第29話

 とにかくホームズには新人が入ってきてはすぐに辞めていく奴が多かった。福地さんと山本さんが立ち上げたホームズで一番芸歴が長い人がキューピーさんだった。次に長いレントゲンはホームズに入ってまだ四か月と聞いた。二か月もたない奴が多いと聞いた。実際、ライブに出演した昆布さんもすぐに辞めていった。ピン芸人として昆布さんは面白かった。揺れに拘った芸風で、

「満員電車揺れ」

「正常位揺れ」

「神宮球場揺れ」

「座布団十枚揺れ」

 数えきれない揺れを体で表現した。

「金が無いのに月二万払っている価値がない。いても胸糞悪い」

 ボキャブラの予選の話も聞いただけで実際にそれを証明された人間がいないから。月に二万円払って得るものはこれと言ってない。事務所ではほとんどの時間、福地さんを中心に世間話。その世間話をする際にも団員の中では「笑わんぞ」と言う空気が。コンビやトリオなどは笑いの空気を作ったが、ピン芸人は下手なことは言えない空気だった。作ったネタを持っていけば福地さんと山本さんに見てもらえるが、全く笑わず、無表情で淡々とダメ出しを繰り返される。

「それ、前に誰かがやってた。見たことある。全然おもんない」

 もちろん雄一も虎視眈々とボケを考えるがそれを口に出来ない。たった一回のすべりを恐れてしまう。それでもたまにさらりとボケる福地さんとそのボケをすぐに拾う山本さんのツッコミはキレキレだった。笑いの方向性。一度、福地さんがボケっぽいことを言ったが山本さんがツッコまずに流したことがあった。団員の誰も笑わなかった。福地さんのボケに気付いてない。しかし、雄一の笑いのツボにはまりその時、その場でただ一人、雄一は笑ってしまった。次の瞬間、福地さんが二秒ほど雄一を見つめた。

「お前らとにかく笑いをとれ」

 そう言って、福地さんはその日事務所にいる団員をいろんなところへ連れて行った。公園で野球をしたり、新宿駅で急ぎ足で歩く人たち相手にボケたり。雄一も笑いを取るというよりも、常に必死でやった。笑いを取る楽しさなどない。常に追い込まれていた。野球をやった時は外野を守った雄一はゴムボールをくるくるその場で回転して砲丸投げで二メートルの返球をした。誰もツッコまない。新宿駅から出てきた女子大生のグループにナンパもしたことのない雄一は声を掛けた。

「すいませーん。NHKですけど。『今どきの女子大生の乱れた性』って番組ですけど少しだけインタビューいいですか?」

「え、何々?テレビ?」

 しかしマイクもないし、カメラマンもいない。すぐに嘘とバレる。

「ごめんねー、ブスー。そしてブス」

 女子大生の罵声を浴びながら逃げる。

 時には黒沢さんやインド人さんや大月さんらピン芸人の先輩とコンビになってやったが後で必ず否定される。

「全然おもんないし、意味が分らん」

 比較的、優しい方だったインド人さんまで優しく言った。

「なんとなくやりたいことは分かるけど、違うと思う」

 もう、何が面白くて何が面白くないのか雄一には分からない。

 ライブ前のチケット売りもみんなが組んでやる中、雄一は一人で売った。

「歩いてる人に面白いことを言って笑わせてチケットを買ってもらえ」

 福地さんの声で歌舞伎町に飛び出す団員達。一枚千円の無名のお笑い劇団のチケット。一人ノルマ二十枚。売れ残れば自腹買い取り。雄一は待ち合わせで人を待っているであろう若い女性を狙った。特に二人組。一人なら怖がられる。三人以上なら面倒くさい。二人組なら怖がられないし、話も聞いてくれる。そして売れると一気に二枚売れるから。

「すいませーん。お笑い芸人のとりあえず西山です。今からギャグやります。笑ったらうちのライブのチケット買ってください」

「え、何々?お笑い芸人の人?笑ったらやね。面白くなかったら買わんでええんやね」

「いや、僕はもう、めっちゃおもろいから。そやねえ、君らぐらいやったら、首の動きだけで笑わせられるから。首の上しか使わんから」

 そう言って雄一は腕を組む。

「テニス」

 そう言って、首を左右に振る。

「卓球」

 さらに早く首を振る。

「セルゲームで悟空とセルの動きを追うベジータ」

 高速で顔を上下左右する。

「何それぇー」

 十回やって一回笑ってもらえればいい方だ。タイミングが悪いと待ち合わせ相手の男たちと鉢合わせになり因縁も付けられる。

「おい、人の女に何声かけてんのや!」

「あ、お兄さんも一枚いかがですか?」

見かねたインド人さんが雄一に言ってきた。

「とりあえず西山君。やり方が下手だよ。やり方教えるから一緒についておいで」

 そう言ってインド人さんが二人組の若い女に声を掛けた。どんな笑いをとるのだろう?

「こんにちは!お笑い芸人のインド人です!」

「何々?お笑い芸人の人?インド人って、全然日本人やん」

「今日は僕らの今度やるライブのチケットを売ってます。買ってくれたら特別に僕か彼とどちらか好きな方の芸人とポラロイド写真を一緒に撮って、それに直筆サインを書いてプレゼントするよ」

「え、本当に!」

 あっさりと千円のチケットを買う二人組。しかも「彼」とは自分のことだ。雄一には意味がさっぱり分からない。しかし、現実として目の前でインド人さんがあっさりと二枚のチケットを売った。

「お笑い芸人とツーショット写真に直筆サインって言葉はすごく強いからね」

 チケットが売れない奴は辞めていき、残った奴はとりあえず売る方法を知っていた。

 相変わらず団員とも馴染めず、重たい空気を感じていた雄一だったが事務所には嫌々ながら通った。ライブには出してもらえることもなかったがあるライブでトリオの『阿修羅』からエキストラで一言だけ自分らのコントに出て欲しいとお願いされた。ひょんなところから初のライブ出演が決まった雄一。『阿修羅』からは途中で一言だけ「江本先生、お電話が入ってます」と袖から入ってきて言ってくれと頼まれた。本番で頼まれたように一瞬だけ舞台に現れ、そのセリフを言って舞台から掃けた。ライブ直後に雄一は『阿修羅』のメンバーに切れられた。

「お前の一言で完全に空気ワルなったやないか!」

「ちゃんとやれや!ボケが!」

「お前、わしらの足引っ張るなや!糞が!」

 他のメンバーもそれに乗る。

「あれはとりあえず西山の声が悪かったな」

「とりあえず西山はやる気あるんか?」

「あいつ最悪やな」

 雄一には意味が全く分からない。一つだけ分かっていることはこの劇団では潰し合いしかない。自分ら以外を肯定する人間はほとんどいない。それなら自分も絶対に他の奴のボケでは笑わない。劇団内での空気が最悪なのは事実だった。

 それから半年近くの時が経った。

 『レントゲン』は解散し、ツッコミの桜田さんは残り、ボケの小山さんは辞めた。『チューリップ』は残った。三人で重なり、アシュラマンのように手を六本揺らし「阿修羅!」のブリッジでネタをやっていた『阿修羅』も辞めた。黒沢さんとインド人さんと大月さんも辞めた。『社会の窓』は解散し、ツッコミの遠藤君が残り、ボケの真中君が辞めた。後輩もたくさん入ってきて、たくさん辞めていった。雄一は残った。事務所の空気は相変わらず。半年の時間があったのにもかかわらず、雄一はホームズに入ってからたった一度も笑いをとったことがない。そんなある日、一人の男から声を掛けられた。

「とりあえず西山君。俺と組まないか?」

 解散したばかりの『社会の窓』のツッコミ、遠藤君だった。

 暗闇、どちらが前でどちらが後ろかも分からない暗黒。どこまでも果てしない闇。そこに初めて灯りが見えた。

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