第8話

 僕はその後もずっとキリヤ堂のキルト売り場担当者として働き続けた。いろんなことがあった。まず、菅谷さんが代理でやっていた店長のポストに新しい中年の男の人が勤めることになった。その人は小宮山さんと言う人ですごくスケベそうな顔をした人だった。僕がキリヤ堂に入ってから初めて朝に早番の人と社員さん全員がタイムカードのある四階の事務所の前に整列して並んで小宮山さんの挨拶を聞いた。僕は名前だけをメモに書いた。小宮山さんは右足をいつも引きずって歩いていた。その理由は村尾さんが教えてくれた。小宮山さんは学生の時に度胸試しで校舎の三階から飛び降りた時に右足を怪我してしまい、それ以来右足を引きずらないと歩けないらしい。小宮山さんはスケベそうで後からこの店に来たくせにすごく偉そうで菅谷さんや村尾さんはいつも呼び捨てにされていた。今まで一番偉かった菅谷さんも小宮山さんの言うことは愛想よく聞いていた。そんな小宮山さんだから、村尾さんはよく小宮山さんが右足を不自由になった理由を話しながらバカだよなあと言っていた。僕もそう思った。小宮山さんが何故、学校の校舎の三階から飛び降りる必要があったのか、何度考えても意味が分からない。たった一度の意味不明な行動で小宮山さんは右足の自由を失った。武勇伝にもならない。バカとしか言いようがない。小宮山さんも一度だけそのことについて自分で言ったことがある。自分がしたことはバカとしか言いようがないけれど、若いってそう言うことだと。僕は危険なところからジャンプしたりしない。小宮山さんのジャンプを勇気と言うのか、愚かと言うのか。その時の僕は愚かとしか言えなかった。

 それから人があまり立ち入らないほとんど物置となっているエレベーターの裏にある階段スペースから泣きながら飛び出してきた千田さんとバッタリ会った。僕もびっくりしたけれど千田さんもびっくりした顔をしていた。それでも千田さんが涙を流していることはハッキリと分かった。ショートカットで赤い口紅で制服を着た千田さんは大人の女性だ。休憩室で昼休みが被れば僕にとても優しかったし、村尾さんにはダメ男と毒舌を平気で放ち冷たい視線を送る。そんな大人の女性が泣いていた。僕にはその意味が分からなった。千田さんは一瞬だけ僕の顔を見て、何も言わずに売り場の方に消えていった。その後気まずそうに同じ場所から菅谷さんが出てきた。菅谷さんが僕に、千田さんを見たかと聞いてきたので見ましたと僕は答えた。その後、このことは誰にも言うなと言われた。菅谷さんは結婚していて、それを承知の上で千田さんは菅谷さんと付き合っていると聞いていた。ドラマとかで見ていた不倫と言うものだ。僕はテレビの中のことと思っていたものを初めて目の前で見てしまった。菅谷さんはすぐにその場から消えていったが僕はとても怖くなった。いろんなことを想像した。別れ話だとか、妊娠したのだとか、溜まったストレスをぶつけ合っていたのかだとか、考えれば考えるほどいろんなことを想像してしまった。僕は自分が見たことを誰にも言わないようにした。次に二人を見た時は菅谷さんも千田さんもいつもと同じように振舞っていた。誰も何も気付いていなかった。休憩室でも千田さんはいつもと変わらずに僕に接してくれて、村尾さんには容赦ない罵声を浴びせていた。僕はただ、結婚して家族のいるハゲの菅谷さんより村尾さんと付き合えばいいのにと思った。男女の仲のことは彼女のいない童貞の僕には分からない。その日、僕は悲しい気持ちになりながらムラムラしてエッチなビデオを見てオナニーをした。オナニーが終わった後、いつも僕はため息をつく。

 またある日の夜、鳴らないはずの僕の家の電話が突然鳴った。しかも夜中の一時を過ぎた時間帯に。恐る恐る僕が電話に出ると受話器の向こうから思いもよらない名前を名乗られた。佐々本さんだった。佐々本さんはいつものようにやる気のない口調で、今から小沢君の家に行くから一晩泊めて欲しいと言ってきた。僕は困った。本音を言えば神様が与えてくれたものすごいチャンスなのかととても興奮した。けれど胸に引っかかる感情があった。僕は女の人が付き合ってもいない男の人の家に簡単に泊まったりしてはいけないと思っていた。また、僕は童貞で、まだ僕には彼女はいない。この部屋に女の人が泊まれば僕は自分で自分の理性を抑えることが出来ないと思った。それと同時に佐々本さんは僕より若い女の子なのに今日泊まる場所がない、僕が断れば佐々本さんはこの後も都会の夜の中、たくさんの危険の中で過ごすことになる。頭の中で佐々本さんは簡単に股を広げるんじゃないかとか、僕に電話をしてきたことは佐々本さんも別に僕にやらせてあげてもいいかと軽く考えているんじゃないかとか、何故こんな夜中に泊まるところを探すような羽目になったのかとか、佐々本さんは僕の家だったら安心だと思ったのかとか、たくさんの考えがグルグルと回っていた。僕は佐々本さんに別にいいよと電話に向かって言った。とりあえずスケベなことを考えていたけれど、自分に言い訳をしながら僕の家に泊まれば一番安全だと考えた。結局佐々本さんの心配をしながら、佐々本さんが他の悪い男にエッチなことをされるのなら僕のまな板の上で僕が自由にした方が僕も安心だし、僕が佐々本さんとエッチなことをする分には佐々本さんは汚されないと思っていた。でも結局それは自分に対する言い訳と都合のいい解釈で合って、僕は自分がドンドン悪者になっていくように感じた。佐々本さんは僕の自宅の場所を知っている。佐々本さんが僕の自宅に向かっている。僕は急いで部屋の中をきれいにした。エッチなものや汚いものを押し入れの奥に隠し、佐々本さんがゴキブリを見て驚かないように台所に溜まっている洗い物も急いできれいにした。案の定でかいゴキブリがシンクの皿の下から出てきたので僕はエアーガンで退治した。古いユニットバスもきれいにして、カーテンの隙間からハアハア言いながら佐々本さんが僕の自宅に来るのを待った。やる気のないシンディローパーがいつも以上に冷めた目でとぼとぼと歩いてくるのが見えた。僕は自分が佐々本さんより年上で同じ野良猫だということを思い出した。キリヤ堂のみんなの顔を僕は思い出した。千田さんが泣いている顔を思い出した。絶対森山さんにしておけという村尾さんの顔を思い出した。絵描きさんになりたいと言う森川さんの顔を思い出した。僕の自宅のチャイムが鳴った。扉を開けると今にも泣きだしそうなシンディローパーがそこに立っていた。僕は生地が好きで、僕が好きな人は森山さんか森川さんのどちらかだ。僕の童貞は森山さんか森川さんのどちらか。それ以外はない。僕はすごく格好悪い。僕は佐々本さんを部屋の中に入れて、お風呂とトイレと布団の場所だけを説明して部屋の鍵を佐々本さんに渡した。少し慌てながら自転車の鍵だけは同じ鍵の輪っかから外してポケットに入れた。僕は佐々本さんに、付き合ってもいない男の家に女の人が軽々しく泊まってはいけないと言って、それから、今日だけは佐々本さんが僕の部屋で泊まって、僕は村尾さんの家に泊まると言った。もちろん村尾さんの家は池袋にあるからタクシーに乗るお金もないし、そんなつもりはサラサラなかった。佐々本さんが僕に初めて意外そうな目を見せた。僕はそんな視線を受け止め、棒読みの様に火の元に気を付けることと、明日には必ず鍵を返して欲しいことと、家を出る時は必ず戸締りをしてくることをお願いしてそそくさと東京の夜の街に一人で飛び出していった。僕は自転車を押しながら一人で歩き、以前、森山さんに小沢君は何故髪を染めたりしないのかと聞かれたことを思い出した。今の若い人はみんな髪の毛を茶色や金色に染めている。僕はその時森山さんに即答した。それは僕が日本人だから、日本人は黒髪なのだからそれに誇りを持つべきだと。僕にも憧れの俳優さんやスポーツ選手がいた。そんな人たちはきっと今の僕と同じ状況になったら僕と同じ選択をしたはずだ。僕はトボトボとハイライトを咥えたまま夜の街を歩き続け、自分はちょっとかっこいいと勘違いをしたり、せっかくのチャンスに何をやっているんだと自分を責めたり、明日の弁当はどうしようと考えたりした。こういう時に何て言うんだろう。昔、タモリさんが何かの番組で、スェーデン食わぬは男の恥と言っていたなあ。僕はキリヤ堂の前でガードレールに腰かけてハイライトを何本も吸い、特別に自動販売機で飲み物を買った。同じ百円でもコーヒーは量が少ないので炭酸の大きいやつを買った。炭酸ジュースにハイライトは全然合わない。ガードレールに腰を掛けていたらお尻が痛くなったので僕はキリヤ堂の裏口の前で寝転んでそのまま夜空を眺めた。多分今の僕の顔を鏡で見たら、とてもやる気のないシンディローパーのような目をしているのだろう。それでも下半身だけは元気なままだった。僕は今までの人生でこういうチャンスを三回くらい逃してきた。後から自分をかっこいいとか純粋だとか言い訳でごまかして。だからもうすぐ二十歳になろうとしているのにいつまでも童貞のままなのだ。そう言えば村尾さんも彼女がいない。今までずっと。童貞ではないけれど。菅谷さんは結婚もして家庭もあって自分専用の相手がいるのに千田さんとも付き合っていた。でも僕の中ではハゲでやりまくってる菅谷さんよりいつもみんなにボロクソ言われながら実家暮らしで月の給料が全部自分のお小遣いになっている村尾さんの方がかっこいいと思った。明日のお昼はどうしよう。僕は固く冷たいコンクリートの上でジワリと汗をかきながらいつの間にか眠っていた。翌朝僕は村尾さんに起こされて目が覚めた。僕は村尾さんに何をしているのか聞かれたので昨日の夜は眠れなかったので遅刻しないようにここで寝ていたと答えた。いろんなことを聞かれたけれど佐々本さんのことは内緒にしていた。その日の午前中、僕は今日のお昼はご飯抜きだなと思いながら生地を切っていた。すると十一時前に佐々本さんが二階のフロアにフラッと現れた。そしてこんな早い時間に現れた佐々本さんに河本さんがどうしたのと声をかけ、佐々本さんは、ちょっと体調が悪くて家にいても気が晴れないからシフトの時間まで休憩室で休んでいると言った。それから僕にこの生地の発注をお願いと言いながら台の上で紙に何かをメモをするフリをして僕に何も書いていない伝票の紙と小さく折られた紙を受け取った。それから誰にも聞こえないように小さな声で、ありがとねと言ってすぐに二階から消えていった。僕は、エンポに行ってきますと河本さんに言ってトイレの中で受け取った小さく折られた紙を開いてみた。中には僕の自宅の鍵が入っていて、紙には佐々本さんが書いたのであろう文字がかわいらしく並んでいた。


 小沢君


 昨日の夜はありがとうね。お弁当がないのではと思ってロッカーにパンを入れておくね。


小沢君は良い人だね。

 

あと、部屋にあったビデオデッキの中にエロビデオが入っていたことは内緒にしとくから。

 

森川ちゃんも森山ちゃんもいい子だよ。


 さんきゅー。


 僕はラブレターと言うものを貰ったことがなかった。けれどきっとラブレターを貰ったことのある人はこんな気持ちになるんだろうなと思った。僕はすごく嬉しい気持ちとビデオデッキの中まで気が回らなかったことに対する反省の気持ちと僕が森川さんと森山さんのことが気になっていることがバレていることの恥ずかしい気持ちでポケットの中に自宅の鍵と佐々本さんからの手紙を大事にしまってフロアに戻った。お昼休みに僕のロッカーの中を見るとたくさんのパンが袋に入って置かれていた。佐々本さんの姿は休憩室にはなかった。僕はみんなに珍しいねと言われながら袋の中のパンをもぐもぐ食べて暑いお茶を流し込んだ。

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