第25話

 翌朝、僕は早めに家を出て、荻窪駅のみどりの窓口で定期を買った。領収書を受け取る。中央線の快速で新宿で乗り換えるのも、各駅停車の総武線で行っても時間はそんなに変わらないと思ったので僕は総武線で千駄ヶ谷を目指した。どうしても阿佐ヶ谷駅に止まると、河本さんのことを思い出してしまう。本間テキスタイルは日曜日がお休みである。しばらく働いて仕事に慣れたらキリヤ堂池袋店に顔を出してみようと思った。休みの日だけど普段着じゃなく、スーツ姿で行こう、僕はそんなことを考えていた。ハイライトを吸いながら千駄ヶ谷駅から本間テキスタイルが入っているビルを目指した。十時十五分前に事務所に着いたらすでに会社の扉は空いていた。お父さんがいた。僕は挨拶をして、お父さんも挨拶を返してくれた。僕は何か仕事をしようと思ってお父さんに、何かやることはありませんかと聞いた。お父さんは、流しに布巾があるから机の上を拭いていって欲しいと言ってくれた。僕は事務所の奥にある流しで布巾を水で濡らしてからよく絞って、事務机をきれいに一つ一つ拭いていった。机の上の書類を下手に弄るのはまずいと思ったのでそういうものには触れないようにして、拭けるところだけをピカピカに拭いていった。その間にお父さんは事務所の床に掃除機をかけてきれいにしている。そうしているうちに小林さんが事務所に入ってきて、タイガーウッズそっくりの人が入ってきて、この人が若江さんなのかなと思いながら二人に僕は挨拶をした。小林さんは相変わらず全身黒ずくめでオールバックで白竜さんだ。それでも低い声で、おはようと。タイガーウッズの人は、君が今日からの新人さんかね、専務の若江だからよろしくと言った。僕は社員が四人で本間さんが社長で若江さんが専務なのか、小林さんは次長とかなのか、お父さんは会長なのか、頑張れば僕も正社員になれて役職とか貰えるのではないかと思った。しかも、若江さんは高そうなスーツを着て、ワイシャツも赤いものでネクタイも高そうなものをしていた。タイガーウッズそっくりなのにものすごいおしゃれをしている。村尾さんも若江さんも僕のことを、君と呼んだけれど、村尾さんの使っていた、君と、若江さんの使う、君は全然違う。若江さんの使う、君はとても気取った偉そうな君だった。そして本間さんが事務所に入って来る。お、お兄ちゃんおはよう。買い物袋を片手に下げてブルドックなのにおかまのような声で僕に声をかけてくれる本間さん。僕は丁寧に、おはようございますと頭を下げながら言った。それから本間さんは一番奥の机の席に手に持った荷物を置いてから僕に、お父さんに聞いたの、これからは朝会社に来たらまず机の上を拭いてから事務所に掃除機をかけるようにしてね、それからここが君の机になるから今日からここを使って作業をしてね、と。事務机が六つあって、三つずつくっつけて並べてあり、それに向かい合うように残りの三つの事務机。社長の本間さんが窓際で一番奥の席で、その向かいが若江さんの机。若江さんの隣に小林さんが座り、その向かいが僕の机。残り二つは空いている。昔は社員があと二人以上いたのかなと僕は思った。そして自分専用の事務机に感動した。僕の想像するサラリーマンと同じような事務机。引き出しが何個かあり、目の前には書類を置く本棚みたいなのがあり、電話まで置いてある。ファイナンス業の時も椅子に座って仕事をしていたけれど狭い部屋に机は置いていなくて、大きな窓にカウンターみたいな板を取り付けてあって、みんなが横並びになってカウンターに向かうように座って電話を取っていた。本間テキスタイルの机は正しい会社の机だ。しかも引き出しの中には懐かしい黒いハサミが。輪ゴムで刃を止めていなかったけれど、キリヤ堂で使っていたのと同じハサミ。それにノリや両面テープやホッチキスやボールペンなどの文房具も机の中に入っていた。それから本間さんから最初の指令が僕に出された。お兄ちゃん、流しにポットのお湯があるからそれでコーヒーを二つ作って、コップもコーヒーも砂糖もあるから、若江はブラックでいいよね、僕は砂糖二つとミルク二つね。僕は流しに行ってコーヒーを二つ作った。お父さんはもう事務所から消えていた。小林さんはコーヒーを飲まないのかな。お盆があったので僕はそれにコーヒーが入ったコップを二つ乗せて本間さんの席と若江さんの席に運んだ。本間さんは砂糖が二つとミルクが二つ。若江さんは高そうなスケジュール帳を開きながらそれを眺めていて、僕がコーヒーを机の上に置くと、君、ありがとうと言った。それから本間さんが、若江、お兄ちゃんが今日からうちで働くことになった小沢君だから、今日はお兄ちゃんの歓迎会をするから直帰せずに六時過ぎには戻ってねと言った。分かりましたと答える若江さん。それから本間さんは、お兄ちゃんはとりあえずサンプル作りと電話番がメインになるから、小林がいろいろと教えてくれるから分からないことがあればドンドン教えてもらってね、小林、頼むよと言った。僕はそれを聞いて、白竜さんが僕の教育係なのか、いい人だと思うのだけど怖いと思った。小林さんが、分かりましたと本間さんに返事をしながら席を立って僕の机のところに回ってきた。小林さんが僕の背中の後ろに立つ。僕は急いで席を立とうとしたけれど、小林さんが座ったままでいいと言ったのでそれに従った。今日の僕はメモ帳を持って来ている。小林さんが低い声で、お前、電話の取り方分かるかと聞いてきた。社会に出て、初めてお前と言われた僕はとても緊張した。ヤンキーに絡まれているような気持になった。黒ずくめでオールバックの白竜にお前と言われたら誰だってビビると僕は思った。ファイナンス業の時に電話の取り方を教えてもらっていたけれど僕は小林さんに、分かりませんと答えた。小林さんはそれを聞いて、基本的に電話が鳴れば受話器を取り、はい、本間テキスタイルですと言う、そして相手は自分の会社名と名前を名乗ってから誰かしらの名前を言うから、社長か若江さんか俺の名前を言うから、相手の会社名と名前をメモに取るか頭の中で覚えておいて相手に少々お待ちくださいと言ってからこの保留ボタンを押してからそれぞれに何番にどこそこから電話ですと言って受話器を置くこと、保留を押さないと電話が切れてしまうからそれだけ注意することなと言った。僕は小林さんの言葉を全てメモに取る。小林さんが、分かったと聞いてきたので僕は、分かりましたと答えた。そして小林さんが続ける。とにかく元気よく電話には出ること、あと、担当者が外出していなかったらちゃんと相手の会社名と名前を控えて置いて、折り返し連絡させますと言ってから出来れば要件も聞いておくこと、それから社長も若江さんも俺もポケベルを持っているから電話があればポケベルを鳴らすこと、そうすれば会社に折り返しみんなから電話がかかってくるからメモに控えた内容をしっかりと伝えること、あとは細かいことも出てくるけれどおいおい教えていくからと言った。分かったと聞いてくる小林さんに、分かりましたと答える僕。僕は小林さんを怒らせないように気を付けている。それから小林さんがハンガー掛けにかけている生地の束を一つ持って来て、僕の隣の席に座った。小林さんは、今からサンプルの作り方を教えるからと言った。僕はサンプルがどういう意味かも分かってないのにとりあえず、お願いしますと言った。ギャバジンと言う名前の生地だった。一枚の厚手の紙を取り出し、机の上に小林さんはそれを置いた。それから机の引き出しを開けてハサミを取り出し、同じギャバジンの色違いのものを順番に煙草の箱の半分の大きさに切っていった。そしてそれらを両面テープで机の上に置いた厚手の紙に張り付けていった。それから黒い生地の横にB、白い生地の横にW、他の色のものには順番に上から一、二、三、と数字を横に書いていった。そしてギャバジンと書き、素材の欄にウール百パーセントと書き、そして僕は小林さんから魔法の言葉を教えてもらった。


 たからおみよつけこなき。


 小林さんは僕に、たからおみよつけこなきの意味が分かるかと聞いてきた。僕は、全く分かりませんと言った。その時、僕は初めて小林さんが少し笑顔を見せたのを見逃さなかった。白竜さんが笑った。小林さんの説明は続いた。たが一、かが二、らが三、おが四、みが五、よが六、つが七、けが八、こが九、ながゼロ、きが前と同じ数字を意味すると。例えば、つけなだと七百八十円を意味する。たかきなだと千二百二十円。小林さんの説明だとサンプルには必ずその生地の仕入れの値段を書いておき、売り先に仕入れ値より上乗せをして高く売る、その値段は自分で決める、もちろんその売値と仕入れ値の差額が会社の利益になり、その差額をなるべく多くするのが営業の腕の見せ所であると言った。僕は小林さんに、でもこけなで九百八十円だと、こけなという文字ばかりでいつかはバレてしまうのではないのかと聞いてみた。小林さんはそれなら他の関係ない文字を混ぜればいい、こけななら、こうけあさなでもいいと。僕は本をたくさん読んでいたし、自分でも文章を書いてきた。しかしこの、たからおみよつけこなき、この言葉はどんな言葉も勝てない魔法の言葉だと思った。僕はメモ帳に魔法の言葉を書き込んだ。また、サンプルの番号は数字ではなくアルファベットを使う時もある、電話では聞き間違えることもあるから、Aはアメリカ、Bはブラジル、Cはチャイナ、Dはドイツ、Eはイングランド、Fはフランスと電話では言うと教えてもらった。僕はそれを聞いて、Gは何ですかと聞いてみた。小林さんは、Gまで使うことはまずないと言った。それから小林さんはギャバジンのことを、ギャバにもいろいろあって、綿ギャバとかポリのやつもある、俺や社長や若江さんがお前に作ってもらいたいサンプルをドンドン渡すからそれをこうやって紙に貼って客に渡すサンプルを作るの、分かったと言った。僕は、分かりましたと答えた。ギャバとか僕は全然知らなかったし、キリヤ堂のキルト売り場の担当責任者の意地もあり、僕は小林さんにチャレンジしてみようと思って聞いてみた。縦がストライプで横がボーダーなのは分かるのですが斜めは何と言うんですか、と。小林さんは椅子から立ち上がり、バイアスだろと言って自分の席に戻っていった。白竜さんはすごい。その日の午前中、僕は電話を取りながら皆に頼まれたサンプルを作り続けた。みんなが僕にやることがなくならないようにとサンプル作りを依頼してきて、急いではないから、ゆっくりでいいからと。同じものを十部とか作る。小林さんに教えてもらった魔法の言葉でその生地の仕入値段を暗号の様に紙の端っこに書く僕。小林さんが数字とかアルファベットを混ぜてもいいと教えてくれたので僕は、これなら絶対に分からないだろうという感じで複雑な暗号を書き込んだ。それにしてもサンプルを作りながら思ったことがある。キリヤ堂では切ったことのない生地ばかりだ。生地の名前もかろうじて聞いたことがあるものが一つか二つあるぐらいで、あとは知らないものばかりだった。サンプル作りは同じ生地の色違いを紙に張り付けていく。色や模様は様々あったけれど、決まって白と黒、WとBは必ずあった。あと、ベージュと茶系も多い。本間さんの説明だと売り先のデザイナーさんと話をして、どういう生地が欲しいかを聞いてきて、それに合う生地をサンプルとしてみんなが持って行き、それで生地を売るらしい。確かに今の僕がデザイナーさんのところに一人で行ってもお話にならない。キリヤ堂で実にたくさんの生地を売ってきたけれど、お客さんは趣味で買う人が多かった。午前中はみんな営業には出ずにいろいろと事務仕事をしている。サンプルを作ったり、社員さん同士で情報を交換したり。また電話が鳴る。僕は電話に出て、はい、本間テキスタイルですと言った。すると電話の向こうから、アルバローザの誰それですが若江さんはいらっしゃいますかと言われた。僕はものすごく驚いた。アルバローザの名前は僕でも知っている。ハイビスカス柄とかハワイアン柄で若い女の子の間で大流行しているブランドの王様の名前だ。そう言えば本間テキスタイルに来る途中にサザビーのビルがあった。若江さんは今日も高そうなシルバーのスーツに青いワイシャツ、高そうなネクタイをしている。タイガーウッズが面接に行く時みたいだった。アルバローザに営業へ行くのはあれぐらいオシャレじゃないと通用しないのかと僕は思った。小林さんはワイシャツではなく黒のサマーセーターのようなのを着ていた。怖いけれどかっこいい。本間さんは社長なのに汗をかきながら普通のその辺で見かける満員電車に乗っている中年サラリーマンのように着ているものに特徴がない。十二時十五分前ぐらいになり、本間さんが小林さんに、お兄ちゃんに教えてあげてと言った。すると小林さんは席から立ち上がり、僕に手招きをして、僕はサンプルを作っている手を止め、椅子から立ち上がり、小林さんの後についていった。小林さんはそのまま階段で一つ上のフロアに上がっていった。本間テキスタイルはこのビルの二つのフロアを借りていると教えてもらった。四階には生地の在庫がたくさん壁に立てかけてあった。それからそれを切るためのものと思われる机が並べてあった。それにしても椅子までたくさんある。生地を切るだけなら椅子はいらないのではないかと僕は思った。そしてよく見るとその部屋の奥でお父さんが机に座って何か作業をしていた。小林さんは生地のある方ではなく流しの方に向かい、僕もその後についていった。そして小林さんはコンロに大量の水が入った鍋を乗せ、コンロの火を点けた。それから煙草を取り出して、そこで吸い始めた。小林さんが吸っている煙草はパーラメントだった。箱からパーラメントを取り出し、咥える前に息を二回、フッ、フッ、と咥える部分に息を吹きかけていた。その姿が僕にはものすごくかっこよく見えた。それから小林さんは僕に向かって、お前は煙草吸わないのかと聞いてきた。僕は、吸いますと答えた。じゃあ、ここで吸っていいよ、ここは喫煙所だからと小林さんが言ってくれた。僕はハイライトを取り出し、それを咥えて火を点けた。小林さんが、ハイライトなんて体に悪いぞと言った。僕は、お金がないので一本吸えば当分吸わなくていいから経済的な理由でハイライトを吸っていますと答えた。小林さんは、あ、そうとだけ言った。それから僕は小林さんに勇気を出して何個か質問をした。たからおみよつけこなきの言葉を説明してくれた小林さんが見せた一回だけの笑顔が僕に勇気を出させた。小林さんは何故、煙草を咥える前に息を吹きかけるのですか。小林さんは、パーラメントは咥える部分が筒状になっているからそこに煙草の葉っぱが入っていることがあるから、それをとるためだと答えてくれた。コンロでお湯を沸かしているのは何のためですか。小林さんは、社長が毎日、そうめんや蕎麦を買ってきてくれるからそれをみんなで食べる為だと答えてくれた。僕は弁当を自分で作ってきたのですがこの会社は毎日お昼ご飯が出るのですか。小林さんは少し呆れたような顔をして、昼飯は毎日出るけど、お前、弁当なんか自分で作ってるのかと言われた。僕は、前の日の晩御飯の残りを弁当箱に詰め込むだけですけど自分で作っていますと答えた。それから小林さんが僕に興味を持ってくれたのか、小林さんからの質問が始まった。お前は地元じゃないのか、一人暮らしなのか。僕は自分の出身地を言って、井荻で一人暮らしをしていると答えた。僕の出身地を聞いた小林さんは、すげえ田舎だなと言った。お前、女はいるのか。僕は、いますと答えた。小林さんはパーラメントをすごくかっこよく吸いながら、ふーんと表情を変えずに言った。僕にはもう分かっていた。この会社の人たちは全員、野良猫だと。しかも小林さんは相当尖った野良猫だと。それから年齢も聞かれた。僕の年齢を聞いた小林さんは、東京にはいつ出てきたのか、今まで何をやっていたのかを聞いてきた。僕はその質問に詳しく答えた。小林さんは表情を変えずに、ふーんとしか言わない。パーラメントを二本吸った小林さんが沸騰した鍋の中に蕎麦の袋を破いて全部をぶち込んだ。全部で八人前の蕎麦を全部ぶち込んだ。コンロは二つあり、二か所で同時にお湯を沸かしていたので時間も短縮される。そして箸で蕎麦をかき混ぜながら、小林さんは、あちっと言った。白竜さんでも熱いと言うのだ。僕は小林さんに蕎麦が茹で上がるまでにもう一度質問してみた。小林さんの出身地と年齢を僕は聞いた。小林さんの出身地は僕とは全く逆方向のすごい田舎だった。そして小林さんは僕の五つ年上だった。ということは、小林さんは村尾さんよりも年下なのだと僕は思い、村尾さんには悪いけれど小林さんの方が村尾さんより十倍以上貫禄があると思った。小林さんがコンロの火を止めて鍋を両手で掴み、流しに置かれてある大きなザルに鍋の中身をぶちまける。流しが大きく、ベコっという音を出した。そういう噂を聞いたことがあったけれど、僕はペヤングとか食べたことがなかったので、流しに熱湯を流すと、ベコッという音がするというのは本当のことなのだと初めて経験した。それから小林さんが、明日からみんなの昼ご飯をつくるのはお前の役目だと言った。僕は、分かりましたと答えてそうめんとか蕎麦の場所を聞いた。小林さんは、いつも社長が朝に買ってきてその辺に置いてあるからと教えてくれた。それから冷蔵庫の場所から、つゆの場所、わさびや生姜やネギと天かすまで。箸は全て誰のものか決まっているそうだ。僕は教えてもらったことを全てメモに取った。僕の姿を見ながら小林さんは、言われたことを覚えられない奴はメモを取るのが常識、お前は少しは賢いのかもなと言った。それから、お前の服装はダサいと言われた。そして、まあ、俺もお前ぐらいの時はスーツなんて着ていなかったと言った。それから、これも覚えておけと言って、喫煙所にある電話から三階に内線をかけて、準備出来ましたと言った。内線のかけ方も僕はメモに書きこんだ。みんなが四階に集まる。ブルドックもタイガーウッズも白竜さんもお父さんも同じ机を囲んで大きな一つの器に盛られた蕎麦をドンドン自分の箸で掴んでつゆにつけて食べる。同じ味で飽きないように、途中で天かすを入れたり、七味を入れたり、いろんな薬味を途中でドンドン混ぜていく。本間さんが若江さんに、生卵入れるかと聞いて、若江さんは、あ、入れますと言って本間さんが冷蔵庫から生卵を持って来て若江さんに手渡し、若江さんはつゆの中に卵を割って入れてそれをかき混ぜた。他に生卵いる人と聞く本間さん。お父さんも小林さんも手をあげて、それぞれが本間さんから生卵を受け取り、つゆの中に入れてかき混ぜる。お兄ちゃんも入れなと僕も生卵を本間さんから手渡された。卵をちゃんと割れると聞いてきた本間さんの言葉の途中で僕は受け取った生卵を片手で割ってしまった。この場にいる人全員から特別な視線を僕は感じた。お兄ちゃんは料理得意なのという質問に小林さんが、こいつは弁当作って持って来てるみたいですよと言った。本間さんと、若江さんと、お父さんの僕を見る目が変わった。そうなの、お兄ちゃんと言われた僕は、はいと答えた。本間さんは、うちでは昼ご飯が出るから、明日からは手ぶらで来ていいからねと言ってくれた。それから八人前の蕎麦をあっという間に平らげたみんなが僕にせっかく作ってきた弁当がもったいないからみんなで食べようと言い始めて、みんなが僕の作った弁当をあっという間に平らげた。そして全員で手を合わせて、ごちそうさまと言った。それから小林さんの指示で食器の後片付けをして、小林さんがパーラメントを吸っている間に食器を流しで僕は丁寧に洗った。弁当箱も洗った。作業を終えた僕に小林さんが煙草を吸っていいと言ってくれたので僕は食後の一服にありつけた。それから小林さんが、社員だけは煙草はここでしか吸えないから、吸いたくなったらいつでもここに来て吸えばいいと言ってくれた。僕は、僕は社員ではなくアルバイトなんですと答えた。小林さんが、そうなのと言った。僕は自分の雇用形態を小林さんに説明した。小林さんは、ふーんとだけ言った。一時前にはみんな営業に出かける。ホワイトボードに行き先と会社に戻る時間を書き込んで、行ってきますと言って出かける。僕にたくさんの仕事を与えた本間さんも、僕一人しかいない事務所を出る時に、行ってきますと言った。僕は生地のサンプルを一人残った事務所で作りながら、電話がかかってきたら電話対応して、ポケベルに電話をしたり、流石に初日から煙草を勝手に吸いに行くのはまずいなあと思い、煙草を吸いたいのを我慢したり、有線から流れてくる音楽を聴いたりしていた。聴きながら、あ、この歌最近よく聞くなあだとか、懐かしい曲だなあだとか、こんな歌がなんで流行るんだろうとか。サンプルを作っていると本当に僕の知らない生地ばかりで生地の世界の深さに痛感した。梨地とか、いろんなツイードとか、ジョーゼットとか、シャリーとか。無地ものはカラーパターンが多いかと言えばそうでもないこともある。BとWだけとかのもある。そんな時は生地を大きめに切って、サンプル用紙に貼り付ける。いろいろ分からないことは後で聞こうと思いながら、僕は、たからおみよつけこなきの魔法の言葉をドンドン書きこんでいく。途中で佐藤聖子さんのPAINが有線から流れてきた。僕は作業の手を止めて耳を傾けた。夜に会社のビルの屋上で本間さんが買ってきた肉や野菜でバーベキューをした。みんなが肉をたくさん食べながら缶ビールを飲んでいるのを見て、僕もお付き合いしないといけないと思い、飲めないビールをちびちびと飲みながら肉をたくさん食べた。そんな僕を見て小林さんが、お前、飲めないのかと聞いてきたので、僕は、あんまり飲めないですと答えた。そんな僕に小林さんがウーロン茶を渡してくれた。優しい白竜さん。最後にこれまた本間さんが買ってきた花火をみんなで楽しむ。打ち上げ花火をビルの屋上から打ち上げたり、普通に手に持つやつを小林さんは両手に持って二刀流で振り回したり。若江さんはどこまでも気取っているが、それでも花火を手に持つと笑顔を見せる。タイガーウッズが笑いながら勢いよく飛び出している炎を白竜さんに向ける。最後に線香花火でみんながしゃがんで誰が最後まで消さずに持っていられるかを勝負する。線香花火がなくなるまで何度も繰り返した。とても楽しい本間テキスタイル。そして後片付けをみんなでして、本間さんとお父さんと若江さんは、それじゃあまた明日と言って駅とは反対方向へ歩いていった。小林さんが、社長や若江さんはマイカー通勤だから駐車場に車を止めているんだよと言って駅に向かって歩き始めた。僕は小林さんに遅れないように横に並んで話をしながら駅を目指した。昨日までの印象だと小林さんは白竜の人でとても気安く話しかけることが出来ないし、ものすごく怖かった。でも、今日一日を過ごし、いろんな会話や教えてくれたこと、そして見せてくれた笑顔を見たから僕の中ではもう白竜さんはいい人だった。お前の格好はダサい、特にワイシャツがダサい。僕のワイシャツは初めてスーツを買った時に一緒に買ったものだ。アイロンを森川さんがかけてくれた白でちゃんとしているのに。ネクタイは麻のいいのをしている、なのにワイシャツがなあ、と。それから、俺の古いやつの方が千倍オシャレだから明日持って来てやるよ、と。白竜さんが僕にワイシャツをくれるのかと僕はとても嬉しくなった。もう僕は白竜のファンになっていた。小林さんは高円寺に住んでいるらしく、同じ総武線で帰った。お前の女の写真とかあるのか。小林さんの質問に僕は、写真はないですと答えた。そう言えば森川さんと一緒に撮った写真を僕は一枚も持っていない。僕が持っている東京に来てからの写真はキリヤ堂で成人式をしてもらった時のポラロイドカメラで撮影したものが四枚あるだけだ。僕は自宅に帰ってから森川さんに電話した。白竜さんはすごくいい人だった、明日、白竜さんが僕にいらないワイシャツをくれるんだ、と。森川さんは、白竜さんが着ていたやつだから返り血が付いてるかもしれないからちゃんと確認した方がいいと言った。

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