変質者

「もう、抜いちゃって下さい」

 花房倫子はなぶさりんこが言った。年は四十。小綺麗な格好をして歯医者へきていた。

「うーん。もうちょっと、頑張ろうか。腫れてもいないよ」

「でも、変なんですよ。顔もいたくなるし…それに歯が変だと、集中力にかけちゃって」

「触らないでおこうか。他の歯のクリーニングしておくね。また二週間後みてみようか、お大事に」


 歯の神経治療で半年も歯医者通いだ。倫子は苛々していた。今年はPTAに町内会の役員までやっている。右上の一番奥の歯をいじってるせいか、頭痛や耳鳴りまでする。


 PTAは、専業主婦で断りにくかった。介護でもしていれば別だが実の両親は他界した。夫の親は飛行機の距離だ。働いてる倫子の友達は、


「私は暇じゃないのよ。倫子は暇だと思われるからPTA選ばれちゃうんじゃない?」

「専業主婦?家で何してるの?暇じゃない?私は無理」



 という。



PTAをしても、登下校の見守りをしても、タダ働き。そして、稼いでる主婦たちの収入は倫子に入る訳でもない。税金を納めてないとしても、一世帯で換算するなら夫が多めに払ってくれている。割が合わないと倫子は思ったが、口にはしなかった。


 夫は家事と育児倫子任せ。箸を取りに席を立つこともない。娘のバレエにお金もかかる。塾も行かせてもらってるのだ。箸くらい、何でもない。


 息子は高い英語教室に通っている。習い事は夫の命令だった。倫子は送り迎えと家事で1日が終わる。塾で分からないのを倫子が家で教える。倫子は、どちらかといえば習い事は反対だった。子供は外で友達と遊べばいいと思っていた。たが、夫は違う。そして週1の習い事のない日は娘はオンラインで友達とゲームする。


 何もかもが、自分の人生が歯に物が挟まったような感覚だった。幸せなのだろう。子供とずっと一緒だ。夜は体の弱い長男のために夜間の外来に通いつめることもある。倫子は常に疲れていた。自分の時間はなかった。土日もサッカーだ、バレエだの大忙しだ。一体、求めていた人生は何だったんだろう。何がしたかったのか。疲れていてさっぱりわからない。


 倫子は歯医者から帰る途中、近所の公園で人だかりが出来ているのをみた。


 一人が顔をあげると山下だった。倫子の娘の同級生のお母さんだ。高校生の息子がいる町に昔からいる住人だ。いつも分厚い眼鏡かけているが仕事のときははずしてる美人だ。

「花房さん!」

 山下がかけよってくる。「なあに?誰か病気?怪我?救急車呼ぶ?」

 倫子がいうと、

「菜々ちゃんがいなくなったの!」



 他のお母さん達も口々に言う。一年生の菜々ちゃんがいないという。一年生を一人で遊ばせていたの?という誰かの一言に「お姉ちゃんと一緒だったみたいだけど、お姉ちゃん他の友達と遊ぶのに夢中で気付いたらいなかったって」

 倫子は慌てた。

「とにかく警察へ。何時からいないの?皆は急いでここら辺を探して。山下さん。私のスマホに菜々ちゃんの顔と情報流して。菜々ちゃんのお母さんさえ良ければ、グループトークに流すわ。皆もそうしない?」

 それがいい、と皆はスマホをだした。菜々の母親は黒いジャージを着た若い女だった。他のママ友に支えられながら近くの派出所へといった。



「えーっと。一年生?いつから?」



 母親達の焦燥感とは正反対の落ち着いた、のんびりした年配の警官が聞く。

「いつって?ええと、わからないわ!だって、お姉ちゃんも気づいてないのよ?」

「大体でいいですから」

「え?…あの…3時?」

「3時からいないの?」

「ええと…3時かしら?あの、お願い!のんびりしてられないわ。すぐ探してください。何かあったら!急げば間に合うかもしれないでしょう?もしも、もしも、誰かに連れ去られたら…!」

「お母さん、落ち着いてねぇー。どこでいなくなったのかなぁ。あ、ちょっと待ってね。パトロール中の人にも伝えるから…」

 警官のおじさんがゆったりとしている最中、倫子のスマホは鳴りっぱなしだ。


 外へでるわね、といって倫子はでた。ウォーキングしている近所のおばさん達を見つけたからだ。

「花房です、こんにちは。あの大変なんです。女の子がいないんです。一年生の女の子が一人歩いてたら、教えてくださいます?」

「ええ!わかったわ!どんな子かしら?」

 倫子は派出所の中にいるお母さんを一人呼ぶ。頷きながら一人がでてくる。マンションに住む高木だ。


 派出所で警官のおじさんはゆったりと話してる。

「一年生かぁ。ひょっこり帰ってくるような気もしますがね。友達見つけてついてったとか。お姉ちゃんと喧嘩とかした?探しますよ、もちろん。でもまだ、二時間もたってないでしょう?」

 菜々の母親がもうすっかり泣きじゃくって言葉も飛び飛びになってる。隣にいた母親が慌てて慰める。

「でも、さ、3時半からピアノです。あ、あの子、それを覚えてるはずです!ねぇ、そんなにゆっくりしてるの?お願い!早く…!」

「でも、お子さん、ピアノのこと忘れちゃってるくらい夢中で遊んでるんでしょう?」

 警官のおじさんは真顔で言った。菜々の母親はわあわあと泣きはじめた。




 倫子は高木に子供達が帰宅するからといって、一度戻った。高木も「あっ」といって私も戻ると言った。



 倫子は慌てて家へ戻りながら下校中の娘と息子の姿を見つけると事情を説明した。高学年の娘はみんなに携帯で連絡をとる、といい、低学年の弟が家から出ないように見ておくからお母さんは探すの手伝ってあげて、といった。

「そのうちに帰ってくるといいけど」

それは皆、「菜々ちゃんがひょっこり帰って来ても叱らないでやろう」という暗黙の伝達のようなものだった。


 倫子は自転車をだして、「菜々ちゃーん!」と叫びながら走り回った。PTAから町内会、子供会の人まで在宅だった人が皆外へと出ている。

 至るところでお母さん達が叫んでいた。ウォーキングのおばあさん達もだった。


 すると、ショートカットでパーマに見えるが実は天然パーマである高木が大慌てで走ってきた。高木は防犯カメラの数を増やしたりと引っ越しして一年で任された町内会の役割をちゃんとこなす女だった。


「小さい女の子と一緒の怪しい男を見たって!あの、駅近くの神社で!山下さんの上のお子さんがつけてる!」


 倫子達は自転車で向かった。それぞれ皆、駅の中や神社の中へと入っていった。そこは古びた家が多く、廃屋のような家もある。そこで不自然な物音がしたらしく、倫子は手招きされた。

 倫子が耳を澄ませていると、ウォーキングのおばあさんとその嫁がきていて、木製バッドを持っていた。倫子はおばあさんからバッドをそっと受け取った。


 そして皆が頷いたかと思うと、廃屋の草ぼうぼうの入り口からドアを開けようとしたが、しまっていた。皆が顔をあげたが、おばあさんがいった。

「壊しなさい」

 倫子は思い切り叩き割った。他にもお母さん達はゴルフクラブや子供のバットを持っていたので大きな物音のを立ててあっという間にドアが壊れた。すると同時に、「裏口!裏口から逃げたわ!こっち!」

 という声がした。

 倫子達が慌てて裏へと回ると、細い女の子の腕をひいた、若い、目の焦点の合わない男がいた。若い男は小柄だった。


 女達は変質者を前にして後ずさった。だが、山下の高校生の息子が、男の背中をバッドで殴った。同時に女の子から手がはなれ、倫子が確保した。そして近くにいたウォーキングのおばあさんに渡すと、おばあさんはいきなり女の子の青のワンピースをまくりあげたかと思うと「パンツはいてるわ!」と叫んだ。


 女達は安堵感と同時に激しい怒りを覚えた。


倫子が男へと殴りかかった。だが男は強く、山下の息子がバッドを取られてしまった。しかもそれで倫子は顔面を殴られた。倫子ではない、誰か女の人の悲鳴があがった。


 殴られた当人である倫子はさけぶことなどできなかった。顎が割れた、と倫子は思った。空を見ながら、アスファルトでごろんと横を向くと山下の息子もバッドで殴られている最中だった。


 必死で腕で顔を守っている。顎からがんがん頭に痛みが響き、顔中が熱い。怒りで目が見開いた。恐怖で閉じるではない、顔を、殴られたのだ。


倫子の口から血が溢れ、じゃりっとした。砂が口にはいったのか?しまった、大きな塊がある。これは、歯か?治療中の歯か?


 倫子はバッドを拾うと、舌で器用に歯を転がしそっと唇の外に出してから変質者の頭に狙いをつけた。


 倫子が思い切りバッドを振り下ろした頃、菜々のお母さんはのんびりした警官に経緯の説明をし終えていた。



「パトロールの警官にも伝えたからね。お母さん、大丈夫だよ」

おじさん警官は呆然自失の母親の様子とは対照的に、何事もないに決まってるとでも言わんばかりに呑気に言った。


 


倫子は、頬骨と顎の骨が折れいた。そして治療中ではない奥歯も一本砕かれ、顔がぱんぱんに腫れ上がった。


 変質者は残念ながら、動いたために頭を叩き割ることができず、左肩甲骨だけ倫子は砕くことができた。



「頭かちわれなかったわねぇ!」



 倫子を見舞いにきた母親達は口々にいった。

 女の子は元気よくまた学校へ通っている。それが町の皆を一番ほっとさせた。


 顔の腫れが引いた頃、思い出したかのように倫子は歯医者へいった。耳なりにしろ、歯の不具合がなくなっていた。治療は無事終了した。歯は大事だよ、と半年もかけて治療して残してくれたのだ。そして、反対の失くなった歯をみて先生が首をかしげていると、

「名誉の負傷なんですよ」と、歯科衛生士が楽しそうに説明した。すると、いつも無表情の先生が感心したようだった。

「まあ、上の奥歯ならそんなに困ることないから。そんなことこがあったんだね。じゃあ、今日タダでクリーニングしてあげるね」


 と、言った。



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