第2話

 僕は翌日、昨夜の晩御飯の残り物の鳥の胸肉のから揚げとほうれん草のお浸しと卵焼きとご飯を詰めた弁当箱と使いまわしの履歴書を持って、時間の三十分前の九時半にキリヤ堂の前で立っていた。まだ誰もお店に来ていないようだった。僕はハイライトを吸いながら店の前で誰かが来るのを待った。ハイライトはとても重い煙草で一本吸えばしばらく吸わなくてもいいから経済的にも都合がよかったので僕はハイライトを吸っていた。一本目のハイライトを吸っているとスーツを着た若い男の人が店の横にある門からキリヤ堂に入ろうとしていた。僕はその人に声をかけた。その人は僕の名前を知っていた。眼鏡をかけて短髪でそばかすが目立つその人は、すごく早く出勤してきて偉いねと僕に言った。その人は村尾と名乗って、これからよろしくと僕に言った。村尾さんの後ろについて店の裏口から店内に入ると店の中は真っ暗だった。村尾さんが慣れた手つきでフロアの灯りを点けた。そして僕にいろいろと質問を投げ掛けながら一階から四階まで灯りを点けて回り、各フロアで何を売っているかを説明してくれた。僕には商品のことが何も分からなかった。ただ、村尾さんは良い人なんだなあと僕は思った。そして最後に四階の事務所にあるタイムカードの場所を教えてくれて、出勤した時と帰る時はこのカードを機械に入れるんだよと教えてくれた。たくさんの人のタイムカードが壁にあって、そこの一番下に小沢勇と書かれたタイムカードが用意されていた。僕は初めてタイムカードを機械に入れた。僕だけのタイムカードを見て僕はすごく嬉しかった。僕は村尾さんに一つだけ、このお店には男の人は菅谷さんと村尾さんしかいないのか質問をしてみた。村尾さんは、あと一人だけ神田さんというおじいちゃんがいると言った。そして制服を着た社員らしき人や私服のパートらしき人がどんどんタイムカードを押しに事務所の中へ入ってきた。みんなが僕に声をかけてくれた。若い男の子のアルバイトは珍しいみたいだった。菅谷さんも元気よく僕に声をかけてくれた。僕は菅谷さんに履歴書を渡すと、細かいことは村尾に教えて貰えと言われ、頑張ってくれよと言ってくれた。そのまま僕は村尾さんに休憩室へ案内され、僕専用のロッカーを教えてくれた。そして青いエプロンと布を切るためのハサミとそのハサミを腰に装着するための専用のベルトを僕に渡してくれた。僕は渡された青いエプロンを私服の上から着て、初めて生地を切るためのハサミを装着するベルトを腰に巻いてみた。村尾さんはすぐに僕に、ベルトはエプロンの下に巻くんだと教えてくれた。言われたとおりにし、僕は新しいハサミをベルトについたホルダーの中に仕舞った。西部劇に出てくるガンマンのようだなと僕は思った。ロッカーの中に弁当箱を入れて僕は村尾さんに二階のフロアに連れていかれた。もう店は開店していた。お客さんも何人か生地を見ていた。村尾さんが、二階はテキスタイル部門だからと言った。僕にはテキスタイルの意味が分からなかった。でもなんかかっこいいなと思った。二階には制服を着た女性が二人とパートらしきおばさんが二人いた。制服を着ている人が社員だと村尾さんが教えてくれた。そして社員の二人を僕に紹介してくれた。凄くきれいな大人の女性みたいな人が、河本ですと言った。年齢はいくつなのかさっぱりわからなかった。ただ、凄くきれいな大人の女性だった。もう一人の社員の人は、根本ですと言った。お世辞にもきれいとは言えない女性だった。年齢は二十代後半ぐらいに見えた。アニメのムーミンに出てくる髪の毛を縛った女の人に似ているなと僕は思った。二人とも僕の名前をすでに知っていた。河本さんが、若い男の子もたまにアルバイトの募集で来るのだけどすぐに辞めてしまう、だから小沢君は頑張って長く働いてねと言った。根本さんは人見知りなのか名前だけ言ってあとは何も言わなかった。村尾さんは河本さんに、小沢君のことを任せるからよろしくと言ってどこかに行ってしまった。それから河本さんにパートのおばさん二人に僕のことを紹介してもらった。パートのおばさんは黒柳徹子さんみたいな人が、糸井ですと名乗って、クイーンのブライアンメイみたいな人が、山本ですと名乗った。二人とも僕に、今日からよろしく、長く頑張ってねと言った。それから河本さんがフロアを隅々まで案内してくれて、テキスタイルとは生地のことであると説明してくれた。キリヤ堂のものすごく広いフロアにはたくさんの生地が置かれてあった。アニメの日本昔話で反物を見た記憶があった。それと同じような生地も棚には並べられていた。板みたいなものに巻かれた生地、筒状の棒みたいなものに巻かれた生地、長さもそれぞれ違う生地。たくさんの生地を僕は河本さんに説明されながら見て回った。僕には河本さんが言っている言葉が全く分からなかった。

 ベロア、コールテン、サテン、プリント、キルト、シルク、デニム。

 デニムってジーパンの生地のことかなと僕は思った。河本さんは僕に、生地を切ってごらんと言って、オレンジ色の反物を棚から取り出し、僕を、生地を切る台のところに連れて歩いた。台の向こう側では糸井さんがお客さんの生地を切っていた。手際よく反物の生地を広げ、竹の物差しで長さを測ってから生地を、ハサミを滑らせるようにきれいに切っていた。河本さんは最初に手本を見せてくれた。まず生地をお客さんに言われた長さで切るために生地の長さを測ること。そして言われた長さより少しだけ長めのところを生地の上側から親指で、下側から人差し指と中指で抑えてから、人差し指と中指の真ん中の部分にハサミで切れ目を入れること。そして河本さんがハサミをそのまま真っ直ぐに走らせる。オレンジ色の生地がきれいに切れる。僕はすごいなあと思った。するとその生地は半分に折った状態で巻かれていたため、河本さんはもう一度ハサミを生地に走らせた。切った生地を僕は見せてもらった。最初は反物に巻かれた状態の長さの生地だと僕は思っていた。その生地は広げると倍の長さがあった。しかもハサミで二回切ったのにその生地は芸術的なほどに真っ直ぐに切れてあった。ポカーンと見ていた僕に河本さんは、その生地はS幅と言って長さが九十センチくらいの生地であると教えてくれた。それから、半分に折って巻いているから先ほどの様に切るのだと教えてくれた。河本さんは、その他にも生地は大体幅が決まっていて、S幅とW幅があると教えてくれた。Sはシングル。Wはダブル。他にも折らずにそのままの長さで巻いてある生地もあり、それらは筒状の棒に巻いてあると教えてくれた。そして河本さんに言われて僕は初めて生地を切ることになった。河本さんは、今から練習用に切った生地は、はぎれで使うからどんどん切っていいよと言ってくれた。僕は腰に下げたホルダーからハサミを取り出して反物を広げようとした。河本さんは危ないからハサミは切る時に持てばいいよと言ってくれた。巻かれた生地を広げると中から白い紙テープのようなものが出てきた。河本さんは、その紙テープは生地の残っている長さを教えてくれるものだと教えてくれた。よく見ると数字が書かれてあった。僕は河本さんがやって見せてくれたように親指と人差し指と中指で生地の切るところを抑えようとしたけれど全然持ち方が違っていて、それを河本さんは優しく正しい持ち方を教えてくれた。そして僕は教えてもらった持ち方で生地の切るところを抑えながらハサミをホルダーから取り出し切ってみた。紙を切るようにチョキチョキと切った。全然真っ直ぐに切れなかった。僕が初めて切った生地はものすごく斜めになっていた。初めて切った生地を広げてみたらものすごく汚い形になっていた。それでも河本さんは、初めてにしてはすごい上手に切れたねと言ってくれた。そして、ハサミは切れ味がいいからチョキチョキ切らずに刃を固定したまま腕を前に滑らせてごらんと言った。僕はもう一度オレンジ色の生地を切ってみた。生地を抑える三本の指もぎこちなかった。河本さんに言われた通り、僕はハサミをチョキチョキさせずに切れ目に刃を入れて腕を前に押してみた。力を入れなくてもスーッと生地が真っ直ぐに切れた。僕はその時、ものすごくいい気分になった。まるで職人になれたような気持ちになった。そのまま、半分に折られたS幅の生地のもう半分も切った。重なった生地が邪魔にならないように最初に切った部分を両側に開き、同じようにハサミを滑らせた。またしてもスーッと真っ直ぐに切れた。河本さんが、すごいすごいと褒めてくれた。僕は綺麗に切れたと思って生地を広げてみた。真っ直ぐには切れていたけれど、広げた生地は斜めに切れていた。例えるなら砂時計のような感じだった。河本さんはそれを見て、生地は糸で織られているから織り目を切る前にしっかりと真っ直ぐにしてあげるときれいに切れるよと教えてくれた。よく生地を見てみると糸のようなもので織られているのがよく分かった。それを繊維と言うと河本さんは教えてくれた。そして僕が切った生地は綿百パーセントであると教えてくれた。生地には他にもポリエステルで織られているものもあり、綿とポリエステルの混ざったものもあると教えてくれた。僕はもう一度、繊維を意識して織り目が真っ直ぐになるように両手で生地を伸ばしてやり、しっかりと真っ直ぐになっているのを確認して切ってみた。広げた生地は河本さんが切ったように美しい直線で切られていた。それを見て河本さんはすごく僕のことを褒めてくれた。僕は夢中で何度も生地を切った。ハサミをチョキチョキ動かさなくても滑らせるだけで、力も使わないで生地は美しく切れる。河本さんは、ドンドン切っていいよと言ってくれた。僕は売り物の生地を僕の練習の為に使わせてくれて申し訳ないなあと思った。僕は生地を何度も切りながら、お客さんが生地を切る台に持ってきた、たくさんの生地をドンドン切っている根本さんや糸井さんや山本さんのハサミの使い方をチラチラと見た。社員である根本さんは別として、パートのおばさんである黒柳徹子さんみたいな糸井さんやブライアンメイみたいな山本さんがハサミを職人の様に使いこなし、美しい真っ直ぐな切り方を普通にしていることにとても驚いた。そして気が付くとそんな三人でも時々、ハサミを滑らさずにチョキチョキと切っていた。何故切り方を変えるんだろうと僕は不思議に思った。それでも僕は河本さんにそのことを聞かずに黙って生地を切り続けた。とても楽しかった。生地を切るのは気持ちがいい。ドンドンハサミを滑らせる僕。自然と三本の指はしっかりと親指で生地の上側を人差し指と中指で生地の下側を抑えるようになっていた。僕がオレンジ色の生地を切っていると河本さんは板に巻かれているが折られてない生地を持って来て台の上に置いた。その生地の名前がキルトであると河本さんは教えてくれた。厚みがあり、糸で格子状に縫い目があり、綿みたいなのが入っているのかなと僕は思った。どこかで見たことのあるような生地だった。僕はこの生地をどこかで見たことがあった。それでもそれをどこで見たのか全く思い出すことは出来なかった。河本さんが、次にこれを切ってごらんと言った。僕は先ほどのオレンジの生地と同じように切ろうとした。しかしハサミは滑らなかった。キルトは綿を表地と裏地で挟んでミシンで塗っているからしっかりとチョキチョキ切らないと切れないよと教えてくれた。僕は慎重に真っ直ぐになるように気を付けて初めてキルトを切った。二つ折りにされたS幅のオレンジ色の生地よりも長さがあったので僕はハサミをチョキチョキと動かしながらハサミを持った右手を前に伸ばしていった。右手を精一杯伸ばせるところまで伸ばしても最後まで届かずに切れなかった。僕は途中でハサミを腰のホルダーに仕舞ってから、切りかけのキルトを手前に引っ張った。するとキルトを巻いている板ごとキルトが台から落ちそうになった。キルトが台から落ちないように気を付けて僕はキルトを最後まで切った。河本さんは僕が切ったキルトを持って、エプロンのポケットからホッチキスを取り出し、僕の切ったキルトに丁寧に織り目を点けてホッチキスで留めていき、最後に袋状になったキルトを丁寧に裏返した。僕はそれを見て驚いた。僕が切ったキルトがバックになった。キルトはこうやって使ったりすることも出来ると河本さんは言った。それから河本さんがキルトの切り方を実際にやってみてくれた。河本さんはモデルのような足を大きく開いて姿勢を低くした。そして三本の指でキルトを抑え、チョキチョキ切りながら同時に少しずつキルトを掴んでいる三本指の左手を手前に引きながら切った。そして右手が伸び切った瞬間に素早く左手の三本指を切ったところまで移動させ正確にキルトを三本指で押さえ、再びハサミをチョキチョキと動かし、キルトを台から落とさずに切り終えた。幅の長い生地は足を広げて姿勢を低くして切りながら手前に引っ張ってやればいいと河本さんは教えてくれた。そして、小沢君は男の子だから背が高いし、足も長いから低い姿勢をとるのは大変だよと言った。確かに僕は最初にキルトを切った時に姿勢を低くすることなど意識もしなかった。生地を切る台はちょうど僕の腰の高さぐらいだった。僕は上半身だけでキルトを切ろうとしていたのだった。河本さんに教えてもらったように僕は足を広げて姿勢を低くすることと、切りながらキルトを手前に引っ張ってやることを意識して目線だけはあそこに向かって切れば真っ直ぐに切れると思いながら切り始めた部分の対角になる部分を目指してハサミをチョキチョキと動かした。さっきとは感覚が全然違った。河本さんの様に途中で三本指を一瞬で動かすことは出来なかったけれど僕は時間をかけながらキルトを切った。それでもキルトは真っ直ぐには切れなかった。河本さんが切ったキルトは美しいまっすぐだった。僕の切ったキルトは美しくない。河本さんは、この店では生地は十センチ単位で売っているからお客さんに言われた長さで切らないといけないのでお客さんに言われた長さより五センチほど長めに切るようにしていると教えてくれた。僕はなるほどと思った。河本さんが切った生地を買うお客さんは確実に得した気分になる。河本さんは生地を美しい真っ直ぐで切るから。僕の切る生地は五センチのおまけを台無しにしてしまうのではないかと思った。河本さんは新しい生地を台の上に置いた。表面がキラキラと光っている生地だった。この生地はサテンというと河本さんが教えてくれた。僕は言われたことが覚えきれなくなったのでジーパンの中に入れておいたメモ帳とボールペンを取り出した。僕はメモ帳に平仮名で、綿、ポリエステル、それが混じったもの、バックが作れるキルト、光っているサテンと書いた。メモを取っている僕を河本さんはすごく褒めてくれた。僕はアルバイトをする時に分からないことは必ずメモを取る習慣があった。それが僕の当たり前だった。河本さんは、メモを取る子なんて今までいなかったと言った。僕は、メモを取らないと教えられたことを覚えることが出来ないからと言った。サテンは筒状の丸い棒に巻かれていた。よく見たらその棒は固い段ボールみたいなものだった。それにしてもサテンはすごくキラキラと光っていた。触ってみると見た目通りつやつやで触り心地がとてもよかった。河本さんが、このサテンはポリエステル百パーセントだと教えてくれた。また、綿のサテンもあると教えてくれた。サテンもキルトと同じで最初に切ったオレンジ色の生地と違って折っておらずに長いまま巻かれていた。河本さんに言われて僕はサテンも初めて切ってみた。ハサミをチョキチョキしなくても最初に切ったオレンジ色の生地と同じようにハサミを滑らせるだけでサテンは切ることが出来た。それでも長いので僕はサテンを手前に引っ張りながらハサミを滑らせた。姿勢を低くして、キルトを切る時と同じように右腕が伸び切ったら三本指を移動させてサテンを掴み、最後までハサミを滑らせた。切ったサテンを広げてみると曲がっていた。河本さんは慣れればすぐにきれいな真っ直ぐで切れるようになると僕に言った。他にも伸びるサテンや裏地がサテンのもの、柄の入ったサテンもあると教えてくれた。僕はメモに教えてくれたことを書いていった。

 糸井さんが河本さんに、エンポに行きますと言った。僕はエンポとは何のことだろうと思った。河本さんが小さい声で、エンポとはトイレのことでお客さんの前ではトイレに行くとは言えないから秘密の暗号としてエンポと言う言葉を使っていると教えてくれた。僕はメモ帳にエンポはトイレと書いた。


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