第3話 龍眼(たつのめ)へ

 裏に毛皮を張った皮衣かわごろもは、みやこで見たことのあるものとはまるで違った。

 京でたまにお年寄りが着ていることのある皮衣かわごろもは、袖がなく、丈も短いことが多い。しかし日吉が見つけてきてくれた皮衣かわごろもはたっぷりと長かった。

 袖はなくて腕は必要なら打ち合わせから出すか、横の切れ込みから出すかするらしい。

 「季節じゃありませんのでね。良いものが安く買えました。」

 そう言って広げた主のための皮衣かわごろもは淡い金色の毛皮を裏に張って、表には金糸で刺繍した茶色い皮を使った絢爛な品だ。私の分に渡されたのは、純白の毛皮に漂白したような白っぽい皮の表を張ったものだった。縁に緑のつる草の刺繍が入り、所々に色とりどりの花も刺繍されているのが可愛い。

 皮衣に合わせた意匠の皮靴も内側が毛皮で、足に合わせて革紐でとめるようになっている。

 袙は手持ちの半分を館の女たちが総出で綿入れに仕立てかえてくれた。厚手の指貫や切袴も用意されている。

 しかし、これははっきり言って暑苦しい。今の季節にはありえない衣類だ。

 「首戸おびとを渡るまでこれはいりません。渡ってもしばらくは無用かもしれませんが、おそらく無しではすみませんので。」

 厚手になったせいで嵩張るようになった衣類のせいで荷物は盛大に大きくなった。

 さらに大量の食べ物が準備される。

 「がしらは実りの良くない地域でございますし、手土産も含めてこのぐらいは必要でございましょう。」

 日吉の意見はもっともだったので、主もただうなずいていた。

 来たときよりも大きな船にその大荷物と一緒に乗り込み、首戸おびとの海を渡る。流れのきつい首戸おびとを渡るために、船は海竜に引かせているのだけど、この海竜が面白かった。

 みやこで舟を引くのに、私も使っている竜魚よりは大きい。たぶん倍近く大きいと思う。でも、竜魚が登竜して成る竜に比べると明らかに小さい。

 大きな船なのでその海竜を八頭もつないで使うのだ。

 海竜を使う渡魚師とぎょしをここでは竜飼たつかいと言うのだそうだけど、やはり口噛んだ餌で海竜を躾けるのだという。

 「ちょっと触ってみるかい。」

 船からじっと眺めていると、竜飼たつかいがそう言ってくれたので、船から下り際にちょっとだけ海竜を触らせてもらった。

 鱗が硬い。竜魚よりもずっと硬い。竜魚はちょっとぬめっとしてるけど、海竜は金物を触っているみたいな感じだ。竜の鱗はちょっと玻璃を思わせる手触りだけど、それとも違った。やっぱり流れのきつい海の竜だからだろうか。

 いつも私が舟を引かせている竜魚も合わせて、煌宮かぐのみやの竜魚は全部、宮の渡魚師の柑次さんが管理してくれているけれど、海竜の話をしたら面白がってくれるかもしれない。

 首戸おびとを渡る内に冷え始めて、それだけは手元においた方がいいと日吉が教えてくれた袷の袙を重ねても、船を下りるとちょっと肌寒い感じだった。

 「お急ぎならば今日はこのまま馬で進んだほうが良うございます。すでに馬の手配は頼んでございますので、少々お待ち下さい。」

 乗ってきた船のそばに荷を積んだ上に、主が座る。そばに控えながら周囲を見れば、明らかに遠巻きにされているのがわかった。遠巻きにしながら主の方に見入っているのは、主のかぐにあてられているのだろう。

 こんなにみやこから離れた場所で、目立つまいというのは無理に決まっている。そもそもかぐの強い主に、お忍びなんて無理な相談というものだ。注目を集めていれば荷に手を出す者もいないだろうと開き直るしかない。

 松津まつのつ刈津かりのつほど大きなみなとではない。でも市は大きくて賑わっているように見える。 

 しばらく待つと日吉さんが馬と馬飼を連れて戻った。

 毛が長く、足の太いどっしりした馬は、見慣れた馬とはずいぶん違う。馬は全部で五頭いた。馬飼は二人いて、親子だという事だった。子の方は私と同じくらいの男の子だ。

 「地馬でございますので走って早いということはございませんが、力はございますし、長く歩きます。雪や寒さにも強い、がしらを行くにはうってつけの馬です。」

 私は自分の乗る馬に薫餌を与えて鼻面をなでた。

 馬飼の親子は手際よく大量の荷物を馬に振り分けて行く。主の乗馬にも私の乗馬にも荷がくくりつけられた。

 「半日ほど行ったところに里がございます。今晩はそちらに泊まるのがよろしいかと。」

 半日馬に乗るのかと思うと、あのおしりの擦れた痛みがよみがえってくる気がする。しかも日吉さんの言い方からすると、きっと明日も馬だろう。

 ちょっと暗い気持ちになったけれど、日吉さんは私の馬の鞍に毛皮と布をあててくれた。

 馬飼の親子は無口だった。

 無口というか、自分たちだけで小さな声で時々話している。

 私はそもそも声を出せないし、主もそれほど話さないので、時々日吉が話す以外は静かな一行だ。

 道はなだらかだったけれど、じわじわと寒くなってくるので、途中で綿を入れた袙を荷から引っ張り出した。

 首戸おびとを挟んだ刈津かりのつは、あんなに暑かったのに。

 「本当に冷えてきているな。」

 主の表情は硬かった。

 里長の家の客間で目覚めた、次の日の朝は寒かった。

 私達は厚手の袴をはいて、袷の袙を重ねて着た。

 



 三日目には皮衣かわごろもを羽織って進むようになった。

 裏が毛皮の皮ぃは本当に暖かい。お年寄りが着ているのを見たことはあっても、ここまで暖かなものだとは知らなかった。

 皮衣かわごろもが暖かい分、下に重ねる衣を減らすので、動きやすくもなる。

 「帰りに土産に求めて帰ろうか。」

 主が誰に、と考えているのかは簡単にわかった。輝宮の家政を切り回す老夫婦にだ。主が生まれたときから仕えているという二人は、主にも、他の召人にも「爺どの」「婆どの」と呼ばれて敬われている。主は実質的にはこの老夫婦に育てられたのだそうだ。

 そしてその三日目の午後には、道端の所々に雪が残るようになった。

 「馬の手綱は皮衣かわごろもの中に引き込んで握れば、暖かいですよ。」

 日吉に教えてもらった通りに手綱は皮衣の中で握る。

 たった三日前の朝は、涼風を喜んでいたのに、なんて極端なんだろう。この辺りでは北の冷たい神気が濃すぎて、やたらと神霊化している。その神気や神霊が主を慕うので、一層寒い思いをする羽目になるのだ。

 私は薫餌くのえを小さな釣り香炉で焚いた。神霊に感応しない主は、神霊に希望を伝える事もできない。だから私がかわりに、私達にはこれ以上の冷気はいらないのだと伝えるのだ。

 本来なら意識的にかぐを用いてなすべき術を教えて下さったのはやはり乙姫様で、薫餌くのえを焚く方法は試行錯誤の末に一緒に考え出したものだ。主の煌(かぐ)に私の薫餌くのえの香をのせて、そこに集まった神霊にこちらの意図を知らせている。これも主のかぐあっての裏技だ。

 薫餌くのえの香が私達の一行を取り巻くように広がると、打ち寄せていた冷気が少し落ち着いた。

 「やれやれ、少し寒さが緩みましたか。それにしても本当に、今年はえらく雪が残っておりますね。いくらがしらでもこのぐらいの時期になればこの辺りでは雪を見ることはないのが普通なんですが。」

 日吉が自分の皮衣かわごろもの襟を直しながら言う。日吉の皮衣かわごろもは愛用の品なのか年季が入ってやわらかそうだ。

 「今年はいつまでも冷てえです。」

 馬飼の子のほうがポツリと答えた。

 馬飼の親子も繕いのあとのある皮衣かわごろもをそれぞれに着込んでいる。毛皮裏の皮衣かわごろもというのは、この辺りでは必ず必要な衣類なのだろう。

 その夜は、馬飼親子が住んでいるという里に泊まった。

 泊まるのはもちろん里長の家で、馬飼の親子は荷物を下ろすと馬を連れて自分の家に帰って行く。客間の庇から、馬飼の妻らしき女性が親子を迎えに来ているのが見えた。馬飼の子が楽しそうに何か話している。

 私はなんとなく目をそらし、荷解きに戻った。一夜の宿とは言っても、最低限の荷は解かなければならない。

 刈津かりのつたちがそうであったように、がしらの家もあまり風通しはよくない。このぐらい寒くなると、その理由はよくわかった。庇との間も出入り口以外は、上の方に明り取りの窓をあけて壁で仕切ってある。

 庇の間も概ね同じような作りで、明り取りの窓に枠に布を張った戸がついているのと、出入り口に厚手の布が垂らされているのが違う。明り取りの窓の幾つかは上げてあって、そこから外が見えていた。

 このぐらい寒いと確かに風は通らない方がありがたい。

 その上大きな火桶にたっぷりの炭が熾されているので、客間の中は暖かかった。

 ここからは先は龍眼たつのめから迎えに来てくれているのだそうで、日吉はそちらの話をするために、里長と話しに行っている。

 皮衣かわごろもを衣桁にかけ、湿気を飛ばす。火桶には一つ薫餌くのえをくべた。そうして火からおこる神気を力づけるのだ。炎は小さな形をとって、くべた薫餌を取り込んでゆく。ふわりと慣れた香りが、慣れない部屋に広がった。

 主はおしまずきにもたれて地図を見ている。

 「蜜月みつき、墨をすってくれ。」

 荷から取り出してあった硯箱を開け、硯に水を入れて墨をする。


 墨はすばやくすらねばならんが慌ててはいかん。静かな気持ちできっちりとすらねばならんぞ。


 読み書きや墨のすり方を教えてくれたのは爺どのだ。主に常に従う従者には必要なことだからと、それは厳しく仕込まれた。

 ちょうどいいかというほどに濃くなった墨を、主の側に運んだ文机に置く。筆や紙も添えて、主が使いやすいように整える。

 文机は客間に備え付けてあったもので、細工は簡素だけれどよく手入れされて、磨きあげられていた。文机に限らず、この客間の印象そのものがそんな感じだ。使わない時でも丁寧に手入れして、大事にしている感じがする。

 「北の神気はやはりがしらに溜まってしまっている。どうやら首戸おびとを渡れずにいるようだ。理由まではわからないが。松津まつのつから離れるほどに寒くなっているのだから、神気は頭(がしら)の北側か、そうでなければ中心部でたまってしまっているんだろう。」

 きっと主の言うとおりなのだろう。実際に進むに連れて急激に寒くなっている。

 私はずっと、神気というものは自然に巡るものなのだと思っていた。こんな風に滞る事があるとは思っていなかった。

 「いや、確かに自然に巡るものなんだ。この北の神気だってずっと凝り固まってはいないだろう。冬になれば北の神気が膨れるし、そうなればどうしても押し出されてくる。おそらく限界を超えれば弾けるように大量の神気が一気に南へ動き出すだろう。そうして今度は極端な寒さを連れてくる。」

 主が書き付けを確認しているようすから言うと、きっと今までにもそういうことはあったのだ。

 「本来ならもう少し細く、常に循環しているものなんだが、今年は南の神気が強く、押し出しが早かったから、北の神気が凝ってしまったんだ。一度凝った神気はきっかけがないとなかなか循環しない。」

 強い神気が押し出すって、さっきも似たような事を言っていたような。

 「そうだ。このまま行くと今度は南の神気が凝って、来年の春は遅く、夏は暑くなる。少しづつ解消してはいっても、何年かはそんな状態が続くだろう。」

 でも、もうすぐ北の神気を招く夏越祓(なごしのはらえ)もあるというのに、それでは招けないのだろうか。

 「もちろん招くことはできる。そのための大祓だ。だが、これだけはっきりと凝っているとそれだけでは効き目が弱い。こちらから神気を押す事が出来れば話が早いが、私にそれは難しい。蜜月みつきが手伝ってくれてもそれはそうだろう?」

 それは確かにそうだ。

 かぐというのは神霊を惹きつけるをから、招くことは容易いけれど、遠ざけるとなると難しくなる。かぐだけ放って神霊に感応しない主にそんな事ができるはずがないし、私にだって無理だ。

 でも、それじゃあ主はどうやって、お役目を果たすつもりなのだろう。

 「そこなんだ。もしかしたら『龍眼たつのめが開く』ということがそのあたりと関係ないかと思ってはいるんだが。」

 そう言って、主は再び地図を睨んだ。

 


 夕餉のあと、龍眼たつのめの案内人に引き合わされた。主より少し若いような二人は、兄弟なのだそうだ。

 「龍眼たつのめよりお迎えにあがりました。今年はいまだに雪が深く、おいでいただくのは並みの事ではございません。我らの承る事ができる事であれば、そうせよと長より申しつかっておりますが。」

 兄だという一彦の口上は整っていた。これならみやこで貴人に仕えても大丈夫だと思う。さすがは采女を奉るような豪族だけの事はあって、所作も綺麗だ。

 「いや、私が自ら行かねばならぬであろう事だ。ご苦労だが案内を頼む。」

 主の言葉で、案内人の二人と日吉も一緒に明日からの行程について話し始める。

 雪が深い、というのにはすごく驚いた。だってもう夏越の月に入って十八日目だ。こんな時期に雪が残っているだけでも驚いたのに、それが深いだなんて。

 みやこでは積もるほどの雪なんて、年越しの前後くらいしか降らないのに。

 「頭(がしら)の奥の方では年中雪が残るというのは聞いた事がある。龍眼(たつのめ)辺りなら雪自体は年中あるのじゃないか?」

 主の言葉に弟の方の次彦が笑う。

 「いえ、さすがに里人の住むようなところはたいてい溶けてしまいます。森の奥などには結構残っている事が多いですが。」

 それが今年は道中が大変なほどに雪があると言うのだから、大変なことなのだろう。

 道中は最初考えていたよりも少し長くなりそうなようだ。夏の道がまだ雪でふさがっているので、冬の道を使うしかないのだという。季節で道が違うというのは、ちょっと珍しくて面白い。

 「明日はこちらに泊まって、ここからこちらへ向かいます。」

 地図を見るのは得意ではないけれど、これまでに比べて迂回するというのはわかった。

 次の日からは履物も皮靴を履くことになった。内側が毛皮の皮靴はふかふかして暖かいけれど、履きなれなくて変な感じだ。

 釣り香炉には最初から薫餌くのえを焚いておく。北の神気はもう十分濃いし、この先薄くはならないだろう。

 主のかぐに慕いよる神霊に、冷気を避ける盾になってもらう。追いやるのは無理でも、このぐらいのことは出来るのだけど、これでお役目をどうにかするのは難しそうな気もする。

 雪は進むごとに確実に増えた。

 最初は道端の所々が白かったのが、それほど進まない内に道以外は真っ白になった。

 さらに次の日に進んだ道は、もう道も真っ白だった。空気もしん、とした硬い冷たさだ。

 そして雪の積もった道は判りにくい。案内人が必要なはずだ。

 今はもう馬も龍眼たつのめから一彦たちが連れてきたものに乗り換えているので、馬の方が雪に慣れている。だから速度は落ちても道行きが滞ることはなかった。

 日吉が鞍に毛皮を敷いてくれたのが効いたのか、連日の馬に乗っての行程でも、おしりはそれほど擦れずに済んでいる。毎日乗っているんだからちょっとぐらいは上達もしているのかもしれない。

 一彦たちと合流してからさらに丸二日進んで、そろそろ日が賤網という頃に、ついに龍眼たつのめたちについた。

 

 

 




 

 

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