれたのは甘酸っぱい香りを口いっぱいに楽しめるクランベリータルトだった。





「ねえ、フロレアは本当に天使様がいたら何をお願いする?」


 もうすぐ夏が終わるという頃、いつものようにフロレアの下へやってきたギーゼルヘルがふいに問いかけてきた。

 いつも読んでいる天使の本から顔をあげたフロレアは、ベッドのすぐ傍に設置された椅子に座り、こちらを見ているギーゼルヘルを見つめ返した。


「突然どうしたの、ギーゼルヘル」

「フロレアはいつも天使様の本を読んでいるから、少し気になったんだ。もし、本当に天使様がいるのなら何を願うのかって」


 そういったギーゼルヘルの瞳は、フロレアの手の中にある本へと向けられる。

 フロレアたちが生きる世界に昔から存在している、有名なおとぎ話。全ての痛みや苦しみを取り除いた天使様と呼ばれる存在の物語。

 ある日、両親が買い与えてくれたこの本を、フロレアはもう何度も読み返しているが――本当に天使様がいたら何を願うのかなんて、あまり考えたことがなかった。


「んー……そうね……。あんまり、そういうのを考えたことはなかったんだけど……」


 一言、前置きをおいてから目の前にいるギーゼルヘルを見つめる。

 今日も身体のあちこちに包帯を巻き、頬や腕に血が滲んだガーゼを貼り付けた姿をじっと見つめてから、フロレアはわずかに笑った。


「ギーゼルヘルの怪我を全部治してくれるよう、お願いするわ」

「……え」


 フロレアの唇から紡がれた言葉に、ギーゼルヘルは目を見開いた。

 驚いて次の声が出てこないギーゼルヘルに穏やかな笑みを見せ、フロレアは優しく本の表紙を一撫でして続けた。


「きっと、私の病気は治らないと思うの。最近は少しマシになってきているけれど、どんどん悪くなってる」

「……フロレア……」

「でも、ギーゼルヘルにはまだ先があると思うの。きっと、長く生きられない私よりもギーゼルヘルのために祈ったほうが意味があるわ」


 そういって、フロレアはとびっきりの笑顔をギーゼルヘルに見せた。

 対するギーゼルヘルは、今にも泣きだしそうに表情を歪め、フロレアの華奢で小さな身体を力いっぱい抱きしめた。

 フロレアも、少年にしては細く、傷だらけの彼の身体を優しく抱きしめ返す。

 自身の腕の中で感じる体温がひどく儚いもののように感じられて、ギーゼルヘルは目から零れそうになる涙を必死にこらえた。


「今日のギーゼルヘルは泣き虫さんね。泣かないで? 私、ギーゼルヘルには笑っててほしいわ」

「……誰が僕を泣き虫にしてると思ってるの」

「ふふ、ごめんなさい。……さあ、ほら、泣き止んで。お互いに笑顔でギーゼルヘルが持ってきてくれた料理を食べたいの」


 フロレアの優しく穏やかな声に頷き、ギーゼルヘルは強く抱きしめていた彼女の身体を解放した。

 その日にギーゼルヘルが用意してきてくれた料理は、ミートソースがたっぷり使われたポテトグラタンだった。





 秋のある日。いつものようにバスケットを片手に、フロレアの屋敷を訪れたギーゼルヘルは彼女の部屋が普段よりも騒がしく感じた。

 遊びに来たギーゼルヘルがフロレアへ声をかけられるように、普段は開けたままにしてくれている窓も今日は閉まっている。天気が悪いわけでも、風が強いわけでもないのにだ。

 普段とほんの少し違うだけ。もしかしたら、今日は窓を閉めておきたい気分のだけかもしれない。しかし、そのいつもと少し違うという点が、ギーゼルヘルの不安をかきたてた。


 心臓がどくどくと早鐘を打っている。

 己の内側から聞こえてくるその音に耳を傾けながら、ギーゼルヘルは閉まったままの窓からそっと室内を覗き込んだ。

 室内では、白衣を着た医者らしき大人が慌ただしくしている。少し視線を巡らせれば、不安そうな顔をしたフロレアの母や彼女の面倒を見ている使用人の姿も見えた。

 そして、ベッドに横たわり、苦しそうな呼吸を繰り返しているフロレアの姿も。


「――!!」


 さあっと、ギーゼルヘルは己の体温が急激に下がるのを感じた。

 フロレアの具合が良くないことは、彼女と出会ったあの日から知っている。病状は少しずつ悪化してきているらしく、ギーゼルヘルも彼女との交流を重ねるたびにそれを感じ取っていた。夏の終わり頃にも病気は治らないと口にしていたけれど――まさか、そんな!


 バスケットの中身を崩さないように気をつけつつ、ギーゼルヘルは玄関まで移動すると、焦る気持ちのまま扉を叩く。

 まもなくして、扉が開かれる。扉の向こう側にいたのは、フロレアとはじめて出会ったときに彼女と一緒にいた使用人の女性だった。彼女の顔色も悪く、ギーゼルヘルの中で嫌な予感が急速に膨れ上がっていく。


「ぎ、ギーゼルヘル様……」

「あ、あの、さっきフロレアの部屋を見たんですけど、フロレアの体調は……!」

「……ギーゼルヘル様、落ち着いて聞いてください」


 そう前置きをした使用人の話は、ギーゼルヘルの心に深く鋭い杭を打ち込んだ。


「昼前、お嬢様の容態が急に悪化しました。現在は先生が診てくださっていますが、容態は未だに安定していないまま……最悪の場合も覚悟しておいたほうがいい、と……」


 足元から地面が崩れたかのような衝撃だった。

 自分でも薄々考えていたことだが、第三者――それもフロレアのことを昔から知っている人物に言われるのは、かなりつらいものがあった。

 フロレアと親しくしていた自分でさえ、こんなにも苦しいのだ。それよりも昔から彼女の面倒を見ていた目の前の人物は、きっとこれ以上の痛みを抱えている。


 唇を噛み、バスケットの持ち手を握る手に力を込める。

 心の中で渦巻くさまざまな感情を呼吸とともに吐き出し、ギーゼルヘルは手に持っていたバスケットを押し付けるように使用人の女性へ手渡した。


「これ、今日のお見舞いです。フロレアの体調が戻ったら食べさせてあげてください。もし、フロレアが食べる前に駄目になりそうだったら捨ててください」


 早口にそれだけ告げ、ギーゼルヘルは目の前の彼女に背を向けて走り出した。

 背後でこちらを呼び止めようとする声が聞こえたが、振り返らずにそのまま森に続く道を走り続けた。


 その日、フロレアのために作って持っていったのは鶏肉のトマト煮込みだった。

 できるのなら、それを口に運んで幸せそうに表情を緩めるフロレアの姿を見たかった。





 秋が過ぎ、冬に入ったある夜のこと。

 なんとか容態が安定したフロレアは、ふと肌寒さを感じて目を覚ました。

 まだ眠りたがる瞼をなんとか持ち上げ、以前よりもうんと重たく感じられるようになってしまった身体をゆっくりと起こす。少し前までは普通にできていたことのはずなのに、今では苦労するようになってしまった。


(本当に、もう近いうちに駄目になっちゃうかもしれない……)


 そう考えた瞬間、フロレアの頭の中にギーゼルヘルの姿が浮かんだ。

 フロレアの容態が悪化したあの日から、ギーゼルヘルはフロレアの前に姿を現さなくなっていた。

 はじめて会った瞬間からずっと、身体のどこかに怪我をしているギーゼルヘル。彼の家がどこにあるのか、どういった家庭環境なのかはよくわからないが、あまり良い環境ではないことは簡単に予想できた。

 叶うのであれば、この命が完全に尽きてしまう前に彼を助け出したい。

 ささやかな願いを胸に抱きながら、フロレアはサイドボードに置いてあるランプに明かりを灯した。


 温かさを感じさせる橙色の光が、部屋を満たしていた夜の闇を切り裂いていく。

 ぼんやりと照らさられた室内を見渡すと、普段は閉まっているはずの窓が開いていた。窓際の床には、もう何度も目にしたデザインのバスケットが置かれている。

 それを目にした瞬間、食欲を誘う香りがかすかにフロレアの鼻をくすぐった。


「……ギーゼルヘル?」


 まさか、料理を届けに来てくれたの?

 でも、こんな夜遅くに?

 疑問に思いながらも、彼の名前を呼んだフロレアの耳に小さな声が届いた。


「……フロレア?」


 開かれたままになっている窓から、確かに聞こえてきたのは――ギーゼルヘルの声だ。

 まさか、こんな時間に彼がいるとは思っておらず驚いた――が、久しぶりに聞いた彼の声に、フロレアは己の心が歓喜の声をあげるのを聞いた。


「フロレア……よかった、目が覚めたんだね。体調は大丈夫?」


 こちらを気遣ってくれる優しい声。

 しかし、窓の外に視線を向けても、彼の姿はどこにも見当たらなかった。


「え、ええ……私は大丈夫よ」


 嘘だ。本当は大丈夫ではない。

 普段できていたはずのことがほとんどできなくなり、ベッドから動けない日も多々ある。

 それでも、ギーゼルヘルに心配をかけたくなくて、フロレアは嘘をついた。


「そっか……なら、今日の料理は食べられるかな。食べてくれたら嬉しいな」


 安心しきった声で、優しい言葉が返ってくる。

 その声色から、ギーゼルヘルが今、柔らかい笑顔を浮かべているのが想像できた。

 普段どおりの声のはずなのに、一向に姿が見えないことがフロレアの不安をかき立てた。


「ギーゼルヘル、こんな夜遅くにどうしたの? いつも料理を届けてくれるのは、お昼頃なのに……」


 問いかけるも、ギーゼルヘルから返事は返ってこない。

 かわりに返ってきたのは、彼からの問いかけだった。


「ねえ、フロレア。天使様は実在すると思う?」


 なんとも唐突な問いかけ。

 フロレアはギーゼルヘルの考えていることがわからず、少々不審に思いながらも口を開いた。

 いつも読んでいた本に登場していた天使様。実在すると思うか否かで答えるなら、フロレアの答えは一つだった。


「実在すると思う。みんなはただのおとぎ話だって言うけど……ただのおとぎ話には聞こえないもの」


 これは、フロレアがはじめて天使様の物語に触れた日から思っていることだ。

 おとぎ話だと両親は言っていたが、作り物のおとぎ話として片付けるには重い何かがあるように感じられた。その何かが具体的にどういったものなのか、説明することはできないが――。

 数分の間のあと、ギーゼルヘルが少しだけ笑うような気配がした。


「実在するよ、天使は」

「……え?」


 彼が口にした言葉に、フロレアは思わず目を丸くした。

 本当に実在する? ――天使様が?


「物語として語られるほどの強い力は、もう持っていない。けれど、天使様と呼ばれた人は本当にいるんだ。子から子へ、癒しの力は受け継がれながら今の時代まで存在してる」

「……ギーゼルヘル、それは本当? 嘘じゃなくて?」


 天使様は実在する。

 なら――ギーゼルヘルがいつも負っている傷も、天使様にお願いすれば治してもらえる?


(いや、でも、待って)


 どうして、そんなことをギーゼルヘルが知っているの?


「嘘じゃないよ。本当に、今の時代にも天使様は存在している」

「……どうして、ギーゼルヘルがそれを知っているの?」

「簡単だよ」


 一度言葉を切り、彼が息を吐く音がしてから。


「僕が、天使だからだ」


 告げられた事実は、フロレアの心を強く揺さぶった。


「……物語の中では、天使様の力は祈りによる癒しの力だと表現されていたけれど、現代を生きる天使は祈りで奇跡を起こす力はない。かわりに、髪や目、血液、肉……身体そのものに奇跡の力が宿ってる」


 もっとも近くにいた親しい人物が、物語で描かれる天使だった。

 その事実に驚いている状態のままのフロレアへ、ギーゼルヘルはさらに言葉を続けた。


「僕にとって、天使の力は忌まわしいものだった。父さんが金稼ぎのために利用する、魔法薬の材料にされて最後には使い潰される力。そう思ってた」


 先ほど、ギーゼルヘルは現在の天使の力は肉体そのものに宿ると口にしていた。

 では、彼がいつも怪我をしていたのは、まさか――。


「……でも、フロレアと出会ってからは変わったんだ。僕を金稼ぎの道具や魔法薬の材料としてでなく、君は僕自身を見てくれた。君のためにだったら自ら力を使ってもいいと思えて、君を助けられるかもしれないと思って――毎日少しずつ、料理に僕の血を入れていた」


 今までギーゼルヘルがお見舞いの品物として持ってきてくれたものが思い浮かぶ。

 バスケットにさまざまな料理やお菓子を入れて、いつも持ってきてくれた。食欲があまりないときも、不思議とギーゼルヘルの料理は食べることができたし食べると元気が出てくるように感じられた。

 おまじないをかけて作っているとギーゼルヘルは言っていたけれど、つまり、おまじないというのは彼の血液のことだ。

 フロレアの手が自然と己の口元に伸びる。


「時間をかけて少しずつ治ればいいと思ってた。でも、僕の想定よりも君を蝕む病魔の進行速度のほうが早い。今までの方法じゃ、君の命を守ることができない」

「……ギーゼル、ヘル……」

「……だから、届けに来たんだ。僕の力をありったけ込めた、最期の料理を」


 フロレアは、彼の言葉につられて窓際のバスケットへ視線を向けた。

 よくよく見ると、バスケットの蓋や持ち手の部分には時間が経って黒く変色し始めている血痕が付着していた。

 ひゅっとフロレアの喉が嫌な音をたてる。


「ギーゼルヘル、まさか怪我してるの!?」

「……。……僕はもう長くない、限界が来てる」


 フロレアの声に答えず、ギーゼルヘルは語り続けている。

 窓際に駆け寄って今すぐ彼を止めたかったけれど、弱りきったフロレアの身体は上手く言うことを聞いてくれはしなかった。

 重い身体を無理やり動かせば、ベッドから転がり落ちて鈍い痛みが走る。それでも、フロレアは己の身体を無理に動かして床を這い、少しずつ窓際へと近づいていく。

 ギーゼルヘルが全て話し終えてしまったら、もう二度と彼に会えなくなるような――そんな気がした。


「近いうちに、僕は僕の全てを使い潰される。でも、父さんに僕の全てをくれてやる気はない。僕の力を――命を使うなら、フロレアのために全部使ってしまいたいんだ」

「ギーゼルヘル、待って」


 嫌だ。

 待って。

 行かないで。

 たくさんの言葉がフロレアの口から自然と溢れていくが、そのどれもがギーゼルヘルの決意を揺らがせるほどには力が足りなかった。


「……こんな話を聞いたあとでは、食欲もわかないかもしれないけれど」


 窓の向こう側から、誰かが立ち上がるような音がした。

 今ならギーゼルヘルの姿を見れるかもしれないのに、床に倒れ伏した身体は素直に起き上がってはくれなかった。


「愛しているから召し上がれ、フロレア」


 優しいその言葉を最後に、雪を踏む音がした。


「ギーゼルヘル!!」


 夜であることも忘れ、フロレアは悲鳴に近い声で彼の名前を叫んだ。

 手が窓枠をようやく掴み、鉛のように重たい身体をなんとか持ち上げて立ち上がる。

 しかし、窓の向こう側にはギーゼルヘルの姿はなく、白い雪に点々とまだ新しい血痕と足跡が残されているだけだった。

 肌を刺すほどに冷たい風とそれに乗って舞う白い雪だけが、フロレアの目の前に広がっている。


「ギーゼルヘル……ギーゼルヘル!!」

「お嬢様!? どうかなさいましたか!?」


 窓から大きく身を乗り出して彼の名前を叫んでいると、背後で扉が開く音がした。その直後に世話係をしてくれている使用人の女性の声が聞こえ、フロレアは彼女へ振り返った。

 乗り出していた身体を室内へと戻し、窓枠から手を離して、すぐ傍まで駆け寄ってきてくれた彼女へ縋りついて懇願する。


「お願い、ギーゼルヘルを探して! 怪我をしてるはずなの、お願いだから早く……!」

「わ、わかりました。警備の者に伝えて探させますから、どうかお嬢様はベッドにお戻りください」

「お願い、お願いよ、ギーゼルヘルを見つけて……!!」


 使用人は戸惑いつつも頷き、フロレアを優しく抱き上げてベッドの中へ入れた。

 少しでも彼を感じるものがあれば落ち着くだろうと、窓際に置かれたままだったバスケットをフロレアの傍へ移動させてから部屋を出ていく。

 再び部屋に一人きりになったフロレアは、わざわざ使用人が傍に移動させてくれたバスケットへと手を伸ばした。


 いつもそうしていたように、バスケットの蓋を開ける。

 ふわりとフロレアの鼻を優しくくすぐったのは、まだほのかに温かいビーフシチューの香りだった。

 先ほどのギーゼルヘルの話が本当なら、このビーフシチューにも彼の血液や肉が入っているはずだ。

 荒れ狂う感情に身を任せて、八つ当たりのように床へひっくり返してしまいたかったけれど――ギーゼルヘルが命を削って作り上げたものだと思うと、彼の命を無駄にしてしまうかのように思えた。


 震える手で一緒に入っていたスプーンを手に取り、器についていた蓋を外す。

 一口そっとすくって口に運べば、とろりとしたルーがウスターソースやケチャップなどの調味料で整えられた優しい味を舌へ伝えてきた。肉は柔らかく煮込まれ、ジャガイモや人参といった野菜も程よい固さに煮込まれていた。

 一口、また一口とビーフシチューを口に運ぶたびに、ギーゼルヘルと過ごした思い出が蘇ってくる。

 はじめて会った日。はじめて彼が料理を持ってきてくれた日。はじめて彼の作ったお菓子を食べた日。一緒に本を読んだ。勉強もした。たくさんたくさん、笑いあった。


『フロレアの好きな味付けも覚えたから、次からはフロレアの好きな味で作れるよ』


 そんなことを言っていた日もあったのに。


「……私の好きな味、覚えたんじゃないの。ギーゼルヘル。最後の最後で失敗するなんて、うっかりさんなんだから……っ」


 視界が不思議と滲んでよく見えない。

 ビーフシチューの味は、なんだかとても塩辛く感じられた。





 長い長い冬が過ぎ、再び春が訪れた。

 ギーゼルヘルと出会ったはじめての季節を迎える前、使用人から未承認の魔法薬を販売している男が捕まったという話を聞いた。ギーゼルヘルの力を利用して金稼ぎをしていたという父親で間違いないだろう。

 しかし、肝心のギーゼルヘルの姿はどこにも見当たらなかったそうだ。


 二度目の春が訪れる頃には、フロレアの身体はすっかり良くなっていた。

 なかなか消え去らずにフロレアの身体を蝕んでいた病魔は、嘘のように消え去った。長い闘病生活で衰えていた体力も次第に戻っていき、すっかり本来の体調に戻っていた。

 あまりの回復ぶりに主治医も両親も使用人たちも、みんな驚いていた。一体フロレアの身に何が起きたのか理由を知りたがる者も多かったが、フロレアは自分に何が起きたのか決して口にしようとはしなかった。


 春の風が花々の香りを運んでくる朝。

 最後にギーゼルヘルが持ってきたバスケットを片手に、フロレアは何年ぶりかに外へ出た。

 久しぶりに己の足で歩く外の世界は、思っていたよりも明るかった。吸い込む空気にはまだ少し冷たさが残っているが、冬のそれよりも優しく温かい。

 さまざまな生き物に目覚めを告げる風を感じながら、フロレアが向かうのは森の中だった。


 時折聞こえる小鳥のさえずりに耳を傾けながら、フロレアは森の奥へ進んでいく。

 以前、この道を歩いたときは使用人と一緒だったが、今日は自分一人だけ。たったそれだけの違いだけれど、なんだかとても――とても、静かだと感じられた。

 一言も言葉を口に出さず、どんどん奥へ奥へと進んでいく。次第に足元の道は、草が多く茂り、ほとんど人の足で踏み固められていない道へと変化していった。

 さらなる森の奥へ足を踏み入れたフロレアの視界に広がったのは、青い奇跡の色を宿した花畑だった。


「……やっぱり」


 迷いのない足取りで、フロレアは花畑の中へ進んでいく。

 たくさんの花々に埋もれるように――否、守られるように寝そべっている彼を見つけると、その隣に腰を下ろした。


「ここで寝てたのね、ギーゼルヘル」


 呼びかける声に、返る言葉はない。

 この花畑は、フロレアがギーゼルヘルとはじめて出会ったときに訪れた花畑だ。ほとんど人が寄り付かない森の奥深くに存在し、暖かい季節は奇跡の色を宿した花々を咲かせている。

 他のどこを探しても見つからないのなら、もしかしてはじめて出会った場所にいるのではないか――と考えたのだが、どうやら正解だったらしい。


 そっと眠り続けるギーゼルヘルの頬に手を伸ばす。

 触れたら伝わってきていた彼の体温はすでに失われており、ぞっとするほどの冷たさが返ってくる。伏せられた片目の瞼の周囲には乾いた血液がこびりついており、いつもフロレアに優しく触れていた腕は片方が失われていた。

 もう二度と目覚めないギーゼルヘルの頬を撫でながら、フロレアは言葉を続ける。


「……馬鹿ね。あなたは私が生きることを望んでくれたけど、私はギーゼルヘルに生きていてほしかったのに。せっかく助けてくれても、肝心のあなたがどこにもいないんじゃ意味がないじゃない」


 さあ、と風が花々の間を駆け抜け、フロレアとギーゼルヘルの髪を優しく揺らした。

 数分の沈黙のあと、フロレアは物言わぬギーゼルヘルの身体を起こして強く抱きしめた。


「でも……ありがとう、私が生きることを望んでくれて。助けてくれて」


 わずかに震える呼吸を整え、腕の中にいるギーゼルヘルを抱きしめる腕に力を込める。

 もう二度と動かない彼の口元が、ほんの少しだけ笑みを浮かべているかのように感じられた。



「ありがとう」


「ごめんなさい」


「愛してる」




「ごちそうさまでした」



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愛しているから召し上がれ 神無月もなか @monaka_kannaduki

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