メリーゴーラウンド

 その日の夜。自宅の勉強机で数学の問題集を解いていると、かおちゃんからLINEが届いた。


『あの遊園地のことだけど』


『たまにメリーゴーラウンドが動いてるの知ってる?』


 僕はメッセージを3回読み返した。はっきり言って、彼女が何を言っているのかよくわからなかった。


「知らない。マジで動くの?」


 僕はそう返した。返事はすぐに届いた。


『時々馬の位置が変わってる』


 あんな遊園地の遊具を、わざわざ動かすなんてことがあるのだろうか、と僕は考えた。電気代なんか相当かかるんじゃないか? そうしなければいけない、なにか合理的な理由があるのだろうか。


「今度動いてたら教えてよ」


 僕はそう返事をした。かおちゃんを疑ったわけではなかった。ただ、僕も動いているのを見たい、と思った。


『わかった』


 彼女からの返事は短く、簡単なものだった。




 予備校の窓から遊園地を見下ろす僕に、かおちゃんが声をかけてきたのは、それから3日ほど後のことだった。


「ほら。馬、動いてるよ」


 彼女はそう言って、細い指を窓の外に向けた。


「あそこの破れてるところ、よく見てね。前から白馬、ピンクの馬、馬車って続いてるでしょ。あれね、昨日は馬車が見えてなくって、白馬の前にいたミントグリーンの馬のしっぽと後ろ脚が見えてたんだ」


 僕は彼女の言う方向を眺めた。確かに順番は彼女がたった今言った通りだ。ただ、昨日と比べてどうかと言われると……僕には記憶がなかった。


「よくわかんないなぁ」


 正直に答えると、かおちゃんは唇を尖らせた。


「動いてるって! 私、音楽も聞いたことあるよ」


 そう言うと彼女は、「ふーんふーんふふー」と鼻歌を歌い始めた。澄んだ、かわいらしい歌声だった。僕はその曲が、姉が昔よくピアノで弾いていた、ワルトトイフェルの『スケーターズワルツ』という曲だと気づいた。


「それ、スケーターズワルツって曲じゃないかな。たぶん」


「そうなの? 詳しいね。そうか、お姉さん、ピアノやってたもんね」


「もうやめちゃったけどね。姉ちゃん、東京の大学行ったから」


「何大?」


「〇大」


「すげぇ」かおちゃんは男みたいに言った。


「昔から頭よかったもんね」


「おかげで比べられちゃって困るよ。俺みたいな凡人にゃ、〇大は無理だね」


「あのお姉さんと比べられちゃたまんないね」


 かおちゃんはそう言ってくれた。僕の心の台詞そのままだった。


 僕の4歳上の姉は、昔から優秀な人だった。


 僕と同じ高校に入ったのに、塾にも行かず、在校中3年間の放課後を演劇部の活動に燃やしていた。なのに成績はいつもトップだったのだ。


 いつも自分のことで忙しい姉は、あえて僕を見下したりしなかったが、周りはそうではなかった。両親や親戚、学校の先生、同級生……彼らは一体どういうつもりで「賢介と智花は出来が違うから」とか、「土屋の姉ちゃんは凄かったけどな」とか言うのだろう。どうして、僕をあえて傷つけようとするのだろう。


 僕は姉が上京して、めったに帰ってこないことを喜んでいた。あの姉がいる限り、僕は息苦しい世界を余計に苦しく、酸欠の魚が泳ぐように渡っていかなければならないのだ。


 姉本人はまったく悪くないのに、姉のせいで。


「……かおちゃんは、なんで夏期講習に来たの?」


 僕はばかみたいな質問を、かおちゃんに投げかけた。


「なんでって、授業わかんないからじゃん。名門私立なんて行くもんじゃないね。あーあ、私も公立がよかったのになー」


 彼女は笑った。人間、楽しくないときにも笑うんだなと僕に実感をもって教えてくれたのは、今思えばこの時の笑いだった。


「ごめん」


「なんでケンくんが謝るんだよー」


 そう言いながら、かおちゃんは僕の右ひじの痛くないところを抓った。


「ほら、遊園地見よ。馬の配置覚えようよ」


「あー、写真に撮れたらなぁ」


「缶詰中はスマホ没収だもんね」


 僕たちはメリーゴーラウンドを見下ろしながら、そんな話をした。




 夏期講習が始まって2週間が過ぎたころから、僕は夢を見るようになった。


 それはあの潰れた遊園地の、ボロボロのメリーゴーラウンドに乗って、ぐるぐる回る夢だった。


 あちこち塗装の剥がれた白馬に乗って上下に揺られながら、僕は目の前を行くミントグリーンの馬に、かおちゃんが乗っているのを見た。


「かおちゃーん」


 僕の声はいつも、大音量の『スケーターズワルツ』にかき消されてしまう。でも僕は、何とか彼女を振り向かせないとまずい気がして、何度もかおちゃんを呼ぶのだった。


「最近、遊園地の夢を見るよ」


 かおちゃんにそうLINEを送ると、『私も』と返ってきた。

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