第3話
河本さんにいろいろと教わっていたら時間も知らないうちに過ぎていた。河本さんが僕にお昼休憩の時間だと言い、全員が同時にお昼休憩をとると人がいなくなるから十一時からと十二時からと一時からの三つの時間に分かれて順番にお昼休憩をとると教えてくれた。腕時計を見ると十二時前だった。河本さんが、お昼休憩は好きに使っていいのでエプロンとハサミとホルダーを自分のロッカーに置いて外に食べに行っていいので一時までにはお店に戻って二階にいるようにと言った。僕は、お弁当を持って来ているのでどこで食べればいいかと河本さんに聞いた。河本さんは驚きながら、そのお弁当は誰が作ったのかと僕に聞いてきた。僕は、外食だとお金がかかるのでお弁当は自分で作りましたと答えた。河本さんはとても優しそうな目で僕を見ながら、お弁当はロッカーのある部屋がみんなの休憩室なのでそこで食べればいいと教えてくれた。僕は休憩室のある四階に階段で昇った。
僕はロッカーのある部屋に入った。数人の女の人がそこで食事をとっていた。社員の人は会社から貰っているのか分からなかったが同じ弁当箱でみんなが同じものを食べていた。僕は自分のロッカーの場所がどこだったのか覚えていなかったのでどうしようと思っていたらたくさんのロッカーの中に僕の名前が書かれたシールを貼っているロッカーを見つけた。中を開けると僕の弁当箱が入っていた。僕は知らない間に自分の名前をロッカーに誰かが貼ってくれたことに嬉しくなった。キリヤ堂の人は僕のことを大事にしてくれているのだと思った。僕はロッカーの中にハサミとホルダーとエプロンを仕舞い、弁当箱を取り出してみんなが弁当を食べている机の隅っこに邪魔にならないように座っていいかを確認した。みんなは少し驚きながら、遠慮せずに空いているところに好きに座っていいと言ってくれた。休憩室にはテレビが流れていた。僕はみんなの邪魔にならないように一番端っこの場所の椅子を引いてそこに座りお弁当箱を包んでいる布を開き、弁当を食べ始めた。社員の女性の一人が僕に初対面の人と話すように少し緊張しながら話しかけてきた。その女性は若くてきれいな人だった。その人は千田と名乗って僕の名前は知っていた。そして僕に休憩室にはポットと湯呑ときゅうすがあるのでそこでお茶を好きに作って飲んでいいと教えてくれた。僕は本屋さんでバイトをしていた時にいつも飲み物は家で作った麦茶を五百ミリリットルのペットボトルに入れて飲んでいたので暖かいお茶がただで飲めることがとても嬉しかった。千田さんはそれから、僕の弁当は誰に作ってもらったのかと聞いてきた。僕は、いつも自分で晩御飯を作る時に翌日用に多めに作ってそれを弁当箱に詰めていると答えた。千田さんは休憩室にいるみんなに、小沢君は自分で弁当を作っていると僕を褒めるように言った。僕より年上の女の人が口を揃えて僕を褒めるようなことを言ってくれたので僕はとても恥ずかしい気持ちになった。僕はこっそりとメモ帳に千田さんと書いた。名前を覚えるにもメモを取るのが一番早かった。ハゲの人、菅谷さん。眼鏡の若い人、村尾さん。長髪で口紅、河本さん。ムーミンの人、根本さん。黒柳徹子、糸井さん。ブライアンメイ、山本さん。ショートカット若い、千田さん。
弁当を食べ終えて、お茶を飲みながら僕はハイライトを吸った。机の上には灰皿が何個か置かれていて、他の人も普通に吸っている人は吸っていたので一応確認だけはとって自由に吸っていいと聞いてから吸った。それから僕はズボンのポケットから一冊の単行本を取り出してそれを読み始めた。大好きなカミュの異邦人と言う本だった。外国人作家にもみんな苗字と名前っぽく間に点が入って二つの名前があったのにカミュだけはカミュだった。もう何度も繰り返し読んだ作品だったが何度読んでも僕は飽きなかった。僕は異邦人を読みながらハイライトをもう一本だけ吸った。もったいないので根元まで吸うようにしていた。テレビでは笑っていいともが流れていてみんながそれを見ていた。みんなが同じ瞬間に笑うからだ。先ほど千田さんに声をかけられてからは誰も僕には声をかけなかった。それは僕が本を読んでいるから邪魔をしないようにしてのことだと僕は思っていた。笑っていいともが終わったので僕は一時になると思い、急いで午前中に教えられた順番でホルダーを先に腰に巻いてからエプロンをして、ホルダーにハサミを入れて二階に戻った。
僕が一時三分前に二階のフロアに戻ると河本さんが、私はこれから休憩をとるので代わりに根本さんがいろいろと教えてくれると根本さんを紹介してくれた。根本さんはとてももじもじしていた。ムーミンの人がもじもじしているみたいだった。それから根本さんは、私は人にものを教えるのが苦手なので逆に分からないことがあれば質問してと僕に言った。僕は聞きたいことはたくさんあった。何しろこの二階にある生地のことを僕は全く知らないし、お客さんに質問されても何も答えられないから。気が付くと山本さんがレジを打っていた。僕は最初に生地の値段について聞いてみた。前の本屋さんではどの本にもちゃんと値段が裏表紙に書かれてあったのでレジでのお会計も簡単だった。生地にはよく見ればどの生地にも値札が付けられていた。でも生地は十センチ単位で切って売っていることを知った。たくさんの種類の生地を買えば、レジでどのようにお会計するのかが分からなかった。僕がそのことを聞くと根本さんは僕を連れて生地を切る台のところに行き、台の側面に紐で吊るされている紙を一枚ちぎって僕に見せた。僕はその紙をその時に初めて気が付いた。その紙にお客さんに言われた生地の長さと値段を書くと教えてもらった。僕は根本さんに、その紙を一枚貰ってもいいかと尋ねてみた。根本さんは、いいと言ってくれた。それから生地には種類によって部門があり、一日の売り上げでどの部門が売れたかを確認するためや、在庫を確認するために、決められた部門も書き込むことを教えられた。僕は手に持った紙をよく見てみた。昔使っていた電車の定期券より少し大きいくらいの紙には部門と生地の名前と値段と長さの項目があり、一枚の紙に五つまでの生地のことを書くことが出来るようになっていた。僕はそこでいろんな疑問があったので順番に根本さんに聞いてみた。まず五つ以上の生地を一人のお客さんに売ることになった時はどうすればいいかを聞いてみた。根本さんは、その時は二枚目の紙を取って書いていけばいいと教えてくれた。それから生地の名前や部門などは僕には分からないと言えばすぐ近くに飾られている生地の値札を僕に見せて値札に全て書いてあると教えてくれた。値札をよく見るとその生地の名前と部門を表す数字と素材と値段が書いてあった。僕はメモ帳に部門、紙に切った生地の部門と名前と値段と長さを書く、値札に全て書いてある、と書いた。メモを取っている僕を根本さんは不思議そうに見ていた。根本さんはもうもじもじしていない。僕は午前中に河本さんにいくつかの生地のことや切り方を教えてもらったことを根本さんに伝えた。根本さんは、生地にはいろんなものがたくさんあるから覚えるのは大変だと最初は思うかもしれないけれど、誰でもすぐに覚えられるし、生地の世界はとても面白くて楽しい仕事だと僕に言った。僕も二階にあるたくさんの生地を見て、少しだけ生地に興味を持っていた。今まで手芸とかしたことのない僕でもワクワクするほどたくさんの生地がこのフロアには飾ってあった。お客さんも女の人ばかりだった。僕は根本さんに、ここで生地を買ってお客さんは何に使うのか聞いてみた。根本さんは、ソーイングと言ってお客さんはキリヤ堂で買った生地や他のフロアで売っている糸や針、ボタン、ファスナー、バイアステープを使っていろんなものをミシンや手で縫って洋服やバックなどを作ると教えてくれた。他にも裁縫の先生が定期的にお店にやって来て、お店で購入した生地でオーダーも受けてその場で商品を作ることもやっていると教えてくれた。それからさりげなく部屋にカーテンはないのかと僕は聞かれた。僕は、ないですと答えた。僕の住んでいるところは一階なのでカーテンがないから部屋の中は外から丸見えであった。流石に通行人からは見えないとは思っていたが部屋の中から外の人と目が合うことはよくあった。僕の返事を聞いて根本さんは驚いていた。それからカフェカーテンと言うものがあることを教えてもらい、今日の帰りに僕の部屋用のカーテンを用意してくれると言ってくれた。言われてみると田舎に住んでいた時はカーテンが普通に自分の部屋についてあった。しかも二重で完全に陽を妨げる厚いカーテンと向こう側が透けて見える薄いカーテン。僕はカーテンが生活必需品だとは考えていなかった。ただ、あれば便利なのかとその時思った。僕はカーテンが自分の部屋に取り付けられることを想像してみた。今日、家に帰ると僕の部屋にカーテンを取り付ける。とてもワクワクした。僕は根本さんの言葉を意味も分からずにただ急いでメモに書いた。そーいんぐ、ばいあすてーぷ。
根本さんからたくさんのことを教わっているうちに河本さんがフロアに戻ってきた。河本さんが根本さんに、休憩中に小沢君のことを見ていてくれてありがとうと言って、この後はまた河本さんが僕にいろいろと教えてくれることになった。根本さんは少し寂しそうな表情をした。僕もムーミンの根本さんからいろんなことを教えてもらったのでたった一時間だけど寂しい気持ちになった。すごくセクシーで大人っぽい河本さんもムーミンの根本さんも僕にとっては職場の上司であり、先生だった。特別な感情はなかった。童貞のくせに。
河本さんは僕に、根本さんから何を教えてもらったのかと聞いてきたので生地の売る時にいろいろと紙に書くことやお客さんはこのお店で生地を買って洋服やバックとかを自分で作ることとかを教えてもらったと答えた。それから生地の世界は覚えることが多くて大変そうだけど誰でもすぐに覚えることが出来ると言われたと言った。河本さんは、良いことを教えてもらったと言い、生地はたくさんのものがあり、奥が深いけれど基本的なことを覚えればあとは簡単に覚えられると言った。それから僕は午前中に切った生地のことを覚えているかと聞かれた。僕はオレンジ色の生地とキルトとサテンを切らせてもらったとメモ帳を見ながら答えた。河本さんは、そのオレンジ色の生地が生地の基本の綿百パーセントの無地の綿ブロードであると教えてくれた。何十色もある綿ブロードの反物。まるで何十本もの色鉛筆がきれいに並べられているように明るい色から暗い色まできれいに壁に飾られてある。河本さんから、まずは綿百パーセントの柄の入っていない無地の生地を覚えるといいと言われた。同じ綿百パーセントでも薄い綿ローン。綿ブロードと似ているシーチング。少し厚めのツイル。厚めの帆布。実際に触ってみると違いが分かった。綿ローンと帆布では全くの別物だった。僕はメモ帳にドンドンと教えてもらったことを書いていった。それらの生地に柄物があって、プリントが入ったものがあると。フロアを根本さんや糸井さんや山本さんに任せて河本さんは僕にいろんなことを教えてくれた。今日は綿百パーセントだけ覚えて帰ればいいと言いながらたくさんの生地を歩きながら教えてくれた。それでも僕は河本さんの言葉を全てメモに書いていった。
チェック柄、タータンチェック柄、ギンガムチェック柄、ストライプ柄、ボーダー柄、花柄、ハワイアン柄、水玉柄、ドット柄、スイーツ柄、フルーツ柄、アニマル柄、キャンパス柄、キャラクター柄、和柄。
全く違うように見える生地だけど、よく見ると綿百パーセントは全て同じように真っ直ぐにきれいに織られていた。美しい面。河本さんが安いバーゲン品のプリント柄の生地を一本取り出してから生地の端っこを切り取って、それを僕の前で針を取り出して解体し始めた。僕はそれを見て初めて生地とは糸から作られていることを知った。これをたて糸とよこ糸と言うと河本さんは教えてくれた。僕はとても驚いた。どうやればこんなにきれいな面を細い糸で作り出すことが出来るのだろうかと。生地は全て織られていると河本さんは教えてくれた。僕は、午前中に切ったサテンもそうなのかと聞いてみた。まるで鏡のようにピカピカで光沢を放っていたサテン。河本さんはサテンも織物の一つで、午前中に切ったサテンは化繊、正確には化学繊維であると教えてくれた。僕はたくさんの言葉をメモに書いていった。たくさんの生地があった。傘に使っているような生地もあった。それらの生地のことを聞くと河本さんは、今日はまだ覚えなくていいけどそれぞれが撥水加工やラミネートやナイロンであると教えてくれた。また、僕にも分かる生地があった。それはデニムだった。デニムはジーパンで使うもので聞いたことがあった。デニムは僕が履いているジーパンを作る生地のことじゃないかと聞いてみると河本さんはその通りだと言い、また、僕が着ている服は全て生地で作られていると言った。僕は当たり前のように自分で買った安い服を着ていた。これらも全て生地で作られていると知り、とても驚いた。僕は着ている服を両手でエプロンの横から掴んで引っ張ってみた。確かに生地だった。右足を上げて靴下を引っ張ってみた。生地が伸びることに新しい発見があった。伸びる生地もあるんだ、と。僕はゴム紐みたいなものなのかと思い、河本さんに伸びる生地について聞こうと思ったがそれより前に河本さんが驚いた表情で僕に、靴底に大きな穴が開いていると言った。僕にはそれが当たり前だったので、靴はこれしか持っていないのでずっとこれを履いていると言った。雨の日に水が入るのではと河本さんが心配してくれた。雨の日には靴の中が水浸しになるのは僕にとって当たり前だったので普通に雨の日は水溜まりを避けて歩くようにしていると僕は答えた。また、ポストの中によく入っているチラシを重ねて詰め込めば穴も塞がると言った。雨の日も事前に拾った新聞紙を重ねて詰め込めば水の侵入をある程度塞ぐことも出来た。僕は靴の話を終わらせようと靴下は伸びるけれどこれも生地なのかと河本さんに聞いてみた。河本さんは、それはニット加工と言って伸びる編み方をしている生地であると教えてくれた。僕はニットと言う言葉を知っていたので上着で切るニットを想像した。僕のメモ帳はドンドン新しいページにめくられていった。
夕方になりパートの糸井さんと山本さんがお疲れ様ですと言ってフロアから消えていった。二人は僕にも、小沢君お疲れ様ですと言ってくれて、明日も来るのかと聞いてきた。僕は、毎日朝から来ますと答え、頭を深く下げてお疲れ様ですと言った。僕は河本さんに、これから閉店まで僕と河本さんと根本さんの三人でやるのかと聞いてみた。河本さんは、入れ替わりで遅番のバイトの子が来るからと言った。ちょうど糸井さんと山本さんの二人と入れ替わるようにとても胸の大きい僕より年上っぽいかわいらしい女の人と頭が金髪で気怠そうなやる気のないシンディローパーのような僕より年下っぽい目つきの悪い女の人がフロアに入ってきた。河本さんが二人に僕を紹介してくれた。胸の大きいお姉さんは内田と名乗った。明るいノリで僕に、よろしくねと言った。シンディローパーの人は佐々本と名乗り、気怠そうに僕に、頑張ってねと表情を変えずに言った。僕は二人に頭を下げて、よろしくお願いしますと言った。内田さんが僕に興味を持ったみたいでいろんなことを聞かれた。僕は田舎から上京して一人暮らしをしていることや歳が十九歳であること、彼女がいないこと、また女性と付き合ったことがないことを聞かれたとおりに答えた。佐々本さんが、ハゲが来るよと言った。エスカレーターを見たら菅谷さんが降りてくるのが見えた。その場に集まっていた四人から内田さんと佐々本さんがフロアの自分の持ち場に散っていった。河本さんが、菅谷さんはああやって店内を見回ってみんながちゃんと仕事をしているかを見ているのだと言った。内田さんと佐々本さんは棚に並べられている生地を見て、きれいに巻かれていない生地をきれいに巻いてお客さんに生地がきれいに見えるように整理していた。ああやって仕事を自分で作るのだと河本さんが教えてくれた。よく見るとお客さんは柄物の生地を広げてみて、気に入らなかったのかそのまま棚に戻している。そんな風にごちゃごちゃに置かれた生地もたくさんあった。僕も目に留まったきれいに巻かれていない生地をきれいに巻き直して棚に戻す作業をした。幅の長い生地は台に置いて上手に巻いてやらないときれいに巻けなかった。他の人を見ていると上手なもので幅の長い生地も端っこを棚に引っかけて生地を暖簾の様に垂らしてくるくると巻いていった。織り目の入った反物も両手でその場でくるくるときれいに巻いていた。僕は今日一日で生地にとても興味を持った。僕の知らないことばかりだった。時給も前の本屋さんの時より五十円も高い。しかも勉強になる。根本さんが生地は覚えることが多くて大変そうだけど誰でも簡単に覚えることが出来ると言ったことがとても心強く感じた。僕も頑張れば河本さんのようなきれいな真っ直ぐで生地を切ることが出来るのかなあ。スラスラと生地のことをお客さんに説明出来るようになるのかなあ。サテンの光沢を人生で初めて知った。それに女性に囲まれた職場。僕はキリヤ堂の二階で頑張っていこうと思った。
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