【1】

―― 俺はまだ信じられなかった。




 言葉では理解していても頭の中では何かが霞んだようになって、一瞬にして考えが止まってしまうのだ。


「…あの、」


 どこからか自分を呼ぶ声が聞こえる気がするのに、俺の体はそれに反応するのが鈍くなっている。俺は今、どこにいるんだろうか。


「あの!すいません!」


 バシッという何かを叩く音がして、白かった視界が急にクリアになった。カウンター越しにとても不振そうな顔をした中年の女性が、手にした商品の雑誌を丸めて俺の顔を覗き込んでいた。


「ちょっと、ちゃんとお会計してよねッ」


 何、ボーっとつっ立てんの、とブツブツ言いながら小銭を乱暴に置いた。俺はハッとなり、反射的に“いらっしゃいませ”と大声を出していた。



 先月。今度こそ最後だ、と思って受けたアパレルメーカー会社の面接に落ちたとき、俺は憑き物が落ちたように必死になっていた就職活動をやめた。

 それからは、実家から徒歩15分の場所にあるコンビニでバイトをしている。親は、最後の希望からも見捨てられた息子に、もう何も言わなくなった。

 俺は毎日同じことの繰り返しで今を生きている最中だった。そんな中、俺のもとに一通の葉書が届いた。


一裕かずひろ、大変なお知らせよ。」


 早朝から九時間余りの労働から帰った俺に、母のマサ子が一目散で駆け寄ってきた。パートから帰ったばかりなのか、俺が何度も『ダサいからやめろ』と忠告した蛍光の黄色いジャンパーを着ていた。


「…何、どうかしたの。」


 溜め息混じりに靴を脱いで玄関を上がろうとした。バイト一人が無断欠勤したので休憩もろくに取れなかった俺は、とりあえず早急に休息をしたかったのだ。


「コレ!こんな知らせが来たのッ」


マサ子は少し取り乱したように俺の襟首を片手で掴むと、目の前の一枚の葉書を突きつけた。

 

俺はそれから時々頭の中が真っ白になるようになったのだ。


 子供のとき、俺は観覧車が好きだった。正確に言えば十二歳の夏、最初で最後に一人で乗ったあの遊園地の観覧車が、である。だからアレを隠すにはここしかないと思い込み、その通りにしたのだ。


 今でもあの日のことは覚えていた。暑い、暑い、眩しい夏。色の濃い緑に囲まれた空間。大好きだったあの場所。

 青いキャップに白いTシャツ。紺色の短パン。一人の少年の後姿が目に浮かぶ。俺たちの目の前には、お城にあるような派手な門とアーチ。顔を上げればやたらと大きく目立つ観覧車。周りは木で埋め尽くされ、蝉の声だけが大音量で響いていた。


 ふと、俺は一回りも小さくなった自分の右手が、アルミ製の玩具の缶をもっていることに気づく。青いキャップを被った少年の日に焼けた黒い手にも同じようなものが見受けられる。俺は何かを少年に向かって叫んだ。

 出なかった筈の俺の声にハッとした少年はゆっくりと後ろを振り向く。それまで少年で遮られていた太陽の光が、一瞬にして俺の目を眩ませた。



続く

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