第14話

病院の廊下は走ってはいけない。


そんなことわかっている、当たり前の事なのだけど、

今だけは守れなかった。


何度も通った階段を駆け上がって、

消毒の匂いがする廊下を抜ける。


いつもとは違う病室の扉の前に立てば、そこには「佐久間千代子」のプレート。

怖くなってしまって動きが止まる。

・・・大丈夫。落ち着こう。


大きく深呼吸をして、ゆっくりドアを開けた。


病室の中には、ベッドが一つだけ。

いつもの集団病室じゃない、個人部屋。

そこにおばあちゃんは寝ていて。


繋がっている点滴と定期的に聞こえてくる電子音。

同時におばあちゃんの小さな呼吸音がして、涙がこぼれそうになった。


容体が急変した、と連絡が来たのは数日前の夜。

慌てて駆け付けた時にはおばあちゃんは治療室に移動していて、

風邪をこじらせて肺炎を起こした、と先生は説明した。


どうしても免疫力が下がっちゃうからね、なんて先生は言っていたけれど、

そんな説明私の中には入ってこなかった。

幸いなことに重症化はせず命に別状は無かった。

昨日には容体が安定していて、今はただ眠っているだけで。


まだ寝ているおばあちゃんの腕を握る。

その腕は細くて、白い。


私にとっては大したことない風邪も、おばあちゃんにとっては命取りになる。

昨日まで笑って話していたおばあちゃんに次の日には会えなくて、

今はただ寝ているだけのおばあちゃんが、このまま目覚めなかったらどうしよう、なんて。


『人は死ぬ』


当たり前の事を急に実感して、怖くなった。



「このかちゃん。」


ボーッとしていたのだろうか、

人が入ってきていた事に全く気付かなくて、


振り向けばそこには心配そうな顔をしたチヅさんがいた。


ごめんね勝手に入っちゃって、ノックはしたんだけど、

そう申し訳なさそうに彼女は言って、コロコロ、と車椅子を転がす。


・・・相当情けない顔をしていたのだろう。

彼女は私の顔を見てから、そっと手招きして。


車椅子の高さまで屈めば、

チヅさんは、優しく私の背中をさする。

涙がこぼれそうになって唇を嚙んでいれば、

チヅさんはしばらく私の顔を見ないまま、背中を撫でていてくれた。


「・・・チヅさん。」

「なーに?」

「・・・カルピス飲みたい。」

「大賛成よ。」

「アイスも食べたい。」

「そうね。今日は奮発しちゃいましょう。」


ポン、と私の背中を最後に一度優しく叩いて、

チヅさんはいつものように笑う。

その笑顔に安心して、なんだか心が落ち着いて。





「私、中学生の時に怪我したの。」


紙カップから冷たさを感じながら、

窓の外の夕焼けに目を向ける。


中学生の時に、一番大切な2年生の冬。

右足の違和感をずっと感じていた、気づかないふりをしていた。


所属していたバスケ部は全国大会出場常連校で、

数十人の部員がいて、競争が激しくて。

私には特別才能があったわけじゃない。

だから休んで皆に遅れるのが怖くて。


気付けば私の右足は限界を迎えていたのだ。

ある日、本当に突然、右足を踏み込めなくなって。


リハビリが必要になり、

当然しばらくバスケットが出来なくなった。

お母さんはしょうがないわよ、なんて私の事を慰めたけど、

私はちっともそう思えなかった。


ずっとずっと全国を目指していたのに、

そのコートに立つ日を夢見ていたのに、

急に目の前が暗くなって、なにも見えなくなった。


別に部活が出来なくたってどうなるわけじゃない、

たかが部活だし、分かってる。「もう勉強に切り替えたら?」なんて両親は言った。


「そんなことでって思うかもしれないけど。でも本当に辛かった。消えたかったなあ。」


チヅさんは黙って聞いてくれている。


何よりもつらかったのは、チームメイトの同情だ。

プレーが出来ないからマネージャーとして部活に参加する事になった私を、

部員たちは本当に気遣ってくれて。でも、それが苦しかった。


その心配を素直に受け取れない自分がいる事が、一番苦しかった。


何もかもが重くて投げ出したくなってしまっていた時に、

そこから助け出してくれたのが、祖母だったのだ。


「おばあちゃんはずっと変わらなかった。ただただ笑って頷いてくれて。」


一度病気をしてから入退院を繰り返しているおばあちゃんは、

普段からベッドに寝ている事が多くて。


怪我をした直後も、リハビリが辛くて落ち込んでいるときも、自分が嫌になってしまった時も、八つ当たりをしてしまった時も。

おばあちゃんはいつも笑って。そして言う。


『このか、こっちおいで。』


そう言って手招きをして、私を椅子に座らせる。

私が近づいた事に安心したかのようにおばあちゃんは頬をゆるめて、

お菓子をくれたり、編み物を教えてくれたり。


名前を呼んでくれるだけで、自分の居場所を感じるのだ。

ここにいていいんだよ、そう言われている気がするのだ。


「・・・このかちゃんは、」


「おばあちゃんの事、大好きなんだね。」


私の話を黙って聞いていてくれたチヅさんは、

少しの沈黙の後にそう言って。

その声色がとても優しくて、なんだかまた泣きそうになってしまって。


無言のまま大きく頷けば、

彼女は優しく笑う。




「千代子さんと2人で話すときも、このかちゃんの話ばっかりだよ。」

「・・・本当に?」

「うん。このかちゃんが来る日は朝から嬉しそうだもん。」


ほら、こんな顔。

なんてチヅさんは私の頬に優しく触れて、口角を指で引っ張る。

このかちゃんとそっくりな笑顔、そう言って私の顔を真っすぐ見つめて、笑う。



「私もね、千代子さんに救われたんだよ。」


そう小さくこぼして、

チヅさんは少し寂しそうに笑う。


しばらく黙って彼女を見つめていれば、

ふう、と息をついて。そして、口を開く。



「私の足、事故のせいなんかじゃないんだ。」


口元に寂しそうな笑みをたたえたまま、彼女はそう言う。

その視線は足元へ向かっていて。私もつい、その目線を追う。


出会った時からチヅさんは車椅子の上にいて、それがもう私の中での彼女の姿。


優しく笑う彼女が時々とても寂しそうで、

笑顔の奥に見える冷たく固いものが気になって、

その理由が分かった気がした。


『事故になんてあってない、病気でもない。』


消えてしまいそうなか細い声で、彼女はそう呟く。


それが何を意味するのか。

その告白は、どれだけ重かったことだろう。


何となくチヅさんがどこかに行ってしまいそうで、

このまま消えてしまいそうに思えて、

近づいて、彼女の手を握った。


一瞬驚いたように私を見てから、

頬を緩めてそのまま手を握り返してくれる。


「私はチヅさんの事全然知らないけど、でも、それでいい。」

「・・・うん。」

「今ここにいてくれるだけで、それだけでいいの。」

「・・・うん。」

「一緒に話して、ジュースを飲んで。そんなことをこれからも続けよう。」


また泣きそうになってしまった私に気づいたのか、

私の顔を見ないまま、チヅさんはゆっくりと私の腕をさする。


「・・・このかちゃん。」


私の名前を呼んだチヅさんは、

優しく笑う。私にはきっと想像もできない何かを乗り越えた彼女は、

全てを受け入れて、許して、こんなにも優しく笑う。


「このかちゃんと出会えて、よかった。」


涙をこらえるのに必死で何も話せなくなってしまった私は、

何度も何度も頷いた。

そんな私にチヅさんもまた頷いて、その瞬間彼女の瞳から一滴のしずくがこぼれたようにも見えた。

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