第2話 刈津(かりのつ)にて
主が今上から北の神気を招くための勅使に任ぜられ、実際に北へ向かうために
主に頑張ったのは
私自身は細々した自分の用意だけで手がいっぱいだったのだ。
「日吉は
日吉はたぶん三十歳は越えているかという、小柄だけれど筋肉質なおじさんだ。
次の日はその日吉の手配した舟で大淡海の塩津まで進み、そこで宿を取った。そこからは人足に荷を担わせて
「陸路と申しましても馬で進める程度の道です。大した事はありませんよ。」
日吉はそう言ったし、確かに道はなだらかだったけれど、乗りなれない馬に乗るのはやっぱり疲れる。ただ、大人しい馬を選んでもらったようで、
ただ、ちゃんと乗れているという状態にはやっぱり遠かったみたいで、夕刻に
ありがたい事に
「
主は不思議そうに聞くけれど、舟になら慣れている。京では竜魚を操って舟を引かせているのだ。
「竜魚の舟なら俺だって乗りなれている。しかし揺れ方がまるで違うだろう。」
確かに海は淡海や川に比べて波が強くて揺れるけれど、お天気もいいし怖いというほどではない。
「いや、怖いとかじゃなくて、ただただ揺さぶられて気持ち悪いだけだ。」
主は恨みがましい目で見るけれど、私が鞍でおしりが擦れて痛むのを笑っていたのだからおあいこだ。機会があったら是非、馬の乗り方は覚えたいと思うけど。
「
二日ほどして船酔いが収まると、主は乙姫様に写させていただいた地図や書きつけばかり眺めているようになった。
船には主の
ただ、勝手にやるわけにはいかないし、字が読める者は主と私の他には日吉しかいない。そしてその日吉でも、あまりに込み入った筆談は難しいのが面倒だ。こんな時は自分の声が出ないことがもどかしい。
それでも単語やら、身振り手振りやら、ちょっと実践して見せるやらでどうにか意図を伝えても、上手く息を合わせるのはもっと大変なのがわかった。
手振りを決め、どうやら船足を早くできた頃にはもう、行程の半ばに差し掛かっていたけれど、船は予定よりも早く、八日で
「暑いな。」
ポツリとつぶやいた主の気持ちはよくわかった。
「ここいらでは冬に合わせて建てますので、家はどれもあまり風通しは良くございません。」
日吉の言葉は考えてみればもっともなのだけど、現に暑い今は全くありがたくなかった。
「
主は
「暑い年はたまにあるもんだが、あの年暑かったで。不思議だったのは
鄙びたなりに一生懸命わかりやすく話してくれようとするのに、主が直々にうなずいたり質問したりする。
「あの年はたつのめば開かんかったとか…」
半日ほどもかけて話をした古老に、主は褒美を持たせて帰したけれど、あまり明るい表情ではなかった。
「いい傾向ではないな。もしそうだとすると時間が少ないが…」
役人に調べさせた書きつけを確かめ、髪をかき上げながらうめく。そんな事を丸二日ほどの間に何度も繰り返して、決心したように告げた。
「龍の頭に渡る。日吉、必要な用意をしてくれ。あと、
日吉は急ぎと言うことですぐにも準備のために去った。
どうやら主はたつのめという土地に何かを見出しているらしい。
「
私に説明する、というよりは主自身が確認しているような口ぶりだ。
「その
「面白いだろう。どうやら
私達の国はかつて黄龍の身体だったのだそうだ。世界が混沌から脱したばかりの頃に生まれた五色の龍の内、黄龍は海に落ち、陸と結んで私達の国となった。残りの龍は世界の果てに去ったけれど、黄龍の身体は今もここにある。
その黄龍の頭が目の前に連なる頭(かしら)の島で、首の部分に
「
主の言うことはもっともだと思う。ただ、それは仮にも
「人をやって調べるには時間がない。」
主はきっぱりと言い切った。
「もう夏越の月も半ばだ。出来れば
結局、日吉が手配をつけるのにまる一日かかるというので、主はその夜は招かれた
主の残念なところの一つはだらしないところだ。それは気の張らない場所での服装や態度もだけど、女性関係でも言える。
とにかく誘われたら断らないのだ。
今日、泊まりに行った長者も美しい年頃の娘がいるのだそうで、どうせ泊まるのはその娘の局なのだろう。
乙姫様のところのように、私も連れて行かれる場所もあるが、夜歩きの折には置いて行かれる事も多い。さすがに旅に出てからはそんな事もなかったけれど、今日は久しぶりの置いてきぼりだ。
私はとりあえず熟成中の
普通なら水辺の地面に埋めるとかして熟成させる
湿らせた綿を取り除きそっと蓋をあけると、甘い香りがたった。
乙姫様があの素晴らしい牟呂梅の蜜漬けを分けて下さったので、ちょっと加えてある。乙姫様は本当に素晴らしい方だ。
香りからすると熟成は進んでいるようでちょっとホッとした。移動中などにこういう熟成方法があるとは聞いた事があったけれど、やってみるのは初めてだ。上手くいっているみたいでよかった。
香りを嗅ぎ、一つつまむ。やっぱりまだちょっと香りが硬い。もう少し熟成させた方がいいだろう。
布を一度洗い、それから湿らせたまま元の通りに壷を包んだ。
滞在している離れからは海は見えるけれど
実は主の世話だって、
そういえば私も主に出会った時は、ちょっと憧れの目で見ていたような気がする。
なんだかきれいで、素敵な公達って感じだった。
思えばあれが私にとっての最初で、しかも最大の主に感じた残念だった。
今年の勅使様は格好良い。
そんな評判は年頃の娘から、やっと
そんなうっとりとみんなが見惚れる勅使様が、か弱い神霊を蹴散らして歩いていると気づいた時は目を疑った。だって、本当に無造作に蹴散らしていたのだもの。
自分で言うのもなんだけど、私はわりと「目」と「耳」はいい。他の人が見つけられないような形の定まりきらないような神霊でも見ることができるし、声を聞き取る事ができる
その時主が蹴散らしていた神霊も、私以外にはあまり見えていないような神霊だった。
でも、だからってみんなが神霊を蹴散らして歩いているわけがない。たいていは見えなくても感じていて、ほとんど無意識に避けたりしているものなのだ。
しかも神霊は
ありえない。
ありえないほど感じ悪い。
私は綺麗な夢から張り手でたたき起こされたような気持ちになった。
当時私は七歳で、
だけど、綺の
今思えば、あの時私は、泣く泣く諦めた
それで私はみんなのように勅使様を見に行くのをやめてしまった。もう蹴散らされる神霊を見るのは嫌だった。
だから、次の日の夜に主と出会ってしまったのは偶然だった。いや、偶然だったけれど、やっぱり引き寄せられていたのかもしれない。
だって神霊をよく見る私は、
ふと目を覚まし、なんとなく出てみた淡海の水際に、主はいた。
岩場に腰掛け、淡海に浮かぶ
主の足元にはやはり神霊たちが群がっている。ほのかに形を持つだけの儚い神霊は、でもとても綺麗だ。喜ばしさを形にしたような柔らかな線で結んだ神霊は、小さな蛇のようであったり、飾り羽根をもつ小鳥のようであったりした。
淡海から寄せる波や、吹く風や、足元でかすかに鳴る砂にさえ神気は宿り、時に儚い神霊を結ぶ。
神霊たちはさらに絡み合い、結び合って、小さな
小さな舞人を彷彿とさせる
ふと、主が身じろいだ。
無造作に立ち上がろうと動く主の足が、神霊の舞人を蹴散らそうとする。
だめ。
とっさに神霊を庇って屈み込んだ。
「なんだ?」
主が驚いたのも当然だと今はわかる。
あれほど儚い神霊を、主が感知できるわけがない。
「…なにか、そこにいるのか?」
しばらく動きをとめてそれからそう問われて頷けば、主は私が手に包んだ神霊を避けて足を下ろした。
「もしかしてそなた、見えるのか。」
その問いにも頷く。
懐から
この美しい神霊の姿を見せる事が出来れば、もしかしたらもっと大切に扱ってくれるのではないか。
そんな気持ちでの行動だったけれど、主はこちらの予想を越える行動をした。
主が
掌から一粒つまみとり、口へ放り込んでしまうのを、私は唖然として見ていた。
「…見える…」
主の指先が神霊に触れる。
「消えた…あれが神霊か…」
私はその場で主に乞われ、主に仕える事になった。
主が私の
理由はわからないけれど、あれは主が私の
主に仕える事が決まったことで私は
主にはしょっちゅうがっかりしているけれど、初めて主を見かけた時ほどにがっかりしたことはまだない。少なくとも主は神霊を平気で蹴散らす人ではなかった。そうでなければ私は主に仕えはしなかっただろう。
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