第2話 刈津(かりのつ)にて

 主が今上から北の神気を招くための勅使に任ぜられ、実際に北へ向かうためにみやこを出たのは、主が津宮の乙姫様の局に泊まってから三日後だった。はっきり言ってたった三日でこの長旅の準備を成し遂げたのは、すごく頑張ったのではないかと思う。

 主に頑張ったのは煌宮かぐのみやの家政を預かる爺どのと婆どののご夫婦や他の煌宮かぐのみや召人めしうどのみんなだったわけだけど。

 私自身は細々した自分の用意だけで手がいっぱいだったのだ。

 みやこを出発した夜はもう一度乙姫様のところに泊まり、乙姫様の配下である日吉に引き合わせて頂いた。

 「日吉は刈津かりのつから尾関おのせきまでの海路を知っているわ。人足や水夫かこの手配も任せて大丈夫よ。」

 日吉はたぶん三十歳は越えているかという、小柄だけれど筋肉質なおじさんだ。

 次の日はその日吉の手配した舟で大淡海の塩津まで進み、そこで宿を取った。そこからは人足に荷を担わせて角人津つぬのつへ向かう。私は歩くと遅くなると言う事で、主と同じように馬が仕度されていた。

 「陸路と申しましても馬で進める程度の道です。大した事はありませんよ。」

 日吉はそう言ったし、確かに道はなだらかだったけれど、乗りなれない馬に乗るのはやっぱり疲れる。ただ、大人しい馬を選んでもらったようで、薫餌くのえを与えるとなんとか一人でも乗れるようにはなった。どちらかというと馬が乗せてくれている感じだけど。

 ただ、ちゃんと乗れているという状態にはやっぱり遠かったみたいで、夕刻に角人津つぬのつについた頃にはおしりや足が盛大に擦れて痛かった。

 ありがたい事に角人津つぬのつからは船で龍の背沿いに進む。船だって揺れるけれどおしりが擦れるという事はない。ただ、主が船酔いして、しばらく顔色が悪かった。

 「蜜月みつきお前はなんともないのか?」

 主は不思議そうに聞くけれど、舟になら慣れている。京では竜魚を操って舟を引かせているのだ。

 「竜魚の舟なら俺だって乗りなれている。しかし揺れ方がまるで違うだろう。」

 確かに海は淡海や川に比べて波が強くて揺れるけれど、お天気もいいし怖いというほどではない。

 「いや、怖いとかじゃなくて、ただただ揺さぶられて気持ち悪いだけだ。」

 主は恨みがましい目で見るけれど、私が鞍でおしりが擦れて痛むのを笑っていたのだからおあいこだ。機会があったら是非、馬の乗り方は覚えたいと思うけど。

 角人津つぬのつから刈津かりのつは夜はとまりで休みながら十日ほどもかかるという。

 「刈津かりのつ辺りで済む話ならいいんだが。」

 二日ほどして船酔いが収まると、主は乙姫様に写させていただいた地図や書きつけばかり眺めているようになった。

 船には主のかぐを慕って、海から神霊が打ち寄せる。薫餌くのえを用いて誘導すれば船足を速くすることができるかもしれない。

 ただ、勝手にやるわけにはいかないし、字が読める者は主と私の他には日吉しかいない。そしてその日吉でも、あまりに込み入った筆談は難しいのが面倒だ。こんな時は自分の声が出ないことがもどかしい。

 それでも単語やら、身振り手振りやら、ちょっと実践して見せるやらでどうにか意図を伝えても、上手く息を合わせるのはもっと大変なのがわかった。

 手振りを決め、どうやら船足を早くできた頃にはもう、行程の半ばに差し掛かっていたけれど、船は予定よりも早く、八日で刈津かりのつに到着した。

 



 「暑いな。」

 ポツリとつぶやいた主の気持ちはよくわかった。刈津かりのつまできてもたいして涼しくなかったのだ。朝晩はさすがにいくらか冷えるけれど、昼間はかなり暑い。

 刈津かりのつは確かに大きな津(みなと)のようで、多くの船が集まっている。勅使である主の船は最優先で津(みなと)に入れたけれど、それでも半日ほどは手前の泊で待たされた。みなとの船を整理しなければ、こちらの船を入れられなかったからだ。

 みなとたちの離れが提供され陸には上がったけれど、この離れの風通しがあまりよくない。

 「ここいらでは冬に合わせて建てますので、家はどれもあまり風通しは良くございません。」

 日吉の言葉は考えてみればもっともなのだけど、現に暑い今は全くありがたくなかった。

 「刈津かりのつでこれということは、かなり神気は滞っていると見るべきだろうな。」

 主はたちの役人に命じてたちの書庫をあけさせた。似たような気候の記録がないか調べさせる一方で、地元の古老を連れてこさせる。やたらとかしこまってばかりいる古老は、それでも子供のころにやけに暑い夏があった事を思い出してくれた。

 「暑い年はたまにあるもんだが、あの年暑かったで。不思議だったのはがしらではえらく寒いところがあるとかいう噂があったことで。藁でくるまれたでっかい氷が、船で運ばれるば見ました。」

 鄙びたなりに一生懸命わかりやすく話してくれようとするのに、主が直々にうなずいたり質問したりする。みやこの貴人が熱心に自分の話を聞いてくれるというので、古老も次々と古い話を引っ張り出していた。

 「あの年はたつのめば開かんかったとか…」

 半日ほどもかけて話をした古老に、主は褒美を持たせて帰したけれど、あまり明るい表情ではなかった。

 「いい傾向ではないな。もしそうだとすると時間が少ないが…」

 役人に調べさせた書きつけを確かめ、髪をかき上げながらうめく。そんな事を丸二日ほどの間に何度も繰り返して、決心したように告げた。

 「龍の頭に渡る。日吉、必要な用意をしてくれ。あと、龍眼たつのめに行ったことのある者を探してくれ。」

 日吉は急ぎと言うことですぐにも準備のために去った。

 どうやら主はたつのめという土地に何かを見出しているらしい。

 「龍眼たつのめは龍のがしらの内陸にある。古い一族がいて、みやこにも采女を送り込んでいる豪族だ。がしらでも有数の玉の産地で、あとは特殊な薬草がとれるのだったか。」

 私に説明する、というよりは主自身が確認しているような口ぶりだ。

 「その龍眼たつのめが、開いていないのかもしれない。」

 龍眼たつのめが開く?

 龍眼たつのめというのは地名ではなかったのだろうか。

 「面白いだろう。どうやら龍眼たつのめは夏に『開く』らしい。どういう状況なのかはわからないが。それが開かないとがしらは凍える夏となり、首戸おびとから南は炎暑の夏となる。」

 首戸おびとというのは乙姫様もおっしゃっていた、刈津かりのつがしらの間の狭い海だ。今も目の前に広がっている。海の向こうには青く陸が連なっているが、あれががしらなのだろう。

 私達の国はかつて黄龍の身体だったのだそうだ。世界が混沌から脱したばかりの頃に生まれた五色の龍の内、黄龍は海に落ち、陸と結んで私達の国となった。残りの龍は世界の果てに去ったけれど、黄龍の身体は今もここにある。

 その黄龍の頭が目の前に連なる頭(かしら)の島で、首の部分に首戸おびとの海が広がっている。刈津かりのつは首の付け根になるのだろうか。

 みやこは龍の心の臓なのだそうだし、南の尾関おのせきは尾の付け根だ。国土を思う時に巨大な龍を浮かべるのには馴染んでいるけれど、龍の目の土地があるという事は知らなかったし、ましてそれが「開く」というのがどういうことなのかはわからない。

 「龍眼たつのめが開くから神気が動くのか、神気が動いた結果開くのかはわからないが、北の神気が関わっているのはまず間違いない。明確な兆しはそのぐらいしか見当たらないし、確かめないわけにはいかないだろう。」

 主の言うことはもっともだと思う。ただ、それは仮にも煌宮かぐのみやである主が自ら足を運んで確かめるべき事柄なのだろうか。この刈津かりのつでさえみやこでは最果てのように思われているのに。

 「人をやって調べるには時間がない。」

 主はきっぱりと言い切った。

 「もう夏越の月も半ばだ。出来れば夏越祓なごしのはらえに合わせて動かせるようにしたいが、龍眼たつのめまでは五日はかかる。調べる事も考えればすでにぎりぎりと言うところだ。」 

 結局、日吉が手配をつけるのにまる一日かかるというので、主はその夜は招かれた刈津かりのつの長者の屋敷に泊まりに行った。

 主の残念なところの一つはだらしないところだ。それは気の張らない場所での服装や態度もだけど、女性関係でも言える。

 とにかく誘われたら断らないのだ。

 今日、泊まりに行った長者も美しい年頃の娘がいるのだそうで、どうせ泊まるのはその娘の局なのだろう。みやこでも主はあちこちの通い処を渡り歩いていた。

 乙姫様のところのように、私も連れて行かれる場所もあるが、夜歩きの折には置いて行かれる事も多い。さすがに旅に出てからはそんな事もなかったけれど、今日は久しぶりの置いてきぼりだ。 

 私はとりあえず熟成中の薫餌くのえの様子を確かめる事にした。

 普通なら水辺の地面に埋めるとかして熟成させる薫餌くのえだけれど、旅の途中はそういうわけにもいかないので、湿った布で何重にも壷を包んで熟成させている。同じ時に作った薫餌くのえの半分は煌宮かぐのみやのいつもの所に埋めてきてあるので、どんな風に違いが出るかがちょっと楽しみだ。

 湿らせた綿を取り除きそっと蓋をあけると、甘い香りがたった。

 乙姫様があの素晴らしい牟呂梅の蜜漬けを分けて下さったので、ちょっと加えてある。乙姫様は本当に素晴らしい方だ。

 香りからすると熟成は進んでいるようでちょっとホッとした。移動中などにこういう熟成方法があるとは聞いた事があったけれど、やってみるのは初めてだ。上手くいっているみたいでよかった。

 香りを嗅ぎ、一つつまむ。やっぱりまだちょっと香りが硬い。もう少し熟成させた方がいいだろう。

 布を一度洗い、それから湿らせたまま元の通りに壷を包んだ。

 滞在している離れからは海は見えるけれどみなとの喧騒は見えない。夜になると潮騒だけが静かに寄せてくる。ここでは私も完全に客人の一人という扱いなので、主がいなければ特にするべき仕事もない。

 実は主の世話だって、たちの女たちが争ってやってくれる。主は顔もいいし、かぐは強いし、姿もすらりと背が高いのでモテるのだ。

 煌宮かぐのみや召人めしうどの間では「だらしない」で一致している気を抜いた時の服装も、こういう場合は「しどけない」に化けるらしい。見た目が良いというのは得だ。

 そういえば私も主に出会った時は、ちょっと憧れの目で見ていたような気がする。

 なんだかきれいで、素敵な公達って感じだった。白衣びゃくえがすごく似合ってたし、まだ七歳の私なんか、ただただぼうっと眺めているしかないくらい、雲の上の人だった。だからこそ、ほとんど間髪入れずに感じた幻滅が、とても大きくなったのだけど。

 思えばあれが私にとっての最初で、しかも最大の主に感じた残念だった。




 今年の勅使様は格好良い。

 そんな評判は年頃の娘から、やっと薫餌くのえのための採集を始めたばかりの子供まで、すごい速さで広がった。

 薫餌師くのえしを目指す子供なら、誰でも憧れる白衣びゃくえをまとい、艷やかな黒髪を背に流した姿がとても絵になっている。ふと振り向いた拍子に蜜のような濃い金の瞳と目が合った娘など、しばらく息をとめてから座り込んでしまったほどだ。

 神奈庄かんなのしょうへやってくる、年にの勅使は、必ず煌族と決まっている。だからいつもかぐを放つ公達ではあるのだけど、あれほど強いかぐを放つ、しかも若く美しい公達は、きっと誰も見たことはなかったんじゃないかと思う。

 そんなうっとりとみんなが見惚れる勅使様が、か弱い神霊を蹴散らして歩いていると気づいた時は目を疑った。だって、本当に無造作に蹴散らしていたのだもの。

 自分で言うのもなんだけど、私はわりと「目」と「耳」はいい。他の人が見つけられないような形の定まりきらないような神霊でも見ることができるし、声を聞き取る事ができる 

 その時主が蹴散らしていた神霊も、私以外にはあまり見えていないような神霊だった。

 でも、だからってみんなが神霊を蹴散らして歩いているわけがない。たいていは見えなくても感じていて、ほとんど無意識に避けたりしているものなのだ。

 しかも神霊はかぐを慕うものなのだから、主が蹴散らした神霊も、主に慕いよってきたものたちだった。

 ありえない。

 ありえないほど感じ悪い。

 私は綺麗な夢から張り手でたたき起こされたような気持ちになった。

 当時私は七歳で、渡魚師とぎょしの見習いの話が決まろうとしていた。声が出ないのでは強い獣を操る事は難しいと、大人は私が薫餌師くのえしの見習いに入る事を許さなかったのだ。渡魚師とぎょしなら竜魚を操って舟を引かせるのが仕事だから、声が出なくてもそれほど困らない。

 だけど、綺の白衣びゃくえをまとって宮中に仕える事ができるのは薫餌師くのえしだ。私は白衣びゃくえへの憧れを早々に諦めるしかなかった。

 今思えば、あの時私は、泣く泣く諦めた白衣びゃくえへの憧れまで、踏みにじられたような気持ちになっていたのだと思う。

 それで私はみんなのように勅使様を見に行くのをやめてしまった。もう蹴散らされる神霊を見るのは嫌だった。

 だから、次の日の夜に主と出会ってしまったのは偶然だった。いや、偶然だったけれど、やっぱり引き寄せられていたのかもしれない。

 だって神霊をよく見る私は、かぐも強く感じ取っているはずで、主への幻滅とは別にかぐには惹かれてしまうのだ。

 ふと目を覚まし、なんとなく出てみた淡海の水際に、主はいた。

 岩場に腰掛け、淡海に浮かぶ島宮しまのみやの方をじっと見つめていた。

 主の足元にはやはり神霊たちが群がっている。ほのかに形を持つだけの儚い神霊は、でもとても綺麗だ。喜ばしさを形にしたような柔らかな線で結んだ神霊は、小さな蛇のようであったり、飾り羽根をもつ小鳥のようであったりした。

 淡海から寄せる波や、吹く風や、足元でかすかに鳴る砂にさえ神気は宿り、時に儚い神霊を結ぶ。かぐは神気を惹きつける事で、神霊を結び易くする。主を取り巻く神霊たちの多くは、そもそも主のかぐによって結んだ神霊なのだ。

 神霊たちはさらに絡み合い、結び合って、小さな人形ひとがたを結んだ。

 小さな舞人を彷彿とさせる人形ひとがたが、主を取り巻いて舞う。朔を翌日に控えた淡い月影と星影の中で、それはとても美しい光景だった。

 ふと、主が身じろいだ。

 無造作に立ち上がろうと動く主の足が、神霊の舞人を蹴散らそうとする。

 だめ。

 とっさに神霊を庇って屈み込んだ。

 「なんだ?」

 主が驚いたのも当然だと今はわかる。

 あれほど儚い神霊を、主が感知できるわけがない。

 「…なにか、そこにいるのか?」

 しばらく動きをとめてそれからそう問われて頷けば、主は私が手に包んだ神霊を避けて足を下ろした。

 「もしかしてそなた、見えるのか。」

 その問いにも頷く。

 懐から薫餌くのえの袋を取り出し、何粒か掌に出す。薫餌くのえはほんの少しだけれど、力を添える働きがある。

 この美しい神霊の姿を見せる事が出来れば、もしかしたらもっと大切に扱ってくれるのではないか。

 そんな気持ちでの行動だったけれど、主はこちらの予想を越える行動をした。

 主が薫餌くのえを食べてしまったのだ。

 掌から一粒つまみとり、口へ放り込んでしまうのを、私は唖然として見ていた。

 「…見える…」

 主の指先が神霊に触れる。

 薫餌くのえを食べ、主に触れられた神霊たちは舞いながら天へと駆け上がり、消えた。

 「消えた…あれが神霊か…」

 私はその場で主に乞われ、主に仕える事になった。


 主が私の薫餌くのえを食べる事で、私と同じように神霊を見るようになる理由はよくわからない。

 薫餌くのえにそんな効果があると聞いた事はなかったし、試してみても他にそんな効果は認められなかった。

 理由はわからないけれど、あれは主が私の薫餌くのえを食べた時にだけ起こる効果なのだ。

 薫餌くのえは本来、他人に食べさせるものではないし、何が起きているのかもはっきりとはわからないので、普段は主も薫餌くのえを口にしたりはしない。そこまでしなくても私がそばについて、主を助ければ済むからだ。薫餌くのえというものはもともと禽獣を使役するために使うものなのだから、そんなものを口にするというのは外聞から考えてもよろしくない。

 主に仕える事が決まったことで私は薫餌師くのえしの見習いとして学べる事になったし、憧れの白衣びゃくえをまとう身にもなった。

 主にはしょっちゅうがっかりしているけれど、初めて主を見かけた時ほどにがっかりしたことはまだない。少なくとも主は神霊を平気で蹴散らす人ではなかった。そうでなければ私は主に仕えはしなかっただろう。

 

 

 

 

 



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