『むちゅう』の中で


 ヒノワグマが現れたという場所は、テトラを東に進んだところにある湿地帯だった。その場所は以前訪れたカラサ荒野とは正反対の地質で、どこもかしこも地面に水気が含まれている。下手に走ったりでもしたら、そのぬかるみに足をとられてしまいそうだった。

 そんな大地を、マルティナはすべらないように一歩一歩慎重に進みながら、今回の依頼内容を改めて説明してくれているエヴァンの声に耳をかたむける。


「この近くに蓮田はすだ――いわゆるレンコン畑があって、そこの農夫がヒノワグマに襲われたらしい。熊ってのは一回人を襲うと何度も襲うっていわれているから、早急に退治してほしいってことでギルドに依頼が入ったんだとさ」


 熊に襲われるという危険はもちろんのことだが、そのせいで作物を収穫できなくなったとしたら、レンコン農家の人達にとっては死活問題だ。これは是が非でも果たさなければならない任務といえるだろう。


「でも、赤狼の牙の冒険者達も何人か討伐に出ているらしいけど、なかなか成果がないらしい。だからこそ、フリークエストとして、誰でも受けられるようにしたんだろうな」


「赤狼の牙の方々でもてこずるほどヒノワグマってモンスターは強いんですか?」


 意外に思ったマルティナはエヴァンに尋ねる。ヒノワグマを侮っているわけではないのだが、受付ホールにいた屈強な冒険者達が倒せないモンスターなんてそんなにいるとは思えなかったのだ。

 この質問は想定内だったようで、エヴァンは即座に言葉を返した。


「いや、赤狼の牙の冒険者は凄腕揃いだし、ただ単純に戦うだけなら倒すのには苦労しないだろう。だけど、この場所に現れたことがなかなかやっかいなんだ」


「どういうことですか?」


「まず、この足場の悪さ。こんなにぬかるんでちゃ、並の冒険者じゃ思うように動けないだう。そしてなにより――」


 エヴァンが言葉を切るのと同じタイミングで辺りにサーッと霧が立ちこめた。みるみる内に周囲は白に染色され、10メートルほど先の風景すらもかすんでしまう。


「――この霧だ。この湿地帯ではよく出るらしいんだけど、今回ターゲットとなっているヒノワグマは、この霧に乗じて人間を襲ってくるんだとさ。だから、いつの間にか襲われていたり、反撃しようにも姿すらとらえることができずに逃げられてしまうらしい」


「それはやっかいですね……。だけど、それならヒノワグマの方も条件は同じなんですから、こちらを攻撃することなんてできないんじゃないんですか?」


「いや、熊ってのは視覚よりも、嗅覚や聴覚が優れている生き物だからな。特に嗅覚は犬と同等か、それ以上ともいわれているから、こんな視界不良な場所でも相手がどこにいるかすぐにわかっちまうはずさ。つまり、この霧はヒノワグマにとって絶好の隠れ蓑ってわけだ」


 そう言うとエヴァンはそっとマルティナの手を握った。


「とりあえず、霧が出てきたってことはヒノワグマが現れる可能性が出てきたってことだから十分に注意してくれな。それから念のためにこうして手を繋いでおこう。おそらく、これ以上に霧が濃くなると思うから」


 このエヴァンの予言は見事に的中する。歩を進めるごとに霧は深くなり、目視できる距離も数メートルが限界となったのだ。


 そんな霧の中を歩きながらもマルティナは緊張していた。しかし、その緊張は視界をふさぐ霧や、いつ襲ってくるかわからない暴れ熊に対して抱いているものではない。原因は隣を歩くエヴァンである。一年も旅を続けてきてエヴァンと手を繋ぐことは何度かあったが、その行為に未だに慣れておらず、いつだって心拍数があがってしまうのだ。


 不思議なのは、その緊張を不快だと思わないことだった。むしろドキドキと高鳴る心臓の鼓動が、体を震わせることに心地よさを覚えてしまうのだから、マルティナは自分の感情に毎回戸惑っていた。

 マルティナは、この気持ちの正体がなんなのかわからなかったが、なぜだか誰にも打ち明けてはいけないと思っていた。だからこそ、平静を装ってエヴァンへと話しかけていた。


「本当にすごい霧ですよね。これもある意味では絶景といえるんじゃないんですか?」


「たしかに。マルティナに言われるまで気づけなかったけど、この霧も絶景と呼ぶに値するかもな。すべてを白で隠す光景は、まるで魔法でも見せられているかのようだしさ」


「魔法ですか……。わたしは夢を連想しました。ほら、夢ってはっきりと覚えておけないじゃないですか。だから、視界が悪い中で歩いているこの状況が、夢の中を散歩しているように感じたんです」


「なるほど。まさにどちらも『むちゅう』ってことか。しかし、見えなくなることで絶景が生まれるなんて、なんだかとんちみたいだよな」


 そんな他愛のない会話をしながらも、エヴァンがマルティナを先導するかたちで、ふたりはずいずいと真っ白な世界を突き進む。だが、しばらくするとエヴァンが不意に立ち止まり、手を繋いでいない右手で、腰元にぶら下がっているショートソードのを握った。


「……前の方になにかいる」


 マルティナも白い視界の中で前方に目をこらしてみる。するとエヴァンの言うとおり、何メートルか先の地面になにかの影が確認できた。

 熊にしては影が小さすぎる。それでも、この霧の中で軽率な行動をとるべきではないだろう。ふたりは慎重に、じりじりと『なにか』との距離を詰めていく。


 先に『なにか』の正体に気づいたのはエヴァンだった。つかんでいたショートソードを放すと、こう言った。


「人だ。誰か人が倒れる」


 この状況で倒れているということは、熊に襲われた可能性が高いということだ。マルティナ達は一刻も早く救護すべく、倒れている人の元へと駆け寄った。


「れ、レイチェルさん……」


 マルティナは思わず生唾を飲み込んでいた。その場に倒れていたのは、言葉通りレイチェルその人だったのだが、横っ腹に大きな裂傷があり、そこからドロリと血があふれ出していたのだ。

 レイチェルが倒れている先には小高い崖が切り立っており、状況から察するに、その崖の上でヒノワグマに襲われて負傷し、逃げている途中でこの場に滑落したというところだろう。


「こりゃ、マズいな」


 エヴァンは、青白い顔をしたレイチェルの口元に手をかざすと眉をひそめる。


「まだ呼吸はあるが、ひどく弱い。このままだと時間の問題だ。いますぐになんとかしないと……」


「そんな……」


「簡単な手当てならおれもできるけど、ここまでの怪我は正直どうしたらいいかわからねえ」


 エヴァンは苛立った様子で、ぎりりと歯をきしませた。と、なにか閃いた様子でマルティナに視線を向ける。


「そうだ。前に魔力を供給して楔を修復したことがあったよな? このレイチェルって子も魔女なわけだし、マルティナが傷口に魔力を込めたら治るなんてことはないのか?」


「残念ながら、それは無理です。魔女にとって魔力というのは血と同義なんです。魔法で作られた楔などの無機物なら魔力を込めるだけで修復は可能ですけど、怪我なんかを治すなら魔力を白魔法に変換させてフラットな状態にしないと、逆に体が拒否反応を起こしてしまうんです」


「そうなのか……」


 どうにかできないのだろうか。マルティナは必死で思考を巡らせていた。


 レイチェルとは仲がよかったわけでもない。しかも、先ほど言い争いをして別れたばかりだ。それでも、こうして刻々と衰弱していっている彼女を見過ごすなんてできるわけがなかった。

 でも、魔法を覚えるときに黒魔法を選んでしまった自分には、回復魔法である白魔法を使うことができない。こんなことなら学校でフェリアと一緒に白魔法を専攻しておくんだった……。


 そんな後悔をしていたマルティナだったが、不意にあることを思い出し、その場でぴょんと飛び跳ねた。


「そうだ! これを使えば!」


 そう言いながらマルティナが懐から取り出したのは、以前親友のフェリアからもらった小さな木箱である。


「え、でもそれって……」


「大丈夫です! この中に入っている活力の実なら、どんな怪我や病気でもたちどころに治ってしまうはずです!」


「いや、そういうことじゃなくって……」


 エヴァンがなにか言いたげだったが、レイチェルを救うことで頭がいっぱいだったマルティナは、すでに次の行動に移っていた。

 木箱から実を取り出すと、それをレイチェルの口に含ませる。そして、意識のない彼女が飲み込みやすいように、水も少量流し込む。すると、ごくりと喉が上下し、活力の実が胃の腑へと落ちるのが確認できた。


 変化はすぐに起きた。裂かれていた皮膚がみるみるうちにつながっていき、目も当てられないほどひどい傷口が完全にふさがったのだ。レイチェルの顔にも生気が戻り、呼吸も正常に機能しているようだった。


 その光景を見たエヴァンは感嘆の声を漏らす。


「すげぇ……」


「本当ですね。まさか、こんなにもすぐに効果が現れるなんて……。さすが活力の実ですね!」


「ははは、活力の実もそりゃすごいけど、おれがすごいって思ったのはマルティナにだよ」


 エヴァンはそう言うと優しく微笑んだ。

 しかしマルティナは、どういう意味かわからず、ぱちくりと目を瞬かせることしかできなかった。

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