赤ずきんとドロシィ(4)
ちょっと前に、捨てたはずじゃ……?
「っ、赤ずきんちゃ――」
「ぎゃはッ、いっただきまァ――す!」
ドロシィが振り向くと同時、ベッドで丸まっていた巨大な黒い影ががばりと起き上がり、ちょうど目の前に顔を寄せていた赤ずきんの、背の高い身体を、まるごとパックリと、飲み込んだ。
「ぐひッ、ウマイウマイ。さすが、肉付きのいい若い娘はいい。カビ臭ぇババァとは大違いだぜェ」
ベッドにいた時でさえ大柄に見えたその黒い影は、人一人丸呑みにするに相応しく天井に届くほどの長身、がっしりとした体格に、丸太ほどもあろうかという太い腕をぶら下げ、対照的に細く靭やかな脚が俊敏さを物語る異形の姿。
細長く尖った口にはズラリと鋭い牙が並び、長い舌がぺろりと満足気に口元を舐め上げると同時に、隙間からだらりと粘性のある唾液が滴り落ちる。
鋭くドロシィを睨めつける眼は満月のようにてらてらと金色に輝き、そこには本能に支配された獣ではなく、圧倒的優位に立つ支配者の嗜虐的な光が宿っていた。
――オオカミ。
そう呼ぶしかなく、しかしどう見てもソレと同一ではない巨大な怪物は、ドロシィを見据える眼を細め、グルルと低く唸った。
「ぎゃひひッ、今日はツイてるぜェ。ちょちょいとついた嘘一つで、こんな若い肉を二つも食えるんだからよォ」
喉を鳴らすような独特の発音で、オオカミは捕食者としての喜びを口にする。
「ドロシィ様! 踵を鳴らしてください、いますぐここから逃げましょう!」
魔法の靴が切羽詰まった声を上げる。しかし、ドロシィは数歩後ずさるのがやっとで、それ以上動けない。
「ドロシィ様!」
「げひゃッ、どうした、泣き叫んで許しを請えよ? 俺様の気が変われば、もしかしたら朝までくらいなら生き延びれるかもしれないだろォ?」
そう言いながらオオカミはゆっくりとドロシィに近づいてくる。
「ドロシィ様、いまはまず逃げることを優先してください!」
「……め」
ドロシィの口が小さく動き、掠れた声が言葉にならずにこぼれる。
「聞こえねえぞォおい? それとも恐ろしくて声も出ね「だめ!」
オオカミの言葉を遮るようにドロシィが叫び、ダンっと足を踏み鳴らす。力いっぱい叩きつけられた魔法の靴が「ごふっ」と悲鳴(?)をあげたが気にせずオオカミを睨みつけた。
「……なんのつもりだァ、小娘?」
「ちょっと黙ってて。だめよ靴さん、逃げるなんて言ったら」
「あの、ドロシィ様? お、お説教は後ほどに」
「だめよ、こういうのはその時にしっかり言っておかないと。いい? 目の前で友達が食べられちゃったのよ? わたしだけ逃げるなんて、そんなわけにいかないでしょう?」
「えー……」
あまりにも場違いな方向性の説教に、さっきまで慌てていた魔法の靴まで一瞬焦りを忘れて不満の声を上げる。が、そんな間の抜けた空気を許さない存在がこの場にはいる。
「小娘ェ、恐怖でイカれたか、現実逃避か知らんが、その態度は気に食わねえなァ。いいから怯えろ、泣き叫べ! でないと姿を見せた甲斐がねえだろうがよォ!」
家全体を震わすほどの声量で、オオカミが吠える。苛立ちに任せて今にもドロシィに飛びかかろうと身構えるが、ドロシィは怯えるどころかオオカミのことなどロクに見てもいなかった。
「……ということよ。いいわね魔法の靴さん?」
「なんと無茶苦茶な……で、ですが私は魔法の靴。主が踵を鳴らせばどこへなりともお連れしますとも、ええ!」
なぜかヤケ気味に勢い込む魔法の靴。自分の姿を見て悲鳴をあげないどころか、まるで慌てた様子のないドロシィに変な不気味さを覚えながらも、数日ぶりのご馳走で胃袋が震えているオオカミはいよいよだと舌なめずりする。
「覚悟はできたかァ? 命乞いしねェならそれまでだ、いただきま――」
「待った!」
がぱあ、とすぐにもドロシィを丸呑みにしようと口を開けたオオカミの前に、ドロシィがびしっと手のひらを突き出す。
「わたしを食べる前に一つ忠告しておくわ」
「あァ? 忠告ゥ?」
「よく考えたほうがいいわよ。わたしを食べたら、あなたはもう二度と人間を食べられなくなるもの」
「……はぁ?」
あまりに突拍子もないドロシィの言葉に、オオカミは威圧するのも忘れてぽかんと口を開ける。
「なんだそりゃ、脅しかァ? つくならもっとマシな嘘をつくんだな」
「違うわ。言ったでしょ、忠告よ。わたしを食べるなら、そういう呪いがあなたにふりかかることになるわ」
「ハッ、好きにしやがれ。変な小娘だがご馳走はご馳走だ。そんな呪いとやらで俺様の食欲は――止まらねえんだよ!」
がっぱぁ。
オオカミの大口が今度こそ最大まで開かれ、立ったままのドロシィを真上からまるごと呑み込んだ。
「……ヘッ、所詮はコケオドシ、小娘の浅知恵ごときでこの俺様を騙せると思ったのかよ」
オオカミは一日で三人を収めて膨らんだ腹を満足気に撫でながらニタニタと満足げに笑った。その直後。
カン、カン、カン。
耳慣れない硬質な音が、いやにハッキリとオオカミの耳に届く。獣特有の敏感な聴力を持つオオカミだが、一瞬その異質な音の出処をはかりかねた。なぜならそれは今まで聞いたことのない場所――自分の腹の中から聞こえていたのだから。
次の瞬間、膨らんでいたオオカミの腹が軽くなる。そして目の前に。
「うふ、よくも騙してくれたわねぇ?」
右脇にドロシィ、左脇に意識の無い老婆を抱えた赤ずきんがにっこにこ笑顔で仁王立ちしていた。
「なッ――」
「どうも、さっきぶりねオオカミさん」
赤ずきんに抱えられたままのドロシィが「よっ」とばかりに片手を上げる。
「小娘ェ、貴様どんな手品をッ」
「言ったでしょ、呪いだって。これであなたはもう人間を食べられないわ」
「な、そんなバカな話があるか! どんな手を使ったか知らんが、戻ってきたならまた喰らえばいいンだろうがァ!」
オオカミは再び口を開け、今度は三人をまとめて丸呑みする。しかし。
カン、カン、カン。
再び腹の底からあの妙な音が響いたと思ったら、先ほどと寸分たがわぬ位置に三人の姿があった。
「く、クソ、バカな、もう一度!」
バクン、ゴクン。
カン、カン、カン。
「そろそろ、気が済んだかしら?」
赤ずきんがニッコォと粘りつくような笑みを浮かべる。先程までとは逆に、今度はオオカミの腰が引けていた。
「う、嘘だろ、そんな、そんなバカなことが……」
あまりに想定外過ぎる事態に、思わずベッドのある壁際へ後ずさるオオカミ。両脇に抱えていた二人を下ろした赤ずきんは、戸口に立てかけていた斧――長身の彼女よりも柄が長く刃の部分はオオカミの顔ほどもあるもはや戦斧と呼んでいいレベルの得物(護身用)――を広くない家の中で器用に取り回し両手でしっかりと握り、腰を落として身構える。
「おばあちゃんを騙ってあたしやドロシィちゃんを食べようとしただけならまだしも、おばあちゃんを食べた上にカビ臭いなんて悪口まで言ってくれたんだから、覚悟は、いいわよねぇ?」
笑顔を一ミリたりとも崩さず、得物の先端をオオカミに突きつけて赤ずきんが嗤う。意識のないおばあちゃんと共に少し後方に退避していたドロシィが「あ、わたしたちはともかくなんだ……」と苦笑いしていたが、そんな弛緩した空気も斧を突きつけられたオオカミには意味をなさない。
「なっ、なんだよお前! なんなんだよお前らァ!」
最初の威圧感はどこへやら、もはや半泣きのオオカミは情けなくもオオカミらしく四つん這いになって背後の窓から逃げ出そうと踵を返す。が、赤ずきんの動きは数段早い。オオカミが反転する素振りを見せた途端、ひとっ飛びに踏み込んで距離を詰め、短く握り直した得物を後ろからオオカミの首元に回して押し付けた。
「ヒッ」
オオカミは短く悲鳴をあげて動きを止める。厚い毛皮の上から押し付けられた刃のひんやりした感触が、わずかでも動けばその刃が自身の首をかっ切るだろうことを告げていた。
「大丈夫よ、殺したりしないわ。おばあちゃんに手を出したんだもの、簡単に死なせるわけないじゃない、ねぇ?」
「や、やめ――」
オオカミがいまにも命乞いの悲鳴をあげようとしたその時だった。
「そこまでだ人食いオオカミ! 大人しくし――ろ?」
バァン、と扉を蹴破るようにして飛び込んできた人物がドスの利いた声でオオカミを威嚇しようとして、室内の状況に思わず語尾が尻上がりになった。
「……まぁ、猟師さん」
一番最初に我に返った赤ずきんが、オオカミに斧を押し当てたままで、飛び込んできた人物、ドロシィや赤ずきんよりも五、六歳年上に見える長身の青年に声をかける。
猟師と呼ばれた青年は、オオカミに向けていた猟銃の銃口を所在なさげに下ろして「えー」とか「あー」とか言いながら背後のドロシィ、気絶したおばあちゃん、赤ずきん、そして赤ずきんに追い詰められて半泣きのオオカミへと順に視線を巡らせる。
「すまん、誰か説明してくれないか?」
と、気恥ずかしそうにガシガシ頭を掻きながら言った。
* * *
恐ろしいことに、赤ずきんはオオカミを拘束した腕と、そしてそのオオカミに向ける鋭い殺気を一時たりとも緩めることなく一部始終を全て猟師に説明した。彼女が喋るのにつられて時折斧がぴくりと揺れるたびに「ひぅ」と悲鳴をこぼすオオカミが、ドロシィにはなんだか可哀想にさえ見えていた。
「つまり、俺は一足遅かったというワケか」
盛大に突入タイミングを外したと知った猟師はわずかに頬を染めながら鼻をこする。
「そういう猟師さんはどうしてここに?」
ドロシィが尋ねると、脱出に使ったというドロシィの魔法の靴を興味深げに眺めていた猟師が今度は自分の事情を説明してくれる。
「この辺りに人食いのオオカミが出るってんで村の猟師たちで夜の警戒をしてたんだよ……赤ずきんがこっちに来てると聞いて、念のため来てみたら家の中に黒くてデカイ影が見えて思わず飛び込んだんだが、なんか、いらん世話だったみたいだな」
「そうね、猟師さんに心配されることはないわ……と言いたいところだけど、ドロシィちゃんがいてくれなかったらあたしだけじゃどうしようもなかったし。結果はどうあれ助けに来てくれたのは嬉しかったわ」
「お、おう。そうか」
にこっとオオカミに向けていたのとは違う、人懐っこく人好きのする笑顔を向けられた猟師は先程までとは比べ物にならないほど真っ赤になって赤ずきんから目を逸らす。
「これからも守ってちょうだいね?」
「ああ、そりゃ、もちろん。赤ずきんのことは――」
「おばあちゃんのこと!」
がくっ。何か言いかけた猟師が段差もないのに前につんのめった。
「……ああ、ああそうだよ、赤ずきんってこういうヤツなんだ。いやそりゃ間に合わなかったし、実質俺は何もしてねぇし、何も言えた義理じゃねぇですけども」
ぶつぶつ小声で呟く猟師に「?」と小首を傾げる赤ずきん。
ドロシィは座り込んでしまった猟師の肩にぽん、と手を置いて。
「可能性は、どんなに小さくてもゼロってことはないから」
「……ごふっ」
「なんとむごい」
白目を剥いてしまった猟師を見て、魔法の靴だけが哀れみの言葉をこぼした。
……ちなみに、このやり取りの間にとうとうオオカミは恐怖が限界を超えたらしく、赤ずきんのたわわな胸に頭をあずけて気絶していた。
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