霧隠れの暴れ熊
抑えきれない激情
マルティナが落雷の塔を出て、絶景を巡る旅を始めてから1年ほど経過していた。初めの頃はついていくだけでやっとだったものの、最近は冒険にもずいぶんと慣れてきたように思う。
だからこそ、エヴァンから「悪いんだが、旅を一時中断しよう」と告げられても驚くことはなかった。この1年で何度かあった出来事だったからである。
ふたりの旅がいくら貧乏旅とはいえ、まったくお金を使わないというわけではない。食料品はもちろんのこと、エヴァンが愛用しているショートソードも時折研ぎ直したりしなければならないし、3日に一回くらいは宿屋に泊まってお風呂で体を綺麗にしたいので、どうしたって必要経費というものがでてくる。
つまり、エヴァンが旅の中断を告げたということは、お金が底をついたので、なにかしらの方法で収入を得なければならないということだった。
一番手っ取り早い資金調達は、町にある冒険者ギルドで、誰でも受けることができるフリークエストを達成することである。ただ、金欠になった地点の近くにある町村に、絶対に冒険者ギルドがあるとは限らなかった。仮にギルドの本部や出張所があったとしても、フリーの依頼が必ずあるというわけでもない。
そんな場合は、どこかの飲食店で皿洗いのアルバイトをしたり、山にいる野生のモンスターを狩り、その肉や皮を売って、なんとかお金を手に入れていた。ただ実入りの面を考えれば、やはり冒険者ギルド――できれば大手のところ――のクエストをこなすほうが効率がいいのは間違いないだろう。
そういった意味では今回は運がよかった。というのも、マルティナ達の現在地はウィギドニアの南東辺りにあるテトラという町だったのだが、そこには国で一番勢力が大きい冒険者ギルド赤狼の牙の出張所があったのだ。
「やっぱり赤狼の牙クラスのギルドだとフリークエストの数も違いますね」
赤狼の牙のギルド内に入ったマルティナは、受付ホールの掲示板に張られている依頼書の数の多さに呆然としていた。いままで訪れたことのあるギルドでは、こうして張り出されているフリーのクエストは多くても両手で数えられる程度だったのだが、ここではその3倍はあったのだ。
依頼の数だけではなく、冒険者の数も多かった。剣士に
「ああ。これだけ多けりゃ、割のいいクエストもありそうだな……」
そう言いながらエヴァンは掲示板をざっと見渡すと、ひとつの依頼書を指さした。
「これなんかいいかもな。この近くの湿地帯に現れた暴れ熊の討伐依頼。ターゲットになっているヒノワグマなら何度か倒した経験があるし、報酬も悪くない」
「いいですね。それじゃあ、そのクエストにしま――」
そう言いかけたところで、ふとマルティナに声がかかった。
「あれ? あんた、マルティナじゃないの?」
マルティナが思わず言葉を飲み込んだのは、唐突に自分の名前を呼ばれたからではない。名前を呼んだのが、できることなら再会したくない人物だったからだ。
ウェーブのかかった金色の髪の毛に、意志の強さが体現されているかのようなはっきりとした目鼻立ち。見間違えるはずもなかった。マルティナの代で黒魔法科学年トップの成績で卒業した、元クラスメイトのレイチェルである。
しかしマルティナは、そんなレイチェルのことが苦手だったのだ。そのため、平静を保って挨拶をしようとしたが、どうしたって声が上擦っていた。
「お、お久しぶりです。レイチェルさん……」
「卒業して以来だから2年ぶりね。まさか、こんなところであんたと会うとは思ってもみなかったけど」
レイチェルは冷めた口調でそう言うと、ブロンドヘアをかき上げる。それからエヴァンの方を見やると、頭のてっぺんから足のつま先まで値踏みするかのような視線を向けた。
「……こちらは?」
「ああ、おれはエヴァン。マルティナとはパーティーを組んでて一緒に旅をしているんだ」
マルティナが紹介する前に自らの身の上を明かすと、エヴァンは逆に質問した。
「レイチェル――だったよな? きみはマルティナと同郷の友人なのか?」
「ええ、まあ……そんなところかしら」
レイチェルの曖昧な答えにエヴァンは「そっか」と笑顔を返すと、今度はマルティナへと向き直る。
「じゃあ、おれはこの依頼の受付を済ませちゃうからさ、マルティナ達は話でもしてなよ」
そんな……。できればレイチェルとふたりきりにはなりたくない。ただ、ここでエヴァンを引き止めれば、自分がそう思っていることをさらけ出しているようなものだ。
そうなるとマルティナとしては、気が進まないながらも「はい……」と了承するほかなかった。
こうしてエヴァンが去ると、なんとなく気まずい空気がふたりの間に流れる。元クラスメイトではあるものの、こうして一対一で向き合ったのは初めてのことだったのだからそれも当然だ。
マルティナがどうしたものかと悩んでいる中、レイチェルの艶やかな唇が動いた。
「こんなこと訊くまでもないのかもしれないけど、この場所にいるってことは、あんたも冒険者になったの?」
「あ、はい、そうなんですよ。とはいえ、レイチェルさんみたいに赤狼の牙に所属してるってわけじゃなくって、わたし達はフリーの冒険者なんですけどね」
「ま、そりゃそうよね」
レイチェルは納得した顔でうなずく。草原を連想させる明るいグリーンの瞳に、侮蔑の色が滲んでみえた。
「あんたみたいな学年最下位の落ちこぼれが入れるほど、このギルドは甘くないもの。あたしや、あそこにいるあたしの仲間みたいに、努力をして、
レイチェルが杖でさした先では、戦士と格闘家のふたりの男性が談笑していた。
なるほど。レイチェルの言うとおり、雰囲気だけで幾多の修羅場をかいくぐった
マルティナは、なんだか急に自分が場違いな存在な気がしてきていた。
「あはは、そうですよね……。わたしみたいな駄魔女じゃ、赤狼の牙どころか、所属できるギルドなんてあるわけがないですよね……」
「そうね。あんたが冒険者なんて笑っちゃうもの。せいぜいフリーとかいうごまかしの言葉で、自称冒険者を名乗るのが関の山でしょうね」
ズキリと胸が痛む。
レイチェルはエヴァンとは別の方向性で自虐が通じない人なのである。学生時代に自虐を吐いていたマルティナに対し、ほとんどの人は慰めたり、励ましたりしてくれた。それなのに彼女だけは、いつも自虐を上回る非難の言葉をぶつけてきていたのだ。
だからこそマルティナは、これ以上傷つかないようにと、いつも彼女の前ではあまりしゃべらないようにしていた。今回もそうしようと思ったのだが、こうしてふたりだけで対面しているためか、はたまた久しぶりの再会だからか、レイチェルのなじりは止まらない。
「それにしても、あんたも暴れ熊の討伐依頼受けるのね。悪いこと言わないからやめときなさい。どうせ、あんたみたいな自称冒険者じゃ無理でしょうから惨めな思いをするだけよ――って、いらない心配だったかしら? あんたはこれ以上惨めになりようがなかったもんね」
早く嵐が通り過ぎないかと、マルティナはぎゅっと唇を結んだ。どんなに非難され、嫌味を言われても、反論せずに堪え忍べば、レイチェルだってそのうち責め飽きるだろう……そう思っていた。
「ていうか、さっきの――エヴァンとかいったっけ? あんたにピッタリのお仲間じゃない。鈍くさそうで、なんか馬鹿っぽいし。まあ、どこのギルドにも所属してないって時点で、無能なのは目に見えてるけど」
ふと耳に入ってきたその言葉で、火がついたかのように腹の奥底が熱くなる。なにも言い返さないと決めていたはずなのに、つぐんだはずのマルティナの口は自然と開いていた。
「て……訂正してください!」
受付ホール全体に響くような大声だった。周囲の視線が一様に集まるが、それでもマルティナは黙るわけにはいかなかった。
「たしかにわたしは、駄魔女で、落ちこぼれで、冒険者を名乗るなんておこがましい存在です。だけど、エヴァンさんは違います!」
「な、なによ……」
レイチェルは整った眉を不服そうに寄せる。ただ、先ほどまでの威勢はまるでなかった。いままで一度だって反論をしたことがなかったマルティナが、ここまでの剣幕で声を荒らげたので怯んでしまっているのだろう。
「エヴァンさんはすごいんです! モンスターを一撃で倒すほど強いですし、冒険者としての知識だって豊富ですし、それにそれに……とにかくすごいんです! ギルドに所属してないのだって、自由な冒険をしたいからであって、決して所属できないわけじゃないんです!」
怒りという感情をここまで表現したのは初めてのことだったので、脳がパニックを起こしているのだろうか。なぜだか自然と涙があふれてくる。それでもマルティナは、泣きながらレイチェルに訴えた。
「だから、さっきの言葉は訂正してください! そして、エヴァンさんのことをよく知らないのに、悪く言ったことを謝罪してください!」
「ふん。どこのギルドにも所属してないのは事実じゃないの。それなのに逆ギレしないでよね、バッカみたい」
マルティナの要求を突っぱねると、レイチェルはぷいとそっぽを向く。そして、彼女のパーティーメンバーである、ふたりの男性の元へと行ってしまった。
「待って――」
どうしても訂正させたかったマルティナは、去りゆくレイチェルに声をかけようとしたが、それを制止するかのように背後から肩を叩かれる。振り向くと、そこにはクエストの受付を済ませて戻ってきたエヴァンが立っていた。
「おいおい、どうしたんだよ。そんなに大声出して」
「エヴァンさん……」
困惑しているエヴァンに、マルティナは切々と現状を告げる。しかし、エヴァンは最後まで話を聞くと、途端にいつもの調子でからからと笑い出した。
「な、なんで笑ってるんですか!?」
「いや、だって、マルティナがあんなに激昂してるから何事かと思ったら、そんなことだったのかって拍子抜けしちゃってさ」
むくれるマルティナの頭を子供をあやすかのようにポンポンと軽く叩くと、エヴァンは穏やかに微笑んだ。
「マルティナも知ってるだろ? おれは他人の目なんか気にしない性格だって。なにを言われても、どう思われても、おれ自身が気にしないんだからマルティナも気にしなくていいって」
言われてみればエヴァン自身が気にしてないのに、こちらが怒るのはおかしな話なような気もする。それに、こんなにも目立つ結果となって、もしかしたらエヴァンも迷惑に感じているかもしれない。
だけど、先ほどはわき上がる激情を抑えきれなかったし、未だにレイチェルのことを許せないとも思ってしまうのだ。この気持ちは、どこにぶつければよかったというのだろうか。
自分がどうするべきだったのかわからなくて胸の内がもやもやしていたマルティナに、エヴァンはこう続けた。
「……だけど、ありがとな。おれのためにそこまで怒ってくれて」
決してエヴァンに感謝されたかったから怒ったわけではない。それでも、その言葉を受けたマルティナは、心がすうっと晴れていく気がしていた。
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