第3話 龍眼(たつのめ)へ
裏に毛皮を張った
京でたまにお年寄りが着ていることのある
袖はなくて腕は必要なら打ち合わせから出すか、横の切れ込みから出すかするらしい。
「季節じゃありませんのでね。良いものが安く買えました。」
そう言って広げた主のための
皮衣に合わせた意匠の皮靴も内側が毛皮で、足に合わせて革紐でとめるようになっている。
袙は手持ちの半分を館の女たちが総出で綿入れに仕立てかえてくれた。厚手の指貫や切袴も用意されている。
しかし、これははっきり言って暑苦しい。今の季節にはありえない衣類だ。
「
厚手になったせいで嵩張るようになった衣類のせいで荷物は盛大に大きくなった。
さらに大量の食べ物が準備される。
「
日吉の意見はもっともだったので、主もただうなずいていた。
来たときよりも大きな船にその大荷物と一緒に乗り込み、
大きな船なのでその海竜を八頭もつないで使うのだ。
海竜を使う
「ちょっと触ってみるかい。」
船からじっと眺めていると、
鱗が硬い。竜魚よりもずっと硬い。竜魚はちょっとぬめっとしてるけど、海竜は金物を触っているみたいな感じだ。竜の鱗はちょっと玻璃を思わせる手触りだけど、それとも違った。やっぱり流れのきつい海の竜だからだろうか。
いつも私が舟を引かせている竜魚も合わせて、
「お急ぎならば今日はこのまま馬で進んだほうが良うございます。すでに馬の手配は頼んでございますので、少々お待ち下さい。」
乗ってきた船のそばに荷を積んだ上に、主が座る。そばに控えながら周囲を見れば、明らかに遠巻きにされているのがわかった。遠巻きにしながら主の方に見入っているのは、主の
こんなに
しばらく待つと日吉さんが馬と馬飼を連れて戻った。
毛が長く、足の太いどっしりした馬は、見慣れた馬とはずいぶん違う。馬は全部で五頭いた。馬飼は二人いて、親子だという事だった。子の方は私と同じくらいの男の子だ。
「地馬でございますので走って早いということはございませんが、力はございますし、長く歩きます。雪や寒さにも強い、
私は自分の乗る馬に薫餌を与えて鼻面をなでた。
馬飼の親子は手際よく大量の荷物を馬に振り分けて行く。主の乗馬にも私の乗馬にも荷がくくりつけられた。
「半日ほど行ったところに里がございます。今晩はそちらに泊まるのがよろしいかと。」
半日馬に乗るのかと思うと、あのおしりの擦れた痛みがよみがえってくる気がする。しかも日吉さんの言い方からすると、きっと明日も馬だろう。
ちょっと暗い気持ちになったけれど、日吉さんは私の馬の鞍に毛皮と布をあててくれた。
馬飼の親子は無口だった。
無口というか、自分たちだけで小さな声で時々話している。
私はそもそも声を出せないし、主もそれほど話さないので、時々日吉が話す以外は静かな一行だ。
道はなだらかだったけれど、じわじわと寒くなってくるので、途中で綿を入れた袙を荷から引っ張り出した。
「本当に冷えてきているな。」
主の表情は硬かった。
里長の家の客間で目覚めた、次の日の朝は寒かった。
私達は厚手の袴をはいて、袷の袙を重ねて着た。
三日目には
裏が毛皮の皮ぃは本当に暖かい。お年寄りが着ているのを見たことはあっても、ここまで暖かなものだとは知らなかった。
「帰りに土産に求めて帰ろうか。」
主が誰に、と考えているのかは簡単にわかった。輝宮の家政を切り回す老夫婦にだ。主が生まれたときから仕えているという二人は、主にも、他の召人にも「爺どの」「婆どの」と呼ばれて敬われている。主は実質的にはこの老夫婦に育てられたのだそうだ。
そしてその三日目の午後には、道端の所々に雪が残るようになった。
「馬の手綱は
日吉に教えてもらった通りに手綱は皮衣の中で握る。
たった三日前の朝は、涼風を喜んでいたのに、なんて極端なんだろう。この辺りでは北の冷たい神気が濃すぎて、やたらと神霊化している。その神気や神霊が主を慕うので、一層寒い思いをする羽目になるのだ。
私は
本来なら意識的に
「やれやれ、少し寒さが緩みましたか。それにしても本当に、今年はえらく雪が残っておりますね。いくら
日吉が自分の
「今年はいつまでも冷てえです。」
馬飼の子のほうがポツリと答えた。
馬飼の親子も繕いのあとのある
その夜は、馬飼親子が住んでいるという里に泊まった。
泊まるのはもちろん里長の家で、馬飼の親子は荷物を下ろすと馬を連れて自分の家に帰って行く。客間の庇から、馬飼の妻らしき女性が親子を迎えに来ているのが見えた。馬飼の子が楽しそうに何か話している。
私はなんとなく目をそらし、荷解きに戻った。一夜の宿とは言っても、最低限の荷は解かなければならない。
庇の間も概ね同じような作りで、明り取りの窓に枠に布を張った戸がついているのと、出入り口に厚手の布が垂らされているのが違う。明り取りの窓の幾つかは上げてあって、そこから外が見えていた。
このぐらい寒いと確かに風は通らない方がありがたい。
その上大きな火桶にたっぷりの炭が熾されているので、客間の中は暖かかった。
ここからは先は
主は
「
荷から取り出してあった硯箱を開け、硯に水を入れて墨をする。
墨はすばやくすらねばならんが慌ててはいかん。静かな気持ちできっちりとすらねばならんぞ。
読み書きや墨のすり方を教えてくれたのは爺どのだ。主に常に従う従者には必要なことだからと、それは厳しく仕込まれた。
ちょうどいいかというほどに濃くなった墨を、主の側に運んだ文机に置く。筆や紙も添えて、主が使いやすいように整える。
文机は客間に備え付けてあったもので、細工は簡素だけれどよく手入れされて、磨きあげられていた。文机に限らず、この客間の印象そのものがそんな感じだ。使わない時でも丁寧に手入れして、大事にしている感じがする。
「北の神気はやはり
きっと主の言うとおりなのだろう。実際に進むに連れて急激に寒くなっている。
私はずっと、神気というものは自然に巡るものなのだと思っていた。こんな風に滞る事があるとは思っていなかった。
「いや、確かに自然に巡るものなんだ。この北の神気だってずっと凝り固まってはいないだろう。冬になれば北の神気が膨れるし、そうなればどうしても押し出されてくる。おそらく限界を超えれば弾けるように大量の神気が一気に南へ動き出すだろう。そうして今度は極端な寒さを連れてくる。」
主が書き付けを確認しているようすから言うと、きっと今までにもそういうことはあったのだ。
「本来ならもう少し細く、常に循環しているものなんだが、今年は南の神気が強く、押し出しが早かったから、北の神気が凝ってしまったんだ。一度凝った神気はきっかけがないとなかなか循環しない。」
強い神気が押し出すって、さっきも似たような事を言っていたような。
「そうだ。このまま行くと今度は南の神気が凝って、来年の春は遅く、夏は暑くなる。少しづつ解消してはいっても、何年かはそんな状態が続くだろう。」
でも、もうすぐ北の神気を招く夏越祓(なごしのはらえ)もあるというのに、それでは招けないのだろうか。
「もちろん招くことはできる。そのための大祓だ。だが、これだけはっきりと凝っているとそれだけでは効き目が弱い。こちらから神気を押す事が出来れば話が早いが、私にそれは難しい。
それは確かにそうだ。
でも、それじゃあ主はどうやって、お役目を果たすつもりなのだろう。
「そこなんだ。もしかしたら『
そう言って、主は再び地図を睨んだ。
夕餉のあと、
「
兄だという一彦の口上は整っていた。これなら
「いや、私が自ら行かねばならぬであろう事だ。ご苦労だが案内を頼む。」
主の言葉で、案内人の二人と日吉も一緒に明日からの行程について話し始める。
雪が深い、というのにはすごく驚いた。だってもう夏越の月に入って十八日目だ。こんな時期に雪が残っているだけでも驚いたのに、それが深いだなんて。
「頭(がしら)の奥の方では年中雪が残るというのは聞いた事がある。龍眼(たつのめ)辺りなら雪自体は年中あるのじゃないか?」
主の言葉に弟の方の次彦が笑う。
「いえ、さすがに里人の住むようなところはたいてい溶けてしまいます。森の奥などには結構残っている事が多いですが。」
それが今年は道中が大変なほどに雪があると言うのだから、大変なことなのだろう。
道中は最初考えていたよりも少し長くなりそうなようだ。夏の道がまだ雪でふさがっているので、冬の道を使うしかないのだという。季節で道が違うというのは、ちょっと珍しくて面白い。
「明日はこちらに泊まって、ここからこちらへ向かいます。」
地図を見るのは得意ではないけれど、これまでに比べて迂回するというのはわかった。
次の日からは履物も皮靴を履くことになった。内側が毛皮の皮靴はふかふかして暖かいけれど、履きなれなくて変な感じだ。
釣り香炉には最初から
主の
雪は進むごとに確実に増えた。
最初は道端の所々が白かったのが、それほど進まない内に道以外は真っ白になった。
さらに次の日に進んだ道は、もう道も真っ白だった。空気もしん、とした硬い冷たさだ。
そして雪の積もった道は判りにくい。案内人が必要なはずだ。
今はもう馬も
日吉が鞍に毛皮を敷いてくれたのが効いたのか、連日の馬に乗っての行程でも、おしりはそれほど擦れずに済んでいる。毎日乗っているんだからちょっとぐらいは上達もしているのかもしれない。
一彦たちと合流してからさらに丸二日進んで、そろそろ日が賤網という頃に、ついに
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます