白雪姫とドロシィ
白雪姫とドロシィ(1)
―――――――――
不思議な不思議な、ほんとの鏡。
なんでも答えるほんとの鏡。
あの人の望みも、あの子の秘密も、あなたの心も。
答えはぜーんぶ鏡の中に。
あなたが映る、鏡の中に。
答えはぜーんぶ鏡の中に。
―――――――――
「それじゃあお掃除して」
「お洗濯して」
「薪を割って」
「お料理して」
「繕い物をして」
「縫い物もして」
「何もかもきちんと、綺麗にして!」
一言ずつ、まるで全員が一つの意思を小分けにしているように似通った所作で順繰りに口を開いては扉から出ていく小さな人たち。
全員が同じように白い髪と髭をたくわえ、赤らびた頬と張り出したお腹を揺らす彼らを一人で見送る少女は、にっこりとその美しい顔で微笑んだ。
「はい、みなさん。いってらっしゃい」
『いってきまーす!』
七人の奇妙に甲高い声が重なったのを最後に、音を立てて扉が閉じた。
「……ふぅ」
少女は七人がいる間は決して見せることのなかった憂鬱そうな表情でため息をつく。それは決して深いものではなく、だけどそれが故に、彼女がすっかりため息に慣れてしまっていることの証左だった。
少女の名前は白雪姫。本当の名前はもっと長くて愛らしいものだった気がするけれど、それがどんな名前だったか、もう彼女自身も忘れてしまった。
白雪姫と、その名前で呼ばれて、その名前でしか呼ばれなくなって十年近くが過ぎてしまった。いまさら本当の名前なんて、何の意味も持たない。
「さて、今日は何から始めましょう」
美しい白雪姫がそう言って小首をかしげた時だった。
どぉん!
家の奥で何か重いものが落ちるような音がして、白雪姫はびくっと身をすくませた。
「な、なんでしょう……」
音が聞こえた部屋は小人たちの寝室だった。彼らが好き勝手散らかすものだから、色々と物は散乱しているけれど、あんな重い音を立てるような大きなものは置いてなかったはず。それに白雪姫以外の住人はたったいま全員が出ていったばかりだ。
白雪姫は恐る恐る、奥の部屋の扉に手をかける。少しだけ躊躇ったが、小人たちとの「契約」を果たすにはこの部屋を開けないわけにはいかない。勇気を振り絞って戸を開けた。
「……痛ったーい」
見知らぬ少女が、小人のベッド二つを占拠するように座り込んで腰をさすっていた。
「あ、お邪魔してまーす」
白雪姫の姿を認めた少女が、あっけらかんと片手を上げて挨拶する。そのあまりに悪びれない様子から物盗りの類ではなさそうだ、と思ったものの、そもそも物盗りすら滅多なことではやってこないだろう森の奥の小人の家に突然現れた少女の不審さは拭えない。
「ドロシィ様、早めに説明しませんと相当怪しまれていますぞ」
白雪姫が固まっていると、少女のものではない別の声が聞こえてきた。慌てて白雪姫が周囲を見回すが、ドロシィと呼ばれた少女以外に部屋の中に人の気配はない。
「あの、貴女は一体……」
ようやく絞り出した白雪姫の言葉は、そんなありきたりな、だけど他に言いようのない疑問だった。その疑問に、少女はニパッと花が咲くように快活に笑って答える。
「わたしドロシィ! あなたはだぁれ?」
* * *
「鏡よ鏡、この世界で一番美しいのは誰?」
『それは白雪姫です』
「……っ」
薄暗い部屋、窓から差し込む月明かりの中で、歯を噛み砕かんばかりにキツく噛み締めた女性は、感情のままに自分を映す鏡を叩き割ろうとして、寸前で踏みとどまった。
女性は美しく整った容貌を憎々しげに歪めて鏡を睨みつけたが、結局それ以上鏡に何かをすることも、先程のように問いかけることもせず上質な埃よけの布で鏡を覆うと豪奢なベッドに潜り込んだ。
「白雪姫……あの子さえ、あの子さえいなければ」
女性はうわ言のようにぶつぶつと呟く。憎悪。その一色にあまりに染まりきった声音は、彼女の途方もない憎しみをこれ以上ないほどに表わしている。異常なほど純粋な憎悪は、彼女の他の勘定全てを殺して出来上がった、いまや彼女そのものだ。
「あの子さえ……あの子、さえ……」
徐々に意識が薄れ、微睡みに沈んでいく中で、彼女は憎しみを唱え続ける。
鏡にかかった埃よけの布はいつの間にか床に落ち、目を閉じた彼女の姿を覗き見るように、鏡はその寝姿を写し取っていた。
* * *
「ふーん……なんだかとても大変なのね」
「そうでもありませんよ。この家には温かい布団と生きるのに十分な食べ物があって、私は遠慮なくそれを使えるのですから。誰に妬まれることも、憎まれることもなく暮らしていける。それだけで私は幸せなのです」
小人用の小さなテーブル(ドロシィはそれを椅子と勘違いして腰掛けようとした)を挟んで向かい合った白雪姫とドロシィは、白雪姫の身の上話に花を咲かせていた。
白雪姫は文字通りこの国のお姫様で、彼女を産んだ王妃は彼女が生まれてすぐに死んでしまった。国王が後妻に迎えた新しい王妃は、継子の白雪姫を厳しいながらも我が子のように彼女を育てたが、白雪姫が七歳になった頃、急に白雪姫に冷たくなり、やがて猟師に命じて彼女を森に捨て、国から追放してしまったという。
幼い白雪姫は数日森を彷徨った末に意識を失い、目覚めたときには小人の家にいた。行き場を失くした白雪姫は全ての家事を引き受ける代わりに寝食を与えてもらうという「契約」を小人と交わし、それからもうすぐ十年が経とうとしている、らしい。
「でも、この家のことを全部一人でやるなんて大変だわ」
「そうですな。小さな家ですが住人が他に七人もいて、その生活の全てを一人でまかなうのは並大抵のことではありません」
「それは仕方ありませんよ。この家の皆さんにとって、本来私は何の関係もない赤の他人です。そんな私を置いてもらっているのですから、多少の無理は無理のうちに入りません」
「そういうものなのかしら」
ドロシィはよくわからない、という様子で首を傾げる。白雪姫は静かに微笑んで「そういうものなのですよ」とだけ答えた。
「私のことはいいのです。それより、ドロシィさんのお話を聞かせてくれませんか?」
「わたしの話?」
「はい。ここでの生活は変化に乏しくて。ドロシィさんはその靴であちこち旅してきたのでしょう? よければそのお話を聞かせてくださいな」
「そうねぇ……それじゃちょっとヘンテコな王様のお話を――」
「ドロシィ様、その話は自重してください」
「どうして?」
「年頃の女性がするお話ではありません」
「?」
ドロシィと白雪姫が揃って疑問符を浮かべる中、魔法の靴はとにかくその話だけはと二人を止め、代わりに先日の塔と妖精の話をするよう勧めた。
やがて話を聞き終えた白雪姫は、ほう、と物憂げにため息を漏らした。
「いい、ですね。とてもいいと思います。この世界のどこかには、そんな愛もあるのですね」
「そうかも。王子様とラプンツェルちゃんはとても仲良しだったものね!」
「あ、いえそちらではなく……妖精さんの方です」
「……妖精さんの、愛?」
意外と言えば意外な反応にドロシィと魔法の靴は疑問の声を上げる。白雪姫はそんな二人の反応に少しだけ気恥ずかしそうに視線を逸らしたが、誤魔化さずに続けた。
「どこにも、誰にも触れさせたくない、それほどの愛。どんなに一方的でも決して手放そうとしない愛。それは確かに歪んでいるかもしれませんけど……私は少し、それが羨ましいです。それはきっと、得難い幸福なのですよ」
「うーん、そういうものかしら?」
「ええ、そういうものなのです。ふふっ」
白雪姫は微笑む。とても穏やかなその微笑が、なぜかドロシィには悲しそうに見えた。
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