第26話

 本間テキスタイルで、僕は毎日、電話番をしながらサンプルを作り続け、お昼ご飯を作り続けた。季節はもう秋なのに未だに蕎麦かそうめんかうどんばかり。冷たいつゆで食べる。小林さんは本当にぶっきらぼうだけど僕には優しかった。小林さんが約束した翌日に紙袋に詰め込まれたたくさんのワイシャツを帰りの電車の中で手渡してくれた。ぐしゃぐしゃに詰め込まれていたけれど、黄色や黒やカラー物のワイシャツばかりだった。素材もいろいろで綿百もあれば綿ポリのもあれば麻が混ざっているものもあった。僕は黄色のワイシャツが気に入った。黒は流石に怖い人みたいになってしまう。小林さんは日が経つにつれて僕の中で第二の村尾さんと言うか、東京での僕のお兄ちゃんだった。会社ではお兄ちゃんと呼ばれているのは僕だったけれど。特に帰りの電車の中での生地の話はすごく面白く、また、ためになった。先染めと後染めでは先染めの方が値段は高いだとか、アルバローザの柄は特許を取っているとか、売り先にはデザイナーとパタンナーとがいて、デザイナーが洋服のデザインを考え、パタンナーは洋服の形を型紙で作るとか、基本的にヤングとミセスがあり、若い女性向けのブランドがヤングでお母さんぐらいの歳になった人をターゲットにしたブランドがミセスであるとか、別に季節によって需要が変わるわけでもないとか。ジーパンを作っているメーカーは年中デニムが必要だし、そんなところにポリを持って行ってもしょうがないし、アルバローザにポリを持って行っても使う訳がないし。基本的に洋服は春夏ものと秋冬ものとあって。それぞれのメーカーのデザイナーが必要だと思われるものを仕入れ先からサンプルを取り寄せてそれを提案することが本間テキスタイルの営業のしごとであると。無地ものも柄ものも売り先であるメーカーのデザイナーが使いたくなる生地を持って行くことが大事であると。僕はたまに耳にしていたことを聞いてみた。シャリ感とは何ですか、と。本間テキスタイルのみんながやたらこの言葉を使っていた。小林さんは、シャリ感も知らないのか、触ってシャリシャリしている生地の感じ、梨地とかシャリシャリしてるだろ、ああいうのをシャリ感と言うんだよと言った。確かにシャリシャリしている。僕は本間テキスタイルで働き始めて一日中一人で有線を聴きながらサンプルを作ってばかりいたので、みんながいなくなる午後から仕事が終わる、みんなが会社に戻ってくる七時までは本当に退屈な気持ちを持っていた。たまに仕入れ先の人とかが本間テキスタイルに来ていたけれど、そんな人たちは基本的に午前中に来ていた。仲のいい仕入れ先の人は一緒に蕎麦やそうめんを食べたりもした。僕は一人でサンプルを作りながら分からないことをメモに取り、帰りの電車の中で小林さんにいろいろと質問したりもしていた。どんな質問にも答えてくれた小林さんに僕は、小林さんはどこで生地を勉強したのですか、専門学校でも行ってたのですかと聞いてみた。小林さんは、ただの田舎のヤンキー学校を卒業しただけで専門にも行ってねえ、本間テキスタイルに入社した時にちょこっと勉強しただけだと答えた。他に、社長は副業で金貸しを個人でしているとか、若江さんも昔はものすごく貧乏だったとか。言われてみれば、本間さんだけはよく三時とか四時ぐらいまで会社にずっと居たり、営業に出ても二時間ぐらいで帰ってくることがよくあった。よく電話をしていたし、電話の中で、返済とか、期限とか、利子とか、振り込んでとか言っていた。あれは支払いをしない取引先相手ではなく、個人で金を貸している相手への電話だったのかと思うと納得も出来た。金の回収は各営業マンが自己責任で行うらしい。小林さんの話だと、営業は自分の給料の三倍の金を会社に入れてようやく一人前だと言った。本間テキスタイルでの給料は給料日の朝に手渡しで、順番に本間さんから手渡される。若江さんは分厚い給料袋を受け取るといつもその場で中をこっそりと覗いてから背広のポケットに入れていた。アルバローザを持っている若江さんは相当稼ぎがいいらしい。アルバを担当している人間に売り上げで勝てるわけがないと小林さんは言っていた。また、そんな若江さんを拾ってあげたのも本間さんであり、当時は着るものもなく、白飯に塩をかけて食べていた話も小林さんから聞かされた。僕は思わず、あのタイガーウッズもそんな時代があったんですかと言ってしまった。小林さんは笑いながら、似てるよなあ、誰が見てもそう思うよなあと言った。毎日生地を切り、サンプルを作りながら小林さんが会社に戻ってくるのを僕は待っていた。有線からブランキ―ジェットシティの赤いタンバリンがよく流れていた。僕はこの歌が好きだった。歌詞の中に、夕暮れ時って悲しいな、オレンジジュースとミルク混ぜながら呟いた、と言うフレーズがあり、その言葉が僕はすごく好きだった。オレンジジュースとミルクを混ぜたことはないけれど、実際に混ぜてみると夕暮れ時の色になるんじゃないかなあと思わされた。そして、昔、田舎で実家に住んでいた時に、バスクリンの入ったオレンジ色の湯船の中でオナニーして精子を発射させて、結果、レモンティーに牛乳を混ぜた時と同じような濁り方をしてものすごく焦ったのを思い出した。僕はその時、家族で一番先に風呂に入ったのに、ものすごい大惨事を起こしてしまい、お風呂の栓を抜いてお湯を全部捨てて怒られたことを思い出した。あの時を思い出すと悲しくなった。十一月の終わりごろから、そんな僕を見て気を遣ってくれたのか、小林さんは僕を営業に同行させると本間さんに言って、僕をたまに会社の外へ連れ出してくれた。電話番はどうすると言う本間さんの言葉に、一時間ぐらいで帰ってきますからと小林さんは答えた。そして会社から外に出てからパーラメントに火を点けて、僕にも煙草を吸えばいいと言った。僕はハイライトに火を点けて吸いながら小林さんに聞いた。同行とは何ですか、と。小林さんは、あんなところに一人で籠ってサンプルばっかり作ってても気が滅入るだけだろ、金ぐらい持ってるだろ、パチンコでも行こう言った。僕はすごく嬉しかった。僕のことを小林さんは分かってくれていた。ムルソーだって白竜さんに出会っていればもっと前向きに成れたはずだと僕は思った。僕は生まれて初めて仕事中にパチンコをした。いろいろと考えすぎる僕に小林さんは、営業は会社にしっかりと金を入れれば遊んでてもいいんだと言った。僕の隣で咥え煙草でパチンコを打つ白竜さんは黒ずくめでオールバックで見た目はものすごく怖い人だけど、僕の中ではヒーローだった。パチンコは大当たりしなかったけれど、会社に戻ってから小林さんが一枚の紙を僕に渡してきた。その紙にどの電車に乗っていくら使ったかを記入すると交通費をその日に清算してくれるらしい。俺と同じように書けと言い、小林さんの書いた紙をそのまま写す。七百円ぐらいの実際には使っていない交通費をその日、本間さんから受け取った。

 年末が近付くにつれて、小林さんが僕を同行として会社の外に連れて行ってくれる回数も増えていった。そして竹下さんと言う新しい女の人も本間テキスタイルに入ってきた。竹下さんも僕と同じで、時給千円のアルバイトとして採用された。僕より一つ年下の竹下さんは可愛かった。竹下さんは本間テキスタイルでは久しぶりの女性らしく、本間さんが答えづらい質問をすると、おっおっおっおっ、と呼吸困難のようなリアクションをしていた。竹下さんの、おっおっおっおっ、はすぐに僕と小林さんの中の流行語となった。竹下さんの歓迎会は忘年会も兼ねて会社近くの小さな居酒屋で行われた。その席で小林さんに、お前、年末年始はどうするんだ、田舎に帰るのかと聞かれた。僕はウーロン茶を飲みながら、田舎には帰りませんし帰るお金もないですと答えた。本間テキスタイルの年末年始休暇はキリヤ堂の時と同じで三十日から三日までである。五日間の時給が発生しないのは厳しかったけれど、僕の貯金はかなり貯まっていたのであまり気にはならなかった。小林さんに同行と言う名で会社から外に出してくれるようになってから、仕事が終わった後にいろんな飲み屋さん、特に女の人がいるキャバクラとかに連れていかれることも増えた。僕はそういうお店に行ったことがなかったので煙草を咥えるだけで女性が火を点けてくれることに驚いた。小林さんと飲みに行くと必ず帰りは深夜を回ってしまう。小林さんはそういうお店では酔っぱらうまで酒を飲み続ける。僕は女の人に言ってものすごく薄い水割りを作ってもらう。そしてどんなに酔っぱらってもお会計の時は伝票を見ながら、ああ、こんなもんなのと言い、僕が半分払おうと財布を出そうとするとものすごく怒る。こういうところは上のもんが奢るのが常識なんだよ、と。小林さんの行きつけのお店は高田馬場にあった。電車がなくなっているから帰りもタクシーで帰る。高円寺で小林さんが降りて、僕に五千円を握らせる。これで足りるだろ。ふらふらと歩いていく小林さんの後姿を見ながら僕を乗せたタクシーは走り出す。そして翌日、タクシーの領収書とお釣りを小林さんに持って行っても、いらねえよしか言わない。僕は小林さんと一緒の時間が増え、森川さんとの時間はドンドン減っていった。年末には社員の若江さんと小林さんはボーナスを手渡しで貰っていた。竹下さんも帰る方向は同じだったので三人揃って総武線で帰ることも多かった。竹下さんは吉祥寺に住んでいる。竹下さんの目が小林さんに対してハートになっていることを僕は感じていた。東京で僕は三回目のお正月を迎えた。年越しは森川さんと僕の家で一緒に迎えた。僕はこの頃から自分の中で新しい感情が芽生えていたことに気が付いていた。僕は森川さんに飽きてきていた。会えばいつもCをしていたし、森川さんは僕のお願いすることを何でもしてくれた。そしてあれだけ結婚してもいいとか、不細工だとかデブだとか関係ないとか、僕が大事にするとか。自分でかっこいいことばかり考えていたくせに今になって、今、他に好きな人が出来るかもしれない、そんな時がくればどうすればいいのだろう、でも今森川さんと別れたら、僕は自分専用のAとかCとかしてくれる相手を手放してしまう、それはものすごくもったいなくないのか、最低な考え方だけど、せめて新しい好きな人をちゃんと確保してから森川さんと別れた方がいいのではないかと考えるようになった。森川さんは会えば変わらない笑顔で僕に優しくしてくれる。僕の為にいろんなことをしてくれる。僕はあんなに自分の中の正しさとかずるさも知っていたのに。今の僕は、あのバイヤーと変わりはない。最低のバカだ。森川さんと一緒に僕に届いた年賀状を見る。キリヤ堂の懐かしい面々からの年賀状が届いていた。内田さんと佐々本さんからも来ていたけれど、相変わらずあの二人は住所を書いていないから返事が出せない。もちろん僕も去年年賀状をくれた人には全員年賀状を出していた。本間テキスタイルの人たちからは本間さんからだけ年賀状が届いていた。社長らしく本間テキスタイル代表取締役と書かれていた。そして手書きで、今年も宜しくお願いします。いつも僕のことを、お兄ちゃん、お兄ちゃんとおかまのような声で呼んでくれていた本間さんが敬語を僕に使っていることに社長っぽさを感じた。僕は村尾さんに会えるんじゃないかと思って去年一緒に行った新宿の神社やパチンコ屋さんへ行こうと思ったけれど、場所の記憶が全くなくなっていたので行くのを諦めた。僕はふらっと自転車に乗って高円寺のパチンコ屋さんを回った。パチンコを打っている小林さんを僕は見つけた。たくさんのドル箱を積んだいつものように黒ずくめの姿でパーラメントを吸っている小林さんに僕は声をかけた。あけましておめでとうございます。小林さんは僕の姿を見て表情を変えずに煙草を手に持ち、何やってんの、こんなとこでと言った。僕は、ここは僕のマイホなんですと答えた。小林さんはニヤリと笑いながら、ふーんと言った。それから小林さんが、ひと箱持って行っていいと言ってくれたので僕は小林さんが積んだドル箱からひと箱持って別の台に移動して球を打ち始めた。それからすぐに自動販売機でコーヒーを二本買って、一本を小林さんの所へ持って行った。小林さんは、さんきゅーと言ってそれを受け取った。結局、三が日は毎日高円寺のパチンコ屋さんで小林さんとパチンコを打っていた。そこで分かったことが一つあった。小林さんはコーヒーが苦手だった。小林さんの好きな飲み物はネクターだった。あれだけ酒を飲むくせにそういうところは健康に気を遣っているのかと僕は少し不思議な気がした。

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