白雪姫とドロシィ(6)
王城の空気はこの数日、どことなく重苦しい。主たる王が酷くっ気落ちしているのが理由の一つ。もう一つは、いつも口やかましい王妃の姿が見えないことだった。
侍女たちを筆頭に使用人や兵士たちに何かと口うるさく嫌味を言うことも多かった王妃は、決して城に出入りする人々に好かれていたわけではない。それでも、彼女の理不尽な物言いに振り回されるのはここで働く人々にとっては当たり前になっており、いざ静かになってみれば物寂しさも覚えるものだった。
加えて王の落ち込みようも酷い。
十七年前、産後の弱り目に体調を崩して最初の妻を亡くした。
十年前、王妃の命と引き換えに生まれた王女が失踪した。
そして数日前、二人目の妻が床に伏した。
病状は思わしくないらしく、呼びかけに答えることも難しいほどに衰弱しているという。当然お付きの医師の診察も受けたが、一体何の病なのか、その病名すらわからない上に、このままでは先は長くないだろうとのことだった。
二度も不意打ちのように家族を失ってきた王にとって、三度目を予感させる王妃の急病は絶望するに十分な事態といえた。
「はぁ……」
昼食について医者の指示を料理人に伝えて厨房を出た王妃お付きの初老の侍女は、廊下に人気がないのを確かめてから溜息を零した。
彼女は王城でも数少ない、王妃を嫌っていない使用人の代表格だった。王妃が城に住むようになってすぐの頃からずっと傍に仕えてきた。彼女の年齢からすれば娘と言っても過言ではないような年齢の王妃の傍に控え、彼女の嫉妬深い性格も、そのくせ娘に向ける眼差しがひどく優しいことも、厭世家で人間嫌いのくせに一人で部屋にいると寂しそうなことも、そんな時に部屋を訪ねると上機嫌が隠しきれない可愛らしいところも知っている。
それ故に白雪姫がいなくなる少し前に様子がおかしくなってからの王妃の言動に、彼女はずっと胸を痛めていた。いつか、元の不器用で優しい王妃に戻ってくれると信じて、ただ黙々と親子ほど歳の離れた若い王妃に仕えてきた。
だというのに、その結果が急病で受け答えも困難なほどに衰弱している現状だなんて、あまりにもやるせない。元来自分は忍耐強い方だと思っていた侍女も、流石に気が滅入る思いだった。
「こんな時に、姫様がいてくださったら……」
王妃の心を癒せるのはきっと愛娘の白雪姫しかいまい。言葉にできるほど具体的な根拠は何もないが、それでも侍女はそう確信していた。もっとも、白雪姫が失踪してから十年。その間何の音沙汰もないとあっては、白雪姫はもうどこかで亡くなってしまったのだろう。
王妃の心を癒せるのが白雪姫だけなら、もうあの頃の王妃に戻ることはないのだろうか。侍女はそんな憂鬱さを抱えながら見るともなしに廊下の窓から広い城下を見下ろす。王城の重苦しい空気とは対照的に、空は晴れ渡り、城下は遙か先まで建物の輪郭がハッキリと見えるほどだった。
「……おや?」
城下から城門へと視線を引き戻した侍女は、城門の辺りに人影を認めて首を傾げた。少女が二人、城門の兵士と何事か話している。活発そうな一人の少女が衛兵に身振り手振りでしきりに何か伝えているようだったが、侍女の目に留まったのはその少女に寄りかかるように頼りない様子で立っているもう一人の少女の方だった。
見覚えのない少女だったが、雪のように透き通った白い肌、血のように鮮やかな赤い唇、黒檀のような深い漆黒の髪はどれも侍女の記憶にある少女の特徴だった。
「そんな、まさか」
まさかまさか、ではある。しかしあの特徴的な容姿がそう何人もいるとは思えなかったし、仮にそうだとすれば年頃も一致する。
まさか。もしかして。そんな。でも、確かに。
相反する思考に頭をかき乱されながらも、侍女は城門に向かって駆け出していた。
* * *
「だーかーらっ、王妃さまに一目会わせて欲しいだけだって言ってるじゃない」
「王妃様は現在お体の具合が優れないのだ。何度言われても会わせる事はできん」
「もうっ。白雪姫さんが戻ってきたのよ! お母さんに会えないなんておかしいじゃない!」
「あ、あの、お願いします。お母様に」
「姫様は十年も前に行方不明になったんだ。君たちも知らないわけじゃないだろう」
「だからっ! その姫様がこの子だって言ってるじゃない!」
「はいはい、もうわかったから帰りなさい」
「うーっ!」
ドロシィがだんだんと地団太を踏む。白雪姫も何をどう伝えれば信じてもらえるのかわからず、もどかしそうに口を引き結んでいる。
「姫様!」
そこへ、メイド服を着た初老の女性が城内から飛び出してきた。
「姫様、白雪姫様なのですね!」
衛兵を押しのけて飛び出してきた侍女が、抱きつかんばかりの勢いで白雪姫の手を握り、かと思えば白雪姫をくるくる回して前進を確かめる。
「お怪我は? 病気などしていませんか? お顔色が優れませんね、すぐに医者を呼びますから、城内に入って安静になさっていただかないと」
さぁさぁと半ば引きずるようにして強引に白雪姫を城内に連れて行く侍女。呆気に取られる衛兵の脇をすり抜けて、ドロシィもその後に続いた。
「王妃様のところへご案内致します。病状は思わしくありませんが、姫様のお姿を見ればお元気になられるでしょう」
「え、ええ」
せかせかと歩く侍女に必死に着いていく二人だが、白雪姫の顔色はよくない。当たり前だ。母に会いに行くという願いを支えになんとか立ってはいるが、それは気力だけでここにいるに等しい。王妃も床に伏せっているらしいことは衛兵や侍女の口ぶりから二人も察していたが、本来は白雪姫も立って歩くのも厳しいほどに弱っているはずなのだ。
「あのー、もうちょっとゆっくり」
白雪姫を気遣ってそう言いかけたドロシィの手を白雪姫が握って静かに首を振る。
「いいんです。私も、早くお母様に会いたいですから」
「でも」
「そのために、来たんですから」
「……わかったよ」
ほどなくして二人は侍女の案内で王妃の私室にたどり着いた。
「失礼します」
ノックの後、侍女は返事を待たずに挨拶をして室内へ入っていった。もちろん、王妃が返事が出来る状況にないからだ。
三人が部屋に入っても、ベッドに横たわったまま王妃は動かない。微かに胸が上下しているが、それがなければ死んでいるのかと思ってしまうほどに身じろぎ一つしない。
「王妃様、姫様です。姫様がお戻りになりましたよ」
侍女が耳元で言うが、王妃は何の反応も示さない。その様子からは侍女の言葉が聞こえているのか、言葉の意味がわかっているのかもわからない。
一歩下がった侍女と入れ替わりに豪奢なベッドに歩み寄った白雪姫が、震える手を王妃の手に重ねる。
「……お母様」
呼びかけではなく、感慨のような、懐かしみのような呟きだった。ともすれば傍に立つ侍女やドロシィでさえ聴き逃してしまいそうな、囁くような、呟き。
そんな聞こえるかどうかすら怪しい声に、しかし王妃のまぶたがぴくりと動いた。
「マルガレー、タ」
乾いた唇が動く。白雪姫の囁きと同じように、聞こえるかどうかというほんの微かな声。しかしその声は確かに愛娘の耳に届いていた。
マルガレータ。それは白雪姫自身さえも忘れていた、彼女の名前。昔から姫様、白雪姫様とばかり呼ばれていた彼女が、王である父と、王妃である母にだけ呼ばれていた大切な名前。
今の今まで忘れていたその名前を呼ばれた途端、白雪姫、マルガレータの瞳には涙が滲む。
「はい、マルガレータはここにいますよ」
マルガレータが静かに、それでも先程までよりもハッキリした声音で応じると、王妃は何度かのまばたきの後、ゆっくりと自分の手を握る少女へと視線を向けた。
一瞬の空白。そして。
「マルガレータ!」
ベッドから転げ落ちそうな勢いで、王妃は飛び起きた。
「ああマルガレータ、本当にあなたなの?」
「はい、お母様」
マルガレータが頷く。王妃はしばし呆気にとられた様子で突然現れた娘を見つめていた。やがて王妃の頬に、一筋の涙が伝う。自分の手に重ねられた娘の手を、壊れ物を扱うような丁寧さで頬へ寄せ、その温かさを確かめるように押し当てた。
「ごめんなさいマルガレータ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
留まることのない涙を零しながら、王妃は何度もマルガレータに詫びる。それは追放をか、それとも殺意をか、嫉妬をか、あるいはもっと別の過ちをか。
やがてマルガレータの瞳に滲んでいた涙も溢れ出す。縋り付いくようにして咽び泣く母を、彼女は静かに抱きしめた。
事情の半分も理解できていないドロシィと、唐突な王妃の回復に呆ける侍女の前で、母娘はしばしの間泣き続けた。抱き合う手を、決して緩めないまま。
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