8:百目鬼・2

 そいつはワイシャツにスラックスだった。どちらもくしゃくしゃになり、所々が大きく膨らんで、黒く変色した血に染まっていた。

 両手と両足もやはり真っ黒い血にまみれていたが、人と形は変わらない。ただし、通常の倍以上の大きさに見えた。


『な、なんだあれ……人、なの? うそ!? 人が――マナモノ化した!?』

 片方にひびの入った眼鏡の奥では、ギラギラした見開いた目が小刻みに動いており、汗と血でどろどろになっている顔は、傷だらけだったが、まぎれもなく人のそれだった。巨大な手で頬を掻くと、新しい傷がぱっくりと開く。


「おいおい……本当に岸本きしもとじゃねえか」

 馬場が床から起き上がると、半笑いで銃を向ける。

「岸本本部長殿! とうとう頭がおかしくなられましたか!!」

 岸本は神経質そうな顔を馬場に向けると、口からだらりと真っ黒い液体を垂らした。

「馬ぁ場ぁ! お前も俺を馬鹿にするのかぁ!?」

 警官と自衛隊員は銃を岸本に向けた。

『馬場さん、こちらは?』

 大根田のマナ電話に馬場は半笑いになる。

「岸本栃木県警察本部長殿さ。簡単に言うと、働き者の無能だったが、最近ストーカーがどうのこうのと言っておられましてねぇ……」

 岸本は頭を抱えうずくまると、どいつもこいつもと嗚咽し始めた。


「どいつもこいつもどいつもこいつも、私が見ていないところで私を指さしてぇ悪口を言いまくるぅ! 私は身を粉にしてぇ働いているのに! どうしてぇ誰も私を尊敬しない! どうして無能共にぃ嘲られなければならんのだ!?」


「知らねぇよ。おい、岸本、これ、お前がやったんだな」

 馬場の冷たい声がエントランスに響いた。

 岸本は震える顔をゆっくり上げると、涙に濡れた顔で辺りを見回した。

「……そ、そうだ。私を馬鹿にぃしたからな。と、当然さ! 当然の報いさ!!」

「そうか」


 馬場は銃を発砲した。


『馬場さん!』

 大根田がマナ電話で叫び、矢羽野がびくりと肩を震わす。神部はとび口を構え腰を落としている。


 岸本はのけぞった。


 だが、ゆっくりと姿勢を戻していく。

 岸本の右頬に穴が開いていた。

 そこから真っ黒い液体が、だらだらと溢れ出る。

「な――なんだそれ……理性もあって――そんな、それじゃあ――」

 佐希子の困惑した声。大根田は腕に立った鳥肌に負けぬよう、小太刀に熱を込めた。


 ね『佐希子ちゃん! 落ち着いて! どうする!? 僕としては捕獲するべきだと思うけど!?』

 神部『捕まえてどうする? もう殺すなって諭すのか?』

 ヤ『つったって、一応人間だぞ。撃ち殺すわけにもいかねぇだろ』

 馬場『ふん、もう頭を撃ったがな。それで死なねえんじゃ、もう人間じゃねえ』

『いや――でも、その――』


「馬ぁ場ぁっ!」

 岸本は叫ぶや、走り出そうとし、床の血に滑った。

 馬場がすかさず二発三発と発砲する。警官隊の数名が続いて発砲する。

「少し離れて!」

 矢羽野の声に皆が一歩下がると、自衛隊員が小銃を発砲し始める。

 岸本は床に倒れたまま、銃弾にもんどりうつ。

「ひぃいいいいいっ、うひひ! うはははは! ははははひゃははははははははは!!!」

 しかし、笑いながら岸本は再び起き上がり始めた。

 銃撃がやんだ瞬間、神部が床を蹴った。そのまま数メートル飛び上がると、岸本の後ろからとび口を振り下ろす。

 だが――


 岸本は前を向いたまま、右手で後ろからの一撃を受け止めた。

 神部の目の前で、岸本の後頭部が縦に裂け、巨大な目が覗く。


 神部『こいつ、頭の後ろに目が――』


 神部はそのまま振り回され、床に叩きつけられた。寸前でとび口を手放したが、床に跳ね返り壁際まで滑っていく。

 岸本の顔の傷が膨らむと、無数の目が開き始める。

 大根田達が絶句する中、目達はぎょろぎょろと活発に動き出した。


「見える! 何もかも見えるぞ!! もう俺の見ていないところでぇ、俺に無礼を働くことは、もうできんぞぉ! もうできんできんんんっ!!」


 岸本の上半身がボキボキと音を立てながら膨らみ始めた。身にまとっていたものが裂け、瘤だらけの体が露になる。

「へはははは! い――いでぇ! いでぇええぇぇぇぇ! いでぇよぉおおおっ! からだじゅうがいでぇよぉぉ!!」


 岸本が付きだした両の掌にも、腕、そして太ももや下腹部、胸、背中にも巨大な目が幾つも開いた。

 そして、額の真ん中を突き破って、巨大な乳白色の角がせり出し始める。

 湾曲したそれは下に行くほどに太く、その圧力に負け、岸本の『元からあった目』が汚い音を立ててはじけ飛んだ。

「ぎゃぁぁああああああああっ!! お、おまえらぁ! みんなぁ! しねしねしねぇ!!」

 岸本はそう言って、襲い掛かってきた。


 腕の一振りで警官隊が吹き飛ばされ、床に転がる。矢羽野が再び銃を撃つ。だが、銃創は開くが岸本はひるまない。黒い液体を飛び散らせながら巨体に任せて床ごと彼を蹴り飛ばした。

 瓦礫と一緒に壁に叩きつけられ、矢羽野は血を吐く。

 馬場はソファーの陰に隠れながら、銃弾を打ちこんだ。太ももの目の一つが潰れるが、その傷口を破って――つまり目の中に新しい目が開き始めた。


 五十嵐は神部を外に運び出すと、大根田にマナ電話を繋ぐ。

『どうする、おっさん。逃げるのが最善手だが、人数が多すぎて無理だぞ、これ』

『……となれば……元は人間だから動きを抑えるだけに留めたいですけど……』

 佐希子が割り込んでくる。

『で、できれば、『原因』を聞いてくれない?』

 五十嵐はため息をついた。

『理性が残ってるように見えるか、あれ?』

 岸本は巨大な手で、警官の一人の足を掴み床に叩きつけた。嫌な音がして、血が飛び散る。

 大根田は飛び出した。

 熱を帯びた小太刀が、闇の中で赤い蛇のように残像を作る。

 岸本の右半身の目が一斉にそちらを見る。


「なんだぁ、おまえはぁっ!!!」


 岸本は警官を振りかぶると、大根田に叩きつけようとした。

 五十嵐は飛び出すと、ありったけのブーストをかけてとび口を岸本の腕に叩きこむ。がぁっという声をあげ、腕が止まった。


 空を舞う警官を大根田が抱き留める。


 すかさず五十嵐は岸本の腕にロープを巻き付けた。

「大人しくしやがれ!」

 幾つかの目が五十嵐を睨むや、猛烈な力で五十嵐は引きずられる。

「このっ……」

 五十嵐の能力と岸本の腕力が拮抗し、床がバキバキと割れた。

『阿部山さん! お願いします!』

 大根田の合図とともにガラスの割れる音がした。瞬間、岸本のロープの巻き付いた腕に大穴が開いた。

『西牧! 今だ!』

 だが、五十嵐の呼びかけに答えはない。

 ぎひいぃっと悲鳴を上げる岸本だったが、力を籠めるのは止めない。

 黒い液体が吹き出し、腕がちぎれた。

 五十嵐と岸本はお互いに尻もちをつく。


 大根田は小太刀を構えて突進する。

『阿部山さん、あと何発撃てますか!?』

『に、二発です! でも反動が凄くて、光村さんに抑えてもらったんですけど、二人とも転んじゃって足を挫いて――』


 そういえば、ホールで二つ頭を打ちぬいた時は、十勝ちゃんが重し替わりをしてたっけ。


 五十嵐は起き上がると、岸本に飛びついた。とび口を今度は右足の太もも、そこに開いた大きな目に叩き込む。ぎゅっと閉じられた目から黒い液体が噴き出した。

 岸本は残った手を五十嵐に振り下ろそうとした。だが、その手の真ん中の目に、大根田は体ごとぶつかって小太刀を突き刺そうとした。

「見えてるぞ、卑怯者が!」

 岸本は体を捻ると、大根田に頭突きをする。

 とっさに構えた小太刀で、巨大な角をいなす大根田。


 五十嵐は腕に力を込めた。

 岸本は太ももを深くえぐられたまま、足を持ち上げられ、バランスを崩し床に倒れた。


 大根田は、すかさず小太刀で巨大な手を床に突き刺した。悲鳴を上げ、身をよじる岸本。大根田は、床に転がったとび口を拾って熱を付与した。

「おい! おめぇはどうしてそんな姿になった!? 答えろ!!」

 五十嵐の怒声に合わせて大根田は、もう片方の太ももの目に灼熱のとび口を刺し込んだ。目が潰れ、岸本は悲鳴を上げ――やがて笑い出した。

 ぶじゅぶじゅと黒い液体を口から吐き出しながら、強引に体を起こそうとする。ブチブチという音を立てながら、床に縫い付けられた手と両太ももが裂けていく。


 こいつは――身体能力に頭が追い付ていないんだ。

 いや、というよりももう正常に思考することもできていないんだ。


『……佐希子ちゃん。これはダメだ』

『う、うん、あたしも、もう駄目だと思いますです! これはもう正気を失って――』

 じゅゆるじゅると岸本の傷口から、ミミズのような細い触手が黒い液体にまみれて何本も飛び出してきた。

 すかさず跳び退った五十嵐。だが、大根田は右足をがっちりと掴まれてしまった。


「この――」

 大根田は瓦礫の間に転がっている曲がった鉄筋を両手に一本ずつ掴むと、それを灼熱化させ岸本の胴体の目に突き立てた。

 肉の焦げる臭いと、悲鳴。傷口から立ち込める酷い臭い。


 岸本は再び、大根田に頭突きを見舞った。


 触手はすでに足の自由を奪い、使えるのは両腕だけ。力は自分の方が強いのだから、例え受け止められても、ごり押しで殺せる。

 岸本は本能でそう判断した。


 そしてそれが敗因になった。


 大根田はのけぞりながら角を両手でしっかりと掴むと、それに熱を付与した。

 何が起きたのか、全く判らないうちに岸本の脳は焼かれた。角が外からの致命的なダメージを防ぐように脳をカバーしていた所為である。

 だが、それでも最後の力で大根田を絞め殺そうと、触手は絡みつき、力を籠める。

「大根田さん! 皆さん! 目を瞑ってください!!」

 岸本の体中の目が、その声に反応した。


 そちらを『見てしまった』。


 そこには服を脱ぎ棄て、パンツ一丁になった光村がいた。

「はああああぁっ!!」

 気合の入った掛け声とともに繰り出されたサイドチェスト、横を向いて胸の厚さを強調するポージングと共に、光村の体が光り輝いた。

 あまりの眩しさに、岸本は全ての目を閉じ、人間の時の本能により触手で目を覆おうとした。

 大根田はその機を逃さず触手を振りほどき、距離を取る。


 その横で片手を掲げた一人の男。


「西牧! やれっ!!」

 五十嵐の叫びに、西牧は半泣きになりながら手を振り下ろした。

 岸本は上から突風のような衝撃が襲ってくるのを感じた。

 全ての肉が、目が、触手が一瞬で押しつぶされる。

 角が衝撃波を防いだのか、背骨に沿って体の芯が頑丈だったのか、ともかく岸本はぐちゃぐちゃになった肉の塊の真ん中にゆらゆらと立つ脊髄と頭だけになった。


 そしてその頭は、阿部山の二発の水鉄砲によって吹き飛ばされたのだった。

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