涙の訳は
翌朝、マルティナ達は目覚めて早々に古代樹を探し始めたのだが、捜索を開始してからものの十数分で目的のポイントを見つけた。どうやら地図上の印も、自分達の現在地にも大きなズレは生じていなかったようだ。
噂通り、古代樹は巨大だった。
目測でしかないが、幹の直径は20メートル弱といったところだろうか。圧倒されるほどの太い幹が、広がるように上空に伸び、枝分かれした先には青々とした葉をつけている。一本の木で近辺の空が隠れるほど枝葉が生い茂っているので、正確な高さはよくわからないが50メートルくらいはありそうだ。
古代樹の影になっているためか、根元から2、30メートルほど離れるまで草木がほとんど生えていない。つまり、密林地帯の中では珍しく、この辺りだけ開けて見通しのいい場所となっていた。マルティナ達は、藪に身を隠せるギリギリのところで、その古代樹を遠目から観察していた。
「想像以上にでかいな。これなら樹齢一万年を越えているっていうのもあり得ない話じゃないかもな」
エヴァンは感心した様子で手帳に古代樹のことを書いていたが、その枝葉を見上げて苦笑する。
「ただ、やっぱり近づくことも無理そうだけどな」
古代樹の大きさが噂通りだったのと同様に、ショウシンザルがそこをねぐらにしているというのも本当だったのだ。しかも、その数は思っていた以上に多く、ざっと50匹ほどの猿が古代樹の枝に列をなして座っていた。その真っ赤な顔は、緑色の葉をバックにするとさらに映えて見える。
「すごい数ですね……」
「ああ。見えてるだけであの数ってことは、ひょっとすると100匹を越える大所帯かもな」
エヴァンがお手上げだと言った数の5倍はいるかもしれないということだ。たくましい樹枝の上でショウシンザルがずらりと並んでいる姿は、ため息が出るほど圧巻ではあったが、ある意味では危険な光景だともいえるわけである。マルティナはなんだか背中が薄ら寒くなっていた。
――と、そのときだった。マルティナ達が観察していた場所とは少し離れた藪の中から、一羽のウサギ型モンスターがぴょこんと飛び出してきたのだ。
無論、この樹海には多くのモンスターが生息しているので、ウサギの一羽二羽など珍しくもない。だが、そのウサギの様子がおかしいのは一目瞭然だった。瞳はとろんとして焦点があっておらず、足取りもなんだかおぼつかなかったのだ。
「あのウサギ、なんだかトリップ状態になってるみたいですね。ほかのモンスターとの戦闘で状態異常にでもさせられたんでしょうか?」
「どうだろう。ウサギには怪我ひとつなさそうだし、戦闘後というようには見えないけどな。あるいは近くに幻惑を引き起こすものがあるのかもしれないぞ。いや、むしろ――」
エヴァンがぶつぶつとつぶやきながら考えをまとめていると、当の挙動が不審なウサギはフラフラと千鳥足で、中央――つまりは古代樹の方へと寄っていく。そして根元までたどり着くと、まるで愛おしい恋人に出会ったかのように、古代樹の幹へと頬ずりをし始めた。
「――やっぱりだ。あのウサギは古代樹に惑わされていたんだ。花粉か、樹液かはわからないが、あの古代樹にはモンスターの思考を狂わす効果のあるなにかがあるんだろう」
「ですけど、ショウシンザルはそこをねぐらにしているんですよね?」
「もしかしたらショウシンザルには、その幻惑に対して耐性があるのかもな。臆病な性格のショウシンザルにだけ安全だからこそ、この場所が住み処として定着したって考えれば納得できるだろ?」
「なるほど。外敵から身を守るために古代樹を利用しているってことですね」
「いや、おれの勘ではそれだけじゃないはずだぜ。あのウサギを見ててみなって」
エヴァンに言われるがまま、マルティナは古代樹にすり寄っているウサギをじっと見つめる。
すると、不意に古代樹の上からこぶし大の石が飛んできてウサギへと直撃したではないか。おそらく一撃で絶命か、それに近い状態に陥ってしまったのだろう。ウサギは、その場でぐったりと動かなくなっていた。
それを確認するかのように、何匹かのショウシンザルが古代樹からするすると降り、ゆっくりとウサギへと近づく。そして、対象が反撃も逃走もできない状態だとわかるや否や、取り囲んでいた内の1匹がウサギを鷲掴みにすると、ササッと木の上へと戻って行ってしまった。
ウサギを手にした猿は死角に入ってしまったので、最後まで見届けることはできなかった。ただ、その後どうなったのかは、火を見るよりも明らかだといえるだろう。
「古代樹へと寄ってくるモンスターは幻惑の効果で思考が定まっていないものばかりだ。雑食のショウシンザルにとって、これほどの標的はいないだろ? いうならば奴らにとって古代樹は、安全な住み処でもあり、絶好の狩り場でもあるってわけだ」
「危険をおかして食べ物を探さなくても、獲物の方から住み処に出向いてくれるってわけですね。そう考えると、あそこまで規模の大きい群れになったのも当然かもしれませんね」
「ああ。自然の摂理とでもいうべきか。それぞれの特性を活かしたこの暮らしは見事としか言いようがないな。古代樹だけでも十分に素晴らしい絶景だったけど、これはショウシンザルの生態も含めた絶景と考えたほうがいいかもしれないぞ」
エヴァンは手帳に書き記すことに集中してしまったようで、それ以上しゃべることはなく、熱心にペンを走らせ始めた。まるで遊具を与えられた子供のように興奮した様子である。
新たな絶景に直面して目を輝かせるエヴァンの姿は、いつだってマルティナをときめかせた。ただ、いつもと違うのは、そのときめきが恋であることを知ってしまったということだ。
――やっぱり、エヴァンともっと一緒にいたい。もっとふたりでウィギドニアの絶景を見て回りたい。
再び魔法を使えるようになるには、エヴァンと距離を置くのが一番簡単な解決方法だとは頭ではわかっていた。しかし、マルティナの心はエヴァンと離れることなんて耐えられなさそうだった。
頭と心がちぐはぐだ。いったい自分がどうすればいいのかまったくわからない。
マルティナは、考えを吹っ切るかのようにエヴァンから視線を外すと、古代樹へと目を向ける。すると、少しだけ心が穏やかになった気がした。
不思議だった。古代樹をじいっと見ていると、どんどん心地がよくなっていく。これがいわゆる森林浴というやつなのだろうか。
マルティナはもっとこの心地よさに浸ろうと、食い入るように古代樹を見つめた。
なんだか、悩みも溶けて、なくなってしまうような、感覚だ。ああ、もうなにも考えず、ただ、この感覚に、身を、任せてしまおう――
「――マルティナ!」
ふと後ろから聞こえてきた馴染みの声で、マルティナはハッと我に返る。そして、自分がいつの間にか隠れていた藪の中から出て、何メートルも古代樹へと歩み寄っていたことに気づいた。
古代樹の幻惑の効果はモンスターだけにではなく、人間に対しても有効だったのだ。
すぐにそのことを悟り、藪の中へと引き返そうと思ったが、すでに遅かった。ヒュッと風切り音がしたかと思うと、木の上からマルティナの顔面めがけて石が飛んできたのだ。
マルティナは反射的に目を瞑る。だが衝撃を受けたのは狙われていたはずの顔ではなく、背後からだった。なにかが勢いよく背中へとぶつかり、マルティナは崩れるように前方向へと倒れ込んでしまう。
なにがどうなったんだろうか?
訳がわからなかったマルティナは、地面に転がった自分のメガネを拾ってかけると、慌てて後方を確認した。そして、視界に映った光景を目の当たりにして愕然としてしまう。
エヴァンがこめかみに血を流しながら倒れていたのだ。
状況は明白だった。マルティナが幻惑によって古代樹に近づいてしまったところをショウシンザルが投石し、エヴァンがそれを身代わりになって受けてしまったのである。
「エヴァンさん!」
マルティナが急いで這い寄って名前を呼びかけるも反応はない。呼吸はあるようだったが、石が頭部に直撃したため一時的に意識を失ってしまっているようだ。
マルティナは、自分の左の手の甲を血が出るほど思い切り引っ掻いていた。
痛みで自我を保てるため、自傷行為というのは幻惑にかからないようにするための定石である。だがマルティナのそれは、自分を罰する要素の方が遙かに上回っていた。
アカダイショウに襲われたときと同じだ。自分のせいでまたしてもエヴァンが怪我をしてしまった。しかも、今回は意識を失ってしまうほどの怪我だ。同じ失敗を繰り返してしまうとは、なんて情けないのだろうか。
だが、いまは後悔している場合ではなかった。ショウシンザルの群れが、少し離れた距離からではあるものの、獲物の様子を窺うかのようにマルティナ達を取り囲んでいたのだ。
意識のないエヴァンを背負って逃げられる状況ではなかった。無論ひとりで逃げるつもりもない。そうなると、マルティナがやるべきことはひとつだった。
決意を固めて立ち上がると、ショウシンザル達は驚いたようで後ろに飛び退き、マルティナとの間隔を開けた。名前通り臆病ではあるものの、獲物を逃がすつもりはないようで、取り囲んでいた猿の輪が一回り大きくなっただけだ。
マルティナはそんな猿達に向かって両手をかざした。そして、炎を打ち込むために目一杯の魔力を手のひらに込める。
――だが、無情にもその手からなにかが出てくることはなかった。
炎だから無理なのかと考え、突風を起こそうとしたり、氷を降らせようとしたりとしたが、結果は同じだった。どんなに挑戦してもマルティナの魔法が成功することはなかった。
「どうしてっ!」
マルティナは糸の切れたマリオネットのように、その場で膝から崩れてうなだれる。自身の不甲斐なさに絶望してしまったのだ。
「どうしてよ……」
結局、自分は塔に引きこもっていた頃と変わっていないんだ。こんな大事なときに魔法を使えないなんて、落ちこぼれの駄魔女からなにひとつ進歩してないじゃないか。
性格だってそうだ。エヴァンは、本当に美しいものを見れば自身の評価も変わるんじゃないかと言って冒険へと誘ってくれたが、様々な絶景を目に焼き付けた現在でも性格はネガティブなままだ。
これじゃあ憧れた茜蛍には、てんで近づけていないことだろう。
でも――
マルティナは倒れているエヴァンに視線を向ける。
――でも、ひとつだけ。この旅を通して、ひとつだけ胸を張って言えることを見つけた。
それは、世界中の誰よりもエヴァンのことが好きだということ。
じゃあ、その大好きな人を守るにはどうしたらいい? 魔法すらろくに使えない駄魔女はなにをすればいい?
……そんなの決まってるじゃないか!
腹をくくったマルティナは、エヴァンを隠すように覆い被さる。体格に差があるので、どうしても全身を覆うことはできなかったが、上半身――とくに頭部は絶対に外から見えないようにした。そして、胎児のように体を丸めることで、自身の頭部もなるべく隠れるように努めた。
これなら少しの時間稼ぎはできるはずだ。その間にエヴァンが意識を取り戻してさえくれれば……。
マルティナが出した答えは単純だった。エヴァンがそうしてくれたように、自分もエヴァンのことを身を挺して守ろうと考えたのだ。
臆病というのは、別の言い方をするなら慎重だということなのだろう。ショウシンザルは、完全な防御姿勢をとっているマルティナに対しても、一斉に攻めることはしなかった。顔を伏しているため正確にはわからないが、じりじりとにじり寄る足音だけが聞こえてくる。
――と、不意に肩口に鋭い痛みが走った。ショウシンザルの1匹が投石してきたのだ。
たまらず「うっ」とうめき声を漏らしたが、それでもマルティナが身じろぐことはなかった。
しかし、ひとつ石が投げられたことを皮切りに、次から次へと投石が続いた。そのいくつかが体に命中するたびに、マルティナは痛みで悲鳴をあげてしまう。
だが、何個石が当たろうとも、何度悲鳴をあげようとも、マルティナがエヴァンから離れることはなかった。むしろ投石を受けるごとに、ひとつの覚悟が強まっていく。自分の命が尽きるまでは――いや、尽きた後だって、エヴァンの体には指一本たりとも触れさせたりはしない、と。
もちろん、マルティナだって死にたいというわけではないし、死ぬのが恐くないというわけでもない。ただ、自分の命を投げ捨ててでも守りたい命が目の前にあるというだけの話だった。
自身の死に対してほぞを固める中、マルティナはふとある言葉を思い出す。それは魔女の町を立つ際に母から言われたものだ。
――魔女とか魔法とか、そんなことどうでもいいの。でも、お母さんみたいになりたいなら、マルティナはこの町から出なくちゃいけない。そうすれば、きっとあなたにもわかるはずだから。
母が言っていたことの意味が、いまならはっきりとわかる。母は、母にとっての父がそうであるように、自分のすべてを捧げていいと思える人を見つけるために町を出るべきだと言ってくれたのだ。
マルティナは、自分でも気づかない内に涙を流していた。
魔女なのにこんな方法でしかエヴァンを守ることのできない自分の不甲斐なさからか。
つぶてが当たって体が痛いためか。
それとも、最後の最後で自分が母のようになれたことが嬉しくてなのか。
理由はわからなかったがマルティナは泣いた。そして、その涙が頬を伝い、下で倒れているエヴァンの後頭部に落ちた――その直後のことだった。
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