第7話

 暑い夏が来た。

 僕がキリヤ堂に入ってから三か月が過ぎた。僕のメモ帳は二冊目になっていた。お客さんに生地のことを聞かれてもある程度自分で答えることが出来るようになった。お客さんにナイロンとラミネート加工と撥水加工の生地は何が違うのかと聞かれても、ナイロンはナイロン百パーセントの化学繊維で織られている、ラミネート加工は生地の上からラミネートの加工をしている、撥水加工は生地の上から撥水加工を施していると答えられるようになった。ナイロンは水が染み込むけれど、ラミネート加工や撥水加工をされた生地は水を弾く。また、シルクはとても高い。ベルベットもシルクほどではなかったが高い。高い生地を切る時はとても緊張した。おまけもそんなに出来ない。生地のことをまだ覚えている最中の僕でも分かる。シルクはとても美しい。二階にある生地の中で一番美しい。またベルベットもものすごく美しい。また、ベルベットは人によって呼び方が違って、ビロードと呼ばれたり、ベロアと呼ばれたり、別珍とも呼ばれていた。昔読んだマンガでバナナフィッシュと言うマンガを思い出した。悪役のディノと言う人がベルベットのような舌と言う表現をしていた。今の僕にはその意味が分かる。ベルベットの手触りはものすごく気持ちがいい。こんなに芸術的な生地も全てたて糸とよこ糸で織られているのか、糸から作られているのかと考えると作っている人はものすごいなあと僕は思った。

 森山さんは以前よりも明らかにシフトの日数を増やして、遅番から早番にも入るようになった。そして森山さんも早番の時は自分で弁当を作ってきて、僕と一緒の休憩時間に昼休みを取る時はおかずの交換をするようになった。森山さんの弁当のから揚げは美味しい。あと、ウインナーがタコさんでリンゴがウサギのようになっていた。河本さんから、森山さんが早番に入るようになったのも今までにはなかったことと、弁当を作ってきたのも初めてのことだと聞いた。また、仕事が終わった後に村尾さんや森川さんと三人でよく遊びに行くようになった。遊びにかかるお金は全部村尾さんが奢ってくれた。他にも二階の森山さんも遅番で一緒に仕事が終わった時はその中に加わった。内田さんや佐々本さんもたまにその中に加わったりもしたが基本さっさと帰っていた。基本三人で。森山さんと四人で。たまにみんなで。もちろん村尾さんの奢りで。カラオケに行ったり、マックでいろんな話をしたり。村尾さんも友達はそんなにいないと言っていた。昔からいろんなやつによく馬鹿にされると言っていた。社員の同期の人たちもみんなが出世してバイヤーになったりしていると言っていた。自分だけがいつも平社員だとも言っていた。森川さんは経理だから制服を着ているけれど実はアルバイトであると言っていた。村尾さんは僕より七つ年上で森川さんは僕より四つ年上だった。村尾さんは高校を卒業してからキリヤ堂に就職したと言っていた。実家は池袋で八百屋さんをしているらしくて家業を継ごうと思ったけれどその前に社会に出た方がいいと思って就職をしたと言っていた。森川さんは絵を描くことが好きで美術系の短大を卒業した後、実家暮らしでフリーターをしながら絵を描いて売っていると言っていた。三人で話をしているとよく村尾さんが呆れるようなことを言ってそれに対して森川さんが、いいか村尾氏と厳しい言葉を返していた。たまに遅くまで話をしていて家に帰るのが面倒くさくなった村尾さんは僕の家に泊まるようになった。森川さんも泊まりに行きたいと言ったこともあったが女の人が付き合ってもいない男の人の家に泊まることはダメだと思って僕は泊めなかった。僕の部屋に初めて泊まりに来た村尾さんは僕の部屋を見て、汚いけれど意外と思ったよりもしっかりとしていると言った。男同士になると下ネタも全快になる。村尾さんは、今まで彼女がいたことはないけれど童貞じゃないと言っていた。僕はその意味が最初よく分からなかった。お金を払えばそういう相手をしてくれる風俗店というものがあると教えてもらい、いいなあと言う感情と、でも最初は好きな人とやるものだろうと言う感情の両方を持った。それでもエッチなお店はたくさんあると教えてもらい、今度そんなお店を奢ってくれると言われて僕はとても喜んだ。僕はお金がない、お金がないと言いながら実は拾ったビデオデッキを二台持っていてレンタルビデオでよくエッチなビデオを借りてきてダビングしていた。こういう時、一人暮らしをしていてよかったなあと思った。でもイメージが下がるとまずいと思っていたのでそう言うビデオは一人暮らしでも押し入れの中に隠していた。村尾さんは自分のことは一切言わずに、森山さんと森川さんは君に絶対気があると言っていた。僕は人生で女性にモテたことも、女性と付き合ったこともなかったので実感はわかなかったけれど、言われてみればそうなのかなと言う気持ちになった。僕は、村尾さんには森川さんがお似合いじゃないかと言ったが村尾さんはあんなデブスは無理だと言った。森川さんは一般的にデブスと思われているらしい。僕には優しくしてくれる年上のお姉さんだったのでその辺の感覚がマヒしていたのかもしれないが、村尾さんは僕に、森山さんと森川さんなら比べるまでもないと言っていた。森山さんは誰が見ても可愛くて胸が大きい。でも僕は野良猫で森山さんは上品な飼い猫。森川さんは夢を持っていた。森川さんは同じ飼い猫でも家の外の世界にも普通に歩いていける猫だ。村尾さんは他にもキリヤ堂の誰が可愛くて、誰が不細工かをよく言っていた。キリヤ堂の社員なら一階の千田さん、三階の佐藤さん、アルバイトなら二階の森山さん、三階の今川さん。普通なのが経理の下地さん、三階のアルバイトの岸本さん。残りの女の人は結婚している人か不細工と言った。僕は名前が出なかったので二階の河本さんや根本さん、アルバイトの内田さんや佐々本さんのことを聞いてみた。河本さんはすでに結婚しているらしく、根本さんは申し訳ないけれど不細工、内田さんは彼氏がいて、佐々本さんはバイヤーの人と付き合っていると聞いた。バイヤーとはキリヤ堂の各店舗を回って自分の担当している部門の売り上げを伸ばすために各店舗の売り場の担当者にいろいろと指示を出す人である。僕もたまにキルト売り場の担当者としてお客さんにお勧めしたいキルトや他の店舗で売れているキルトがあれば置く場所を目立つところに変えるように指示を受けたりしていた。バイヤーの人はいろんな店舗を見て回る。そこで気に入ったアルバイトの女の子と付き合うのか。それだとバイヤーの人は出会いがたくさんあるだろうなあと僕は思った。村尾さんも、バイヤーはいいよなあと言っていた。それから内緒の話で店長代理の菅谷さんは結婚しているけれど一階の千田さんと付き合っているということも教えてもらった。菅谷さんが結婚していることはみんな知っていることだ。それでも千田さんはそれを承知の上で菅谷さんと付き合っている。あんなに美人なのに。ハゲのくせに。村尾さんは僕の家でよく僕の作った夕食を食べていた。お風呂にも入り、布団を適当に広く敷いて、雑魚寝した。スーツはきれいにハンガーにかけていて、翌朝、僕は弁当を作り、村尾さんは昨日と同じ服装で僕の家から僕の自転車に二人乗りでキリヤ堂に出勤した。村尾さんは本当によく僕にお金を奢ってくれた。村尾さんが奢ってくれる朝の仕事前の缶コーヒーは本当に美味しかった。コーヒーが美味しいとハイライトも美味しい。

 この季節は綿ローンのプリントのサッカーやリップルがよく売れる。しじら織りも和柄のものは本当に人気があった。和柄はもう見ただけで和柄だった。忍者のような柄。また、たくさんの花や植物が描かれたボタニカル柄、南国をイメージしたトロピカル柄やハワイアン柄。モザイク柄と言う名前を聞いた時はドキッとした。タオルそのもののタオル地やパイル。また、定番の売れ筋商品は季節関係なく売れていた。無地カラーならシーチング、厚手シーチング、ネル地、ツイル、チノクロス、ガーゼ、カツラギデニム、アムンゼン。高い生地ならウールジョゼット、サキソニー、ウールボイル、カシドス、ファー、ボア。合繊ストレッチ。ポリエステルオーガンジー、スパークオーガンジー、ジョーゼット、タフタ、チュール、チュールフロッキー、スパークハーフ、ラッセル、ナイロンシャー、バックサテン、テトロンスエード、トリコット、スムース、ラメ、レザー、エナメル、プレーン、合皮、プリントならハート柄、星柄、水玉、縦ストライプの横ボーダー。ギンガムチェックにタータンチェック。ムラ染めに先染め、後染め。生地を織る前に糸を染める先染め、織った生地に色を付ける後染め。後染めで工夫して不思議なムラが出来るムラ染め。キルトも年中売れる。僕がキリヤ堂に入った時に河本さんがやったように僕は売りたいキルトを切り、バックをホッチキスで作り、売り場に展示した。お客さんがそれを見て僕にあのバックと同じ生地が欲しいと言ってくれたらとても嬉しかった。僕はキルト売り場の責任者だから、キルトをたくさん売らないといけない。もう、この頃には僕はハサミの使い方にも慣れ、根本さんに教えてもらったある技を使っていた。その技とはハサミの根元を輪ゴムで縛ってやり、刃が簡単に開かないようにすることである。普通のハサミなら指を入れる部分の片方だけを持つと刃が勝手に開いてしまう。しかし、輪ゴムでしっかりと刃をしばってやると力を入れないと刃は開かない。それをすると生地を切った後に西部劇のガンマンの様に伸ばした右手の先に持ったハサミを人差し指だけでクルクルと回転させながら腰のホルダーに仕舞うことが出来た。これをやるとお客さんがすごいと言ってくれた。特にハサミを生地に滑らせて切った後に素早くこれをやると自分がプロの職人のような気分になれた。お客さんに生地を切って欲しいと言われたら待ってましたとばかりにこればかりやるようになった。二十メートル以上の長さを切るように言われても段ボールのような板に巻かれた生地をダンダンダンと勢いよく台の上で広げていき、大体これぐらいで注文された長さという感覚を持つことが出来た。生地を体の左側で持って、右手を精一杯広げるとちょうど一メートルの長さ、言われた回数だけ右手を広げると大体その長さになった。台の上から生地が床に落ちないように気を付けながら竹の物差しで長さを測っていく。二十メートル以上の長さでもピッタリその長さになる。そして生地を切った後も床に落ちないように丁寧にタオルを折りたたむように生地の端と端をピッタリと合わせて折っていく。二十メートル以上の長さに切ると折りたたまれた生地だけでお客さん用の黄色い籠はいっぱいになってしまう。これとこれとこれを全部二十メートルと言われると一仕事になる。いつもは二人で使う台も一人で占領してお客さんが持ってきた生地を床に落とさないように台を広く使って左から右へ。生地をドンドンと広げていく。お客さんが少ない時は周りの人たちが手伝いに来てくれて各々が生地を一本ずつ持って他の台に移動して二十メートルで切ってきれいに折りたたんで籠に入れてきてくれる。僕は生地を早く測って切る自信があったのに誰もが僕よりも早く切り終えてきれいに折りたたんで籠に入れた状態で僕のところに持って来てくれた。僕がトロトロと折りたたんでいる間に値札を見て伝票まで書いてくれていた。河本さんも根本さんも糸井さんも山本さんも内田さんも佐々本さんも森山さんも僕より切るのが早い。そしてやる気のないシンディローパーの佐々本さんは僕より年下でヤンキーみたいなのに生地の知識は半端なくあった。接客もやる気がなくまったく笑顔を見せないのに遅番には佐々本さんがいれば大丈夫と言う雰囲気があった。佐々本さんは二階では一番年下なのに森山さんのことを森山ちゃんと、僕のことを小沢君と、村尾さんのことを呼び捨てにしていた。いつも眠そうな目でまるで世の中のことは全て知っているようなつまらなそうで冷めた目をしていた。ある日、お客さんに縦がストライプで横がボーダーなら斜めは何と言うか聞かれたことがあった。売り場の人たちは斜めもストライプでいいとか何だろうねと言っていると佐々本さんが一言、バイアスと言った。そんな佐々本さんもたまに来る裁縫の先生とだけは楽しそうに話をしていた。ミシンでその場で何でも作ってしまうおばあちゃんの先生とやる気のないシンディローパーが生地のことで楽しそうに話している。それは知識の交換とお互いが認め合ったから成り立つ光景であった。高校にも行かないでどこに誰と住んでいるかも分からない佐々本さん。店にたまに来る玉置浩二に似ているイケメンの中年のバイヤーと付き合っている佐々本さん。この人も野良猫だ。二階のフロアには魅力に溢れた人ばかりだった。引田天功のような河本さんはいつもキメキメの化粧で一階の千田さんや三階の佐藤さんに負けない美しさと明るさを持っていた。また二階のリーダーとしてシフトを毎月無理のないように決めてくれて、バイヤーに対してもいろいろと注文を出していた。旦那さんは阿佐ヶ谷で美容院を経営していると聞いた。小沢君ならタダで切ってもらえるように旦那に言っておくと言ってくれて、休みの日に河本さんの旦那さんに僕の髪を切ってもらった。河本さんの旦那さんは阪神の川尻にそっくりだった。とても素敵な夫婦だと僕は思った。根本さんはムーミンの人だったけど毎日会っているとだんだん仲が良くなっていった。村尾さんは根本さんのことを不細工だと言うけれど話をしているとかわいらしいところも多かった。根本さんは二十代後半だけれど男性経験がないらしい。そのことは推測で周りの人から聞いたことだった。実際に男の人と縁があるようには見えなかった。それでも普通の女の子みたいで僕と話をしていて少しでも話が下ネタの方に行くと顔を真っ赤にして逃げ出す癖があった。また僕に本気で質問して来る時に俯いて目だけを上に向けて僕の顔を見つめてくる癖があった。小沢君は彼女とか欲しくないのと根本さんにこの表情で言われると僕は嘘がつけなくなる。糸井さんは黒柳徹子の人ではっきりとものを言う人だった。僕がお昼休憩を時間ギリギリまで取っていると、五分前にはフロアに戻らないと他の人に迷惑がかかるよと注意してくれた。また、僕の弁当にも栄養のバランスが偏っていると言ってくれた。僕がちやほやされる中、しっかりと注意してくれるのは糸井さんだった。そんな糸井さんは小沢君募金箱に毎日何かしらの野菜を入れてくれた。糸井さんがくれる野菜は母の味だった。糸井さんには僕より年上の子供がいる。しっかりと大学を出て就職しているらしく、糸井さんは僕に、フリーターもいいけれど早く正社員としてどこかで働いた方が将来の為にもいいと言ってくれた。そんな糸井さんに僕はだらしない姿を見せられなかった。山本さんはブライアンメイで背の高いソバージュのおばさんで鼻がシュッと高く、外国の人みたいだった。糸井さんと違って、僕や佐々本さんみたいな野良猫に教育をしようとすることは一切言わなかった。山本さんには子供がいない。そして二階で働いている人の中では最年長だった。山本さんは僕のことをたくさん褒めてくれた。若い人は好きに生きればいいといつも言っていた。自分が若い頃に好きなことが出来なかったから、歳をとった今になって好きな生地の仕事をしていると言っていた。山本さんが若い頃にしたかったことが何だったのかは教えてはくれなかった。内田さんは本当に面白い人だった。明るくて本当によく喋るし、一緒にいるととても楽しい気持ちになれた。村尾さんのことは呼び捨てにするし、糸井さんに小言を言われるとその場ではものすごくしょんぼりとした表情で返事をしていたが、糸井さんが背中を向けた瞬間にケロッと表情を変えて、台の上にある一メートルの竹の物差しを手に持って指揮者のような動きをして周りを笑わせた。糸井さんが異変に気付いて内田さんの方に振り替えると瞬間的に振っていた竹の物差しを自然に何かを測る仕草に切り替える。また、村尾さんも内田さんの見た目は悔しいけれど認めているようで村尾さんをもってして内田さんはキリヤ堂で一番乳がでかいと言っていた。器量もよく接客も明るくて面白い内田さんのことを僕はずっと年上だと思っていたけれど実は僕より一つ年下であることを聞いてびっくりした。また、村尾さんからあいつは乳がでかいけれど残念ながら男と同棲していると聞いた。確かに遊びたい年頃なのにお店が終わると真っ直ぐ帰る日が多かった。内田さんも野良猫だ。森山さんは二階の若いアルバイトの女の子の中では一番年上だったけど、誰よりも子供っぽかった。それは仕方のないことだった。森山さんはまだ社会に出ていない。高校から大学に進学して今でも学生で学校に通いながらのアルバイトで、税金を払うほど働いていなかった。税金のことで僕は月に一万円近くの所得税を引かれていたが、内田さんと佐々本さんから小沢君は損をしているとよく言われていた。フリーターでも職場を二つに分けて同じ十五万でも七万五千円ずつを二か所から貰えば所得税は一円も取られないということを知った。それでも僕は分かっていながらキリヤ堂だけで働くことを選んだ。理由は一つだけでキリヤ堂で働くことが楽しかったからだった。森山さんは僕から見てもとても僕と同い年とは思えなかった。きっと僕が田舎で状況資金を貯める時に出会った同い年の金髪で高級車に乗った中卒の子も僕を同じような目で見ていたのだろうと考えたりもした。生活が懸かっていない人はいろんな意味でどこか甘くなる。休憩室にある自動販売機でお昼休みに村尾さんや他の社員さんも普通に百円玉を取り出して好きな飲み物を飲んでいた。僕は自動販売機で飲み物を買ったりしない。森山さんは普通に村尾さんや他の社員さんと同じように休憩室の自動販売機で飲み物を買う。その百円の価値観が僕と森山さんの大きな違いだった。キリヤ堂の時給は八百円。八本の飲み物を買えば一時間タダ働きすることと同じことになる。森山さんが自分で働いたお金で好きな飲み物を自動販売機で買うことは悪いことではない。でもそのお金に対する考え方が僕を少し意地悪にする。パートのおばさんたちは絶対に自動販売機で飲み物を買ったりなんかしない。僕が自動販売機で飲み物を買えば、その日から小沢君募金箱には誰も何も入れてくれなくなる気がしていた。それでも十九歳の僕が煙草を吸うことには誰も何も文句やお説教など言わなかった。それと僕は神田さんとも仲良くなった。男手の足りないキリヤ堂では生地の搬入などの時に僕や村尾さんが呼び出される。神田さんと三人で台車の上に重い荷物を載せてエレベーターを使って各フロアに運ぶ。耳が聞こえづらく、言葉の話せない神田さんとコミュニケーションをとる時、僕は最初、紙に書いた方が早いのではと村尾さんに言った。村尾さんは、そんなことしなくていいと僕に言った。少し強い口調だった。キリヤ堂で働く人は全員が神田さんとコミュニケーションをとる。誰一人として紙を使って会話をしようとはしない。一生懸命神田さんの耳元で大きな声を出し、それを理解したら神田さんが指でオッケーの輪っかを作る。深く考えると僕は神田さんをとても傷付けてしまうところだった。僕がやろうとしていたことや神田さんに対しての考え方は相手のことを何も考えていないことだった。頑張ればゆっくりでも歩くことの出来る人を無理やり車椅子に乗せることと僕がやろうとしたことは何も変わらない。僕が一生懸命働いて誰にも迷惑をかけずに暮らしているのに、僕の月の給料よりも多くの仕送りを貰っている大学生に奢ってやると言われても僕はそんな施しなど拒む。神田さんの耳はまだしっかりと人の声を聞くことが出来る。それを僕は村尾さんに言われるまで気が付くことが出来なかった。僕はそんなことがあって、村尾さんが例え他のみんなにボロクソ言われていようと彼女がいなくても尊敬することが出来た。神田さんが作るオッケーの指の輪っかのサインが僕は好きだった。

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