第2話
俺はベンチに座って、じいちゃんばちゃんと笑いながらしゃべっていた。空は雲もすべて掃き捨てて、何一つ不自由のない空だった。
「あなた、もっと可愛い服着てもいいんじゃない、女の子なんだから」
ハッピーのお母さんにそう言われたとき、胸にわだかまりができた。
俺の服はジェンダーの形だ。かわいらしい服なんて着たくない。
「ありがとう、おばさん」
そういうとおばさんは照れたように顔を傾けて、別にいいわよ私細かいから、とほほに手を当てた。急に太陽の光がうっとおしく感じて、しばらくだまっていた。帰りに鳥にえさを与えているおばさんを見て声をかけようとしたが、口をつぐんだ。
今晩、明日のことを考えていた。楽しみにしていた日のことも、急に憂鬱になってきて俺は枕に頭を乗せた。おばさんは何も悪くない、ただ俺のことを少し思って言ってくれただけのことだ。
朝はやけに頭が重かった。枕から顔を持ち上げて、窓から差し込む光を細目に見る。カレンダーには丸がついていた。髪を洗ってついでに顔を洗う。全身をタオルで拭いて首にかけ、冷蔵庫に入れておいた牛乳を口から流し込んだ。
クローゼットからワイドパンツと柄シャツを取り出して鏡の前できてみる。いつもは似合うと思っていたこの姿も今日は自信がない。ぼうと鏡を眺めていたら、パソコンの通知音が鳴った。見てみると丸田からだった。今日の待ち合わせ場所を教えただけの内容だったがそれだけで心が温まった。
「いつもの服着て来いよ」
「おう、ありがとう」
ことはどうやれ、いつもの俺の格好で行くしかなかったから最寄りの駅に着き、牛丼屋に入った。いつもの牛丼屋は店員のさわやかな接客と、新鮮なサラダに味のさっぱりとした牛丼で俺は昨日のことなんて忘れられそうだった。しめに冷たい水を飲み干して駅の前に戻る。スマホを見つめている丸田の姿があった。
「よお、丸田」
「よお、朝から牛丼か色気ねえな」
「悪いか」
俺は何かの感情をこめて丸田を見つめた。丸田は俺をしばらく見つめて、別にと笑った。胸に鋭いものが刺さった。
電車に乗り、中間の駅で乗り換え、金町駅で下りた。どこへ行くのかと思うと思いのほか歩く。その間ふざけあったり、くだらない話をしたり。ああ、これがデートってやつか。
はじめてデートというものを知った。
ついたのは土手だった。意外ではあったが、流れゆく景色を眺めていくうちに心持ち楽しくなってきた。昼間の河川敷、大きな犬が通る。バーニーズだ、横切るときに微笑むとくんくんと俺の匂いを嗅いできた。撫でてみるとなついてきて、一通りその人と話した後さようならをした 。
「気に入られてよかったな」
「別に」
歩く中で街頭がゆらゆらと揺らめいてきた。涙ではない。ライトの中の光が、俺の冷たかった心を灯しているのに俺はまだハッピーのお母さんの言葉が胸の中でナイフのように抜けない。
「お前今日はなんか変だぞ」
俺は立ち止った。丸田の目をまっすぐ見えない。どうしようもなかった。丸田は俺の目を見ている。
「何かあったなら言え」
「別に、何もないよ」
「そんなことないだろ」
「なんでお前なんかに」
うつむいてそれ以上、顔を上げられなかった。本当は言いたかった。俺は自分のことをほとんど人に言ってこなかった。でもほんとうはこのときを待っていた。
「俺、男に生まれたかった」
「どうして」
「そしたら、女の子らしい服着たほうがいいとか言われることないだろ?」
「そんなことないだろ」
どうしてと聞くと、丸田と目がようやく合った。
「俺、こんな顔だからさ。小さいころ姉ちゃんたちに女の服と書きさせられてたんだ」
ここで俺ははじめて彼に姉貴がいることを知った。俺はそこにたたずんでいた。生暖かい風が二人の間を通り過ぎた。俺はその話にだまって耳を傾けていた。
「だからさ、男だとか女だとか関係ないぜ。男だってかわいい服きたけりゃ勝手に着ていいんだ。女だってそうさ。性別なんて体だけの名前で、中身は同じ人間なんだ」
中身は同じ人間、と心の中で呟いてみた。かつてないぬくもりを感じた。
「ありがとう」
そんな言葉でしか返せなかった自分が情けなかったが、いい時間を過ごしたと思った。
丸田は家まで俺を送った。また会おうと言葉を交わし、マンションに入る。何度か後ろを見たが、まだ丸田はそこにいて軽く手を掲げて俺を見届けた。
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