ヤエ
川崎ヤエは太めで、背の低い単純な女だった。近所の噂話が大好きで、ヤエそっくりの一人息子を大事にしていた。
近所に若い、顔の薄い美しい女がいた。女には美しい息子がいたが、その子が母親の悩みの種だとヤエは数回、挨拶を交わしただけで女の勘でわかった。母親が無意識に隠そうとするのでますますヤエは興味津々だった。
ヤエが子供に挨拶しても無視、誉めても無視、貶しても無視。
まるで反応しない男の子は、いつしか大きくなっており、子猫を殺したという噂が流れていた。
ヤエは週一回、モーニングにいつも女友達と集まる。
遅れてごめん、ヤエはちっとも悪びれない様子で皆がモーニングを食べてるところ、ソファの隅っこにどすんと座った。
女たちは町内会からご近所の噂と芸能人達の生活をベラベラと語りあう。
不思議なことにちょっと他人がそこの話を耳に挟めば「なるほど」という意見にも聞こえた。
芸能人さえまるで出来の悪い親戚のことでも話してるかのようだった。そして、
「私らの意見さえ聞けば皆道を間違えなかった」
と、だめなところを見つけては勝手に嘆いた。
そして、メンバーの一人がヤエがきて全員揃ったので、もったいつけてとっておきの話をしはじめた。
皆の注意をひかつけてから、重大発表をした。近所の子供が猫を殺したそうよ、と。
女たちははっとした。
ヤエはひとしきり、女の話を聞いていたが、それが気に入らない女だったので思わず方言で応えた。
「なんが、猫なんて小さかろうもん。子供も力加減わからんかったたい」
その言葉に、それもそうだ、と他の女たちも頷いた。だが、話した女はその話の全部裏をとっていた。
「あんた、そんなこといっても子供が動物殺すのはとんでもないことよ。あの家の子よ。あんたも挨拶せんって言ってたわ。あの子、いろいろ足りとらんのに、幼稚園の先生や小学校の先生が遠回しにいろいろ言っても『うちの子はおとなしい子なんです』って訳のわからんことをいって、特別な勉強させないのよ。嫁が言ってたけど、させてやればいいって。今はいろんな勉強あるのに。母親だから認められんのね。あの家の隣にも、流行りのニートが住んでる。太っちょの。そういう人達が犯罪犯すに決まってるわ」
「なんが、そんなこといったらあんたもこわいわー!」
ヤエは喫茶店にいる人達がびっくりするほどの声で叫んで、びっくりしつもも女たちは笑った。ヤエは大御所の歌手のようにどうもどうもと、店の人達に頭を下げた。動きがコミカルなのだ。髪の毛の一部も紫だった。
そして、テーブルにつく女友達はご意見番のヤエが喋るのを今か今かと待った。これだから、毎朝ここへ来るのが楽しみなのよ、と誰かが言った。。
「あの子、頭が足りん子かもわからん。でもそれを外で話すのはだめよ。母親が一番苦しんどるわ」
ヤエの言葉は思いの外短かった。一人はヤエにも一人息子がいるからだなと思った。そして、皆が神妙にうなずいた。話は終わった。
ヤエの言うとおり、顔の薄い美しい女は子供の障害が認められないまま子供は五年生になっており、困り果てていた。
着替えたりご飯をたべることはできる。そしておとなしいのでクラスに馴染むことはできる。だが、母親は子供に考える力がかけてるのを認められなかった。
そして、隣に住む太った善良な男を「無職だから」といっていつも夫に文句をいい、息子の問題を隣の無職の男とすりかえた。
それでも、おとなしい息子が血まみれの猫を抱えて帰って来たことで母親はすっかり取り乱してしまい、それで、息子が猫を殺したことが近所中にばれてしまった。それが数日前の出来事だった。
もう死ぬしかない。女は子供のことを誰にも相談しなかったので、こんなときなのに、相談する人も助けてくれる人もいなかったのだった。呆けた頭でぼんやり考えて、ガスコンロに燃えそうな服を置いて火をつけた。
そして、愛しい息子を抱き締めて、リビングに座った。ああ、疲れた。私は息子を愛してる。大丈夫よ、どこまでも守ってあげるからね。こんなに可愛い息子。ああ、一体何がだめなの?
息子はちっとも悪くないのに。もう、何もかも考えるのが疲れたわ…
焼け焦げた匂いに気付いたのは隣のニートだった。男は昔、中学二年の多感な時期に教室で大便を漏らしてから学校へ行かなくなって22歳になっていた。
正直時間が経ちすぎて、就職のきっかけも復学のきっかけもつかめないでいたが、部屋にいるのもそろそろ飽きてきた頃だった。
そして、暇をもて余していた彼は火事に気付いていち早く通報し外へと飛び出した。中に人がいる!とそこに通りかかったヤエが叫んでるのを聞いて、
「それは本当ですか?何人?」
と慌てて聞いた。
「母親がおるよ!誰もおらんかったら火がつかんでしょうが!」
ヤエは見たわけではない、とも言った。だが、嫌な予感がしたのだ。太っちょは悩んでいたようだが、しばらくして意を決したようにその家の庭の水道から水をバケツにくんで頭からかぶった。
そして、皆が叫ぶなか、勇敢にも家の中に飛び込んで子供と母親を抱えて出てきたのだった。
その現場は近所の暇な老人達でいっぱいだった。それは人の記憶に一生残るような出来事だった。ヤエはいつまでも興奮して語り続けた。
「太っちょが、あんた、その人背も高かろうもん!バケツもったらそらあんた、あれ洗面器かな?ってくらい小さくてねぇ!そしたら頭からばっしゃあって水かけたと思ったら!灰色の煙ん中!飛び込んだ!しかもよ、大人の女一人と子供抱えてきて出てきたのよ!あんた!わかる?自分も死んどったかもわからんのによ?!」
ヤエはその話を1日も欠かさず近所に触れ回り、そして毎日家族に語った。家族は呆れたが、いつも聞いてやった。
それから年月がたった。ヤエは脳梗塞を起こして入院した。そしてリハビリを受けてまた町の喫茶店に戻ってきた。
太っちょのニートはあれからすぐ就職をして、体型も落ち着き、奥さんと子供もいる。彼は町の英雄となった。
顔の薄い美しい母親はそれから心を入れかえて、息子の考える力が足りないことを嘆くのをやめて、
「隣のお兄さんみたいに、勇敢な人間になってくれれば」
と、息子を暖かく育てたのだった。周りの人も彼女に目を配った。町の皆は、女の息子に動物の可愛がり方を教えてやるようになった。挨拶したら、返し方も教えてやるおじさんもいた。
太っちょニートは、隣のその男の子をいつまでも気にかけ、自分の子供達にも彼のことをいつまでも気にかけるように、といって幸福な人生を送り、大往生を遂げた。
美しい女はそれより前に亡くなっていたが隣の男に感謝しない日はなかった。女の息子は五十代で既に老人のような外見となったが、母親の望む穏やかな人生を、彼はその年になって手にいれていた。
ヤエは百歳まで生きる、と言い張っていたがあと、少しというところで亡くなった。
自宅の狭いアパートの、ヤエのために借りていた介護用ベッドを息子が引き払いながら、業者にむかって話し始めた。
「この近所に太った男がおったんですよ。その男はね、若くて仕事してなかったんだけどね、火事があったときに…」
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