店主の独白


「――あれは、5年前のちょうどいまごろでしたね。わたしはいつものようにローズダムへと仕入れに向かいました。


 カーパはそんなに大きな町ではないですから、仕入れのためとはいえ何日も店を閉めていてはいられません。数少ない道具屋がずっと閉店していたら町の人が困ってしまいますからね。

 ですので、ローズダムに行く際は、いつもなるべく店を休まなくてすむようにしています。その日もそう考えて町を出ました。


 もちろん、カラサ荒野を突っ切るルートです。このルートで休みなく歩き続ければ、丸1日かからない程度でローズダムまで行けますからね。仕入れや休息の時間を加味しても、店を休むのは3日から5日間程度ですみます。

 南の迂回路を使っていたらこうはいきませんよ。その倍――いや3倍の時間がかかってしまうことでしょう。


 しかも、意外かもしれませんが、カラサ荒野を通るほうが安全でもあるんですよ。というのも、カラサ荒野は、ウィギドニアの中でも最も生物がいない場所だと言われているからです。つまり、そこは危険なモンスターや、金品を狙う盗賊すらも存在しない場所でもあるわけですな。


 それにわたしは、その当時でもう10年近くその道を使っていました。ですので、カラサ荒野は慣れ親しんだ――と言ったら言いすぎですが、決して不慣れな土地ではありません。その日もなんの迷いもなく、カラサ荒野へと足を踏み入れました。


 いま思えば、そんな慣れがよくなかったのでしょう。わたしは自分の装備品の確認を怠っていたのです。

 しかし、当時のわたしは自分の力を過信していました。引退したとはいえ、元冒険者としてモンスターも出ない場所に臆するわけにはいきませんからね。


 ――え? ああ、ええ、そうなんですよ。お話ししていませんでしたっけ?

 わたし、元冒険者なんです。

 といっても、赤狼せきろうきばみたいな一流ギルドに属していたわけでもなく、わたし自身も名の知れた冒険者だったわけでもないんですけどね。それでも現役時代はそれなりに危険な目に遭っていたので、余生はのどかなこの町で暮らそうと決めたわけです。


 ……おっと、話が脱線してしまいましたな。えーっと、カラサ荒野に足を踏み入れたところまでお話ししたんでしたよね?


 ――ご存じだとは思いますが、カラサ荒野は一面が赤銅色の土ばかりで、目印になるものなどありません。ですが、ローズダムへ行くならば、ずっと西に行けばいいだけなので、わたしは時折足を止め方位磁石を確認しつつ、歩き続けました。


 しかし、その日は歩けど歩けどローズダムにたどり着きませんでした。夜が明けて1日以上歩いているというのにもかかわらず、一向に国境線が見えてこないのです。

 これはおかしいと思い、方位磁石をよくよく確認して愕然としてしまいました。動きながら見てみると、なんと針が北で定まることなく、酔っ払いのようにくるくると回っているじゃありませんか。

 そう、壊れていたんですよ。まったくもって運が悪い。……もちろん、自業自得ではありますが、こうしてわたしは荒野にひとり取り残されてしまったのです。

 太陽さえ出ていれば、それである程度の方角もわかったことでしょう。しかし、運が悪いときはとことん悪くなるもので、そのときは分厚い雲が空を覆っていたのです。


 ですが、この時点ではわたしはまだ落ち着いていました。方角がわからずとも、とにかく真っ直ぐ歩き続ければ、カラサ荒野を抜けることはできると思ったからです。

 だけど、これは体験しなければわからないと思いますが、なんの目印もなく長距離を真っ直ぐ歩き続けるのって案外難しいものなんですよね。自分では一定の方角を真っ直ぐ歩いているつもりでも、少し傾くだけで全然違う方向を向いていたりしてしまうんです。

 それに加えて、わたしはすでに1日以上歩き続けていました。元冒険者とはいえ、歳も歳ですし、疲れで足下がふらついてしまってたんでしょう。さらに半日歩き続けても一向にカラサ荒野を抜けることができなかったのです。


 ようやくわたしは焦りを覚えました。なにせここは不毛の大地。人はおろかモンスターや植物さえもないのです。そんな場所で水や食料の確保なんて不可能なんですから。


 わたしはとにかく祈りました。明日は空に立ちこめる雲が晴れてくれますように、と。

 しかし、そんな願いも届かず、翌日もその翌日も空には灰色の雲がかかっていました。どうせなら雨を降らせてくれればいいのに、不幸なことにその雲はこちらを見下ろすだけで、喉を潤わせてはくれません。一応、水筒は持っていましたが片道分の小さな物。出発してから3日も経っていたので、すでに空っぽになってしまい、わたしの体はカサカサに乾燥しきっていました。


 念願が叶ったのはその翌日でした。雲ひとつない快晴になったのです。しかし、ようやく進むべきだった方角がわかったものの、あまりにも遅すぎました。わたしは脱水症状に陥り、立っていることもままならなくなっていたのです。


 結局、その日はほとんど動くこともできずに夜を迎えてしまいました。夜になっても、やはり雲ひとつなく、綺麗な月が浮かんでいたのをいまでも鮮明に覚えています。

 その月明かりの中、わたしはこのまま死ぬんだと悟りました。冒険者時代にどんな強いモンスターと対峙しても死ぬなんて考えたことはなかったのに、水がないだけで死を覚悟してしまうんですから、人っていうのは無力ですよね。


 ――そんなときでした。空にいくつかの小さな赤い明かりがあることに気づいたのです。


 星ではありません。なにせその明かりはゆらゆらと揺らいでいたのですから。

 下で誰かが焚き火でもしているのか、あるいは死の瀬戸際で幻覚を見ているのか。答えはわかりませんでしたが、わたしの選択肢はひとつしかありません。

 最後の力を振り絞って、わたしはその明かりの下へと歩きました。すると、近づくにつれ、その動く赤い明かりの正体がはっきりしてきました。


 蛍です。あろうことか不毛の地で蛍が飛んでいたのです。そんな驚きの光景に、わたしは目を奪われてしまいました。

 そして驚きべきことがもうひとつ。蛍が飛んでいるその場所に水が湧いていたのです。直径が10数メートルほどの、そう大きくはない泉ではありましたが、中では何匹もの魚が悠々と泳ぎ、周りにはわずかながらの草花も咲いていました。水源がないと言われていたはずの荒野の中に、ぽつんと現れたオアシス。蛍が、その場所を教えてくれたかのように思えました。

 だからこそ、命を救ってくれたあの蛍の美しさは、忘れることができない絶景としてわたしの心に刻まれたのです」

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