白雪姫とドロシィ(5)

「ん……」


「あ、目が覚めたのね!」


 うっすらと目を開けた白雪姫だったが、ドロシィの呼びかけに答えるまでに数秒かかった。ゆっくりと緩慢な動作で視線を動かし、ぼんやりしていた視線がドロシィの顔に焦点を結ぶ。


「どろ、しぃ」


 舌が回らないのか、呂律の怪しい調子で白雪姫がドロシィの名前を口にする。


 意識は戻ったが、白雪姫は酷い頭痛がしていたし、ベッドに横になっているにも関わらず視界もぐらぐらと揺れていた。歪に滲んだドロシィの顔に浮かんでいる表情が不安と心配だと理解するまで、白雪姫はたっぷり数十秒の時間を使った。


「気分はどうかしら? その、あまりいい状態じゃないのだけど」


 そうでしょうね、と白雪姫は声に出さずに頷く。頭がぼーっとして、吐き気に胸がむかむかする。しかし体調とは全く別の理由で、白雪姫はとても温かな気持ちが自分を満たしているのも感じていた。


 なんでしょうか、この温かい気持ち。なんだかとても、素敵なことがあった気がするのですけど。


 白雪姫が必死に記憶の糸を手繰っている間、ドロシィは魔法の靴と小人たちの話からわかった白雪姫の状態を話して聞かせる。朦朧とした頭で、しかも記憶を手繰るのに必死だった白雪姫はその半分も理解できなかったが、どうやら何かの毒が原因で自分の体が衰弱しているらしいこと、このままでは死んでしまうらしいことは理解できた。


 そして同時に、心に浮かぶ温かさの正体にも思い至った。


「あの、ドロシィ」


「うん」


「とても、素敵なことが、あったのです」


「へ?」


 脈絡のない言葉にドロシィも一瞬焦りを忘れる。


「お母様に、お会いできたのです、よ」


「お母様って……」


 白雪姫さんのことを突然追い出したっていう、あの?


 一体それのどこが素敵なんだろうとドロシィは不思議がるが、毒のせいでどこか虚ろだった白雪姫の瞳にかすかにだが光が戻っていた。それは白雪姫にとって、確かに素敵なことだったらしい。


「えっと、夢でも見たのかな?」


「夢……? いいえ、夢では、ありません。お母様が、リンゴを、くださったのです」


「リンゴって」


「よもや、あの毒リンゴのことでしょうか」


 ドロシィと魔法の靴が思わず呟くと白雪姫はゆっくりと頷いた。


「そんな! 毒リンゴを食べさせるなんて酷いじゃない! なにも素敵なんかじゃないわ! 待っててね白雪姫さん、いまからわたしがお城に行って懲らしめて――」


 本当にそのまま飛び出していこうとするドロシィの手を、弱々しい白雪姫の手がつなぎとめた。白雪姫はゆっくりと首を横に振る。


「いいの、です。いいのです、よ」


「よくないわ! ちっともよくない。だってそんな、お母さんがあなたを、なんて、そんなの……」


 残酷とも、非道とも、悲劇とも言えるだろう。白雪姫自身、そう思う。追放だけでも悲しいのに、殺そうとするほどに継母は自分を憎んでいるのだと、その事実を思えば涙が滲む。だけど、それでも。


「もう、十年に、なります」


 突然城を追われてから、十年。


「お母様はもう、私のことなど、忘れてしまった、と」


 厳しくも優しかった義理の母。誰に対しても厳しく、何より自分自身に一番厳しかった。


 決して良い生まれとはいえない身の上で、王宮で恥ずかしくないように自分を磨き続けた努力家の母。血は繋がっていなくても、態度は素っ気なくとも、自分を娘と呼んで、頭をなでてくれた、たった一人の母。


 もう二度と会えないと思っていた彼女に、会うことが出来た。それが例え自分を騙し、その手にかけるためのものだったとしても、私の前で笑ってくれた。


 ああ、それはなんて。

 なんて幸せな、ことだろうか。


「覚えていて、くださったのです。私に、笑いかけて、くれたのです」


 白雪姫は微笑む。ドロシィの目に、その微笑はこの上なく幸福そうに見えた。


「そんな、そんなの」


 悲しすぎる。王妃の娘への想いはどうしようもないほどに冷え切っているし、白雪姫の母への愛はあまりにも一途過ぎて、とうの昔に破綻している。


 憎しみも、愛情も、どちらも相手に届かず、どこまでも一つのまま。


 そして今や、白雪姫の命は消えかかっている。どこまでも一つのまま、決して通じ合わないまま、終わってしまう。


「そんなの――ぜっっっっったいにダメなんだから!」


 言うが早いかドロシィは白雪姫の弱々しい手を両手で握り返す。


「白雪姫さん、ちょっと我慢してね」


「……え?」


「靴さん!」


「はい、どうぞ踵を」


 三度、踵の鳴る音がする。

 次の瞬間、ドロシィと白雪姫の姿はふっと掻き消えた。


「白雪姫が消えたよ」


「お客さんも消えたよ」


「二人とも消えてしまった」


「見るものがなくなってしまった」


「お仕事がなくなった」


「アリスの命令はなくなった?」


「きっとなくなった。なくなったよ」


 ふっと、小人たちの姿が消える。そして小人と白雪姫が十年暮らした小屋も消える。まるで初めから、そこには何も無かったかのように。

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