人魚姫とドロシィ(3)
「はぁ、どうしようかしら」
「困りましたね」
さきほどと同じ使用人に案内された客室。いつもの格好に着替えてようやく一息ついたドロシィは、やたらと豪勢な天蓋付きのベッドにばふっと飛び込んで足をパタパタやりながら困り果てていた。
「本当のことを言うわけにはいかないの?」
「我々だけではどうにも。ご本人がいらっしゃればまた別なのですが」
「もう、これじゃわたしが王子様を騙しているみたいじゃない」
「まぁ結果だけ見ればそういうことになりますね」
魔法の靴にあっさりそう言われてぷくぅっと頬を膨らませるドロシィ。
気分を変えようと窓から外を覗くと、今いる場所が高い高い尖塔の上だということを思い知らされる光景が広がっている。
「すごい……」
「ええ、カンザスののどかな風景とはまるで違っていますね」
城下を行き来する人、人、人。賑やかというか騒々しいというか。活気があるといえば聞こえはいいが、ドロシィはなんだか穏やかな風を感じるカンザスの家が恋しくなった。
「……ドロシィ様。あなたがお望みなら、踵を鳴らしてくださればいつでも」
「そうね、そうしたいかも。でもだめよ、いまここでカンザスに戻ったら王子様に嘘をついたままだし、人魚さんも報われないままだわ」
「しかし、あるいは私たちが姿を消す方が物事は正しい方向へ進むやもしれませんよ。もともと、私たちはここにいるべきではないのですから」
「でも、関わってしまったもの。こんなところで投げ出すなんて無責任よ……あら?」
ふと、窓の外を見ていたドロシィの視線がある一箇所にとまる。
「あれって……靴さん、あそこ! あそこに跳んでちょうだい!」
「は? いえその、逃げ出すのは無責任なのでは?」
「違うの、そうじゃなくて、ああもう、いいから早く! 時間は待ってくれないのよ!」
「わ、わかりました。それでは踵を三回、鳴らしてください」
カン、カン、カン。
「――っ!」
ドロシィが踵を鳴らして跳んだ先は、王子に連れられて通った城門の目の前。どこからともなく現れたドロシィに息を呑んだのは、見覚えのある銀髪の少女。
「あなた、あのときのにん――」
「!」
人魚ね、と言いかけたドロシィの口元を少女が慌てて抑える。そして泣きそうな、というかほとんど半泣きで目尻にたっぷり涙をためながらぶんぶんと首を横に振る。
「ドロシィ様。周囲に人がおります、人魚という言葉は控えた方がよろしいかと」
「っぷは、そうなの?」
こくこく。少女は何度も頷く。
「わかったわ。それじゃどうして尾ひれが足にむぐっ」
変わってるの、と続けようとしたドロシィの言葉はまたも飛びついてきた少女によって阻止される。
ふるふるふるふる。必死に首を横に振っている。
「わ、わかったわ。それもダメなのね」
こくこく。
「それじゃ、どうしてあなたがこの城門前にいるのか、それは聞いてもいいかしら?」
「…………」
少女は答えない。どこか困った様子で眉尻を下げながら、黙って俯いてしまう。
「うーん、言い難いのかしら」
「周囲に人がいては話しにくいこともあるでしょう」
「そうね。えっと、わたしと靴さんにならお話してくれる?」
……こく、ん。
躊躇いがちにではあったが、少女は頷いた。
「よかった。それじゃ、わたしにしっかり掴まってね?」
「?」
少女はどうして、と言いたげに首を傾げたが、ドロシィの服の袖を両手でぎゅっと握った。
「離しちゃダメよ? さ、靴さん」
「はい、そうぞ踵を鳴らしてください」
カン、カン、カン。
「!」
ドロシィの袖を握っていた少女の身体が強張る。が、手を離す隙もなく周囲の景色は先程までドロシィがいた尖塔の上の客室に変わっていた。
「さ、ここならわたしたち以外に誰もいないわ。安心して話してちょうだい?」
「…………」
少女はおっかなびっくりといった様子でドロシィの袖から手を離し、興味深そうに魔法の靴を見つめている。
「どうしたの? さ、話していいのよ?」
「……っ、……!」
少女は口をぱくぱくと動かして見せるが一向に話し出そうとしない。しきりに自分の口や喉を指差しては何かを訴えようとしている、ようなのだが、ドロシィにはいまいち彼女が何を伝えようとしているのかわからなかった。
「……もしや、話すことができないのですか?」
最初にその可能性に気づいたのは魔法の靴だった。その問いかけに、少女が慌ただしく首を縦に振る。
「やはりそうでしたか。その足と、何か関係が?」
こくこく。
「もう、わたしを置いてけぼりにしないでよ! どういうことなの? やはりって?」
「いえ、私も魔法を帯びた者のはしくれ、近しい気配ならば感じ取ることが出来ます。彼女の喉と、それから足。両方から感じられるのは同じような魔法、いえこれは呪いの類でしょう」
「呪い? どうしてそんなことに……」
「…………」
少女は俯いてしまう。
「ドロシィ様、紙とペンを用意して差し上げたほうが」
「あら、どうして気づかなかったのかしら! 待ってちょうだい」
ドロシィはキョロキョロと室内を見回し、机の上に紐で巻かれた紙束とペンを見つけて手に取ると、少女に差し出した。
「何があったのか教えてちょうだい? わたしたちで力になれることだったら、なんだってお手伝いするわ」
少女はかすかに躊躇う様子を見せたが、ドロシィにじっと見つめられていよいよ観念したのか、おずおずと紙束に手を伸ばした。
ことのあらましはこうだ。
人魚の少女は、あの時、助けた王子に一目惚れした。
しかし人魚は人間の前にその姿を見せてはいけない。せめて意識が戻るまでは王子のそばにいたいと浜辺で寄り添っていたところに、唐突に現れたドロシィに驚いた人魚は海に戻ってしまった。
人魚の仲間たちは人間と関わったことなど早く忘れろと言うが、少女は王子が自分のことを知らないままでいることにどうしても耐えられない。そこで彼女は、海の住人たちから恐れられ、疎まれている海の魔女を訪ね、人魚が人間に会える方法を教えてくれと頼んだ。
そんな人魚に魔女が与えたのは、声と引き換えに尾を人間の足に変えてくれるという不思議な薬。
ただしその薬を一度使えば『愛する者の血』でしか人魚の姿に戻ることはできず、そして人魚に戻る前に愛する者からの愛が別の誰かに注がれてしまえば、彼女は泡となって消えてしまうのだという。
王子に会いたい一心で薬を飲み、王城までやってきた少女だったが、言葉を話せない彼女は王子が城から出てくるのを待つしか無い。
そうして城門前で立ち尽くしているところが、たまたま再びドロシィの目に止まったのだった。
はじめのうちは恐る恐る、といった調子でぽつぽつと単語を書いては次の言葉を探していた少女も、全てを説明し終える頃にはいくらか落ち着いていた。いや、落ち着いているというより、落ち込んでいるといった方が正しいのかもしれない。
あなたは、王子様と結婚するのですか?
全てを説明し終えた少女が、最後に書き加えたのはそんな質問だった。
「そのつもりはないわ。だって、わたしは本当はここにいるべきじゃないのよ。海から来たあなたよりも、もっともっと遠いところから来たんですもの。家に帰らなきゃいけないわ」
ドロシィは少女を安心させるようにそう言った。もちろん嘘ではない。溺れていた王子を救った人魚の少女、その本人がこうして王子に会うことを望んでいるのだから、今ならば王子に全てを説明することだって出来る。
そう、思っていたのだが。
でも、わたしはもう、消えかかっています。
少女が更に書き加えた言葉に、ドロシィの表情が凍りつく。
「ど、どうして? わたしはまだ王子様にお返事もしていないわ。結婚なんて、そんなことにはならないのに!」
少女は儚げにふっと微笑を浮かべて、自分の足元を指差す。ふわりと、水の中でもないのに泡が浮かんで、ぱちんと弾けた。
「ドロシィ様。王子の求婚を受けるかどうかは、この場合問題では無いのです」
「どういうこと?」
「薬の効果で彼女が消えてしまうのは、王子の愛が彼女以外の誰かに注がれた時。王子は既に、ドロシィ様に恋をなさっているのでしょう」
「そんな! そんなのおかしいわ、だって王子様を助けたのはわたしじゃないもの!」
「しかし王子は、そのように思っておられません」
「だめ、だめだわそんなの。そうよ、今から説明しに行きましょう。事情を全部話して、本当に王子様が恋するべきなのは誰か教えてあげなくっちゃ!」
言うが早いか、ドロシィは勢いよく立ち上がると少女の手をはっしと掴んで部屋を飛び出した。
先ほど案内された玉座の間への道を思い出しながら、いくつもある尖塔の一つを上へ上へと登っていく。人魚の少女は、足をもつれさせながらも必死についてくる。二人が通ったあとには、小さな泡が浮かんでははじけていた。
ついにあの広間まであと少し、というところで奇跡的に二人は王子を発見した。
「おっと、そんなに慌ててどうしたんだい?」
上階から降りてきた王子は、息を切らせて階段を駆け登ってきたドロシィと、彼女に手を引かれる見慣れない少女を前にして怪訝そうな顔をする。
「お、王子様! お話が、ある、の」
荒い呼吸を落ち着けるまもなく、ドロシィは必死に言葉を紡ぐ。
「王子様は、わたしに、その、結婚を、申し込んだ、のよね?」
「ああ、そうだよ」
なぜ改めてそんなことを聞かれているのか、と王子は首を傾げる。
「それは、間違いなの」
「……間違い?」
ようやく呼吸の落ち着いてきたドロシィの思いがけない言葉に、王子は顔をしかめる。
「間違いなものか。海で溺れた僕が浜に流れ着き、君が介抱してくれた。僕が王子だなんてことを知りもしないのに、だ。その優しさに僕は心惹かれたんだよ」
「違うの。本当に王子様を助けたのは、この子なのよ!」
そう言ってドロシィは人魚の少女を王子の前に立たせる。
「……君が?」
王子が言うと、少女は顔を伏せたまま、小さくこくりと頷いた。
「それなら、なぜあの浜辺に君がいなかったんだい?」
「……、……!」
少女は答えようと口を開きかけたが、言葉が出てこないことを思い出して、再び震えながら俯いてしまう。
「それは、その、彼女にはあの場に長くいられない理由があったの! それで、たまたまわたしが通りかかって、あなたのことを任されて」
「そうなのかい?」
王子が少女に尋ねる。少女は咄嗟のことでわずかに反応が遅れたが、それでもこくり、と控えめに頷いた。
「そうか」
王子は誰にともなく呟くようにそう言って顔を伏せる。わかってもらえた、とドロシィはほっと息をこぼした。
しかし、顔を上げた王子の表情を見て、ドロシィはそれが間違いだと気づく。
「僕の申し出を断るために、こんな嘘を?」
「ちが、違うわ! 嘘なんかじゃ!」
「僕と結婚できないなら、そう言ってくれればよかったのに。こんな嘘をついてまで、僕から逃げ出してほしくなかったな」
王子の表情は、騙されたという怒りよりも、ドロシィにそうさせた自身を責めるように悲しげだった。
「気にしなくていい。もともと、恩人に対して身勝手な申し出をしたのは僕だ。そこの君も、僕達のことで振り回してしまって、悪かったね」
王子は人魚の少女にそっと微笑みかけると、二人の横をすり抜けて階下へ降りて行ってしまった。
「ま、待って! 本当なの、本当のこと……なの」
ドロシィの声も小さくなる。それは王子のさみしげな背中が、いまは誰の言葉も届かないと示していたからだ。
「お、追いかけなきゃ……」
震える足に力を入れて、ドロシィは少女の手を引いて駆け出そうとする。しかし、伸ばした手の先に、触れるものは無かった。
「うそ……」
振り返ったドロシィは、へなへなとその場に座り込む。既に身体のほとんどが泡となって溶け出した人魚の少女が、淋しげに微笑んでいた。
「――どうして? だってわたし、王子様に嘘つきって思われたのよ? わたしのことなんか、好きなはず、ないのに」
「好きでない者に嘘をつかれて、あのように落ち込む者はいませんよ、ドロシィ様」
魔法の靴が静かに告げた。
「そんなの、おかしいじゃない」
ドロシィの声が届くべき二人は、もう出会うことはない。
「……ドロシィ様。これ以上ここに我々がいても、できることは無いと思われます」
「そんな、こと」
「取り返しの付かないことを悔いても仕方ありませんよ」
「取り返しがつかない……」
――本当に?
「カンザスにお戻りになりますか? それとも気晴らしに、今度は山へ行きましょうか? 踵を鳴らしてくださればどこへでもお連れしますよ」
――どこへでも?
「それだわ!」
「そうですか。では山へ参りましょう、踵を」
「違うのよ、魔法の靴さん! 思い出して、あなたは何?」
「なに、と言われましても。私はただの魔法の靴でございますが……」
「そうよ! それで、あなたには何が出来るの?」
「どこへでも、踵を鳴らした方の行きたい場所へお連れします」
「そう、どこにでも連れて行ってくれるのよね!」
「その通りですが」
「もうっ、まだ気づかないの?」
未だにドロシィの言おうとしていることに気づかない魔法の靴に、焦れたドロシィが唸る。
「どこへでも行けるなら、過去にだって行けるはずでしょう!」
「……おお!」
一拍遅れてようやく理解した魔法の靴が声を上げると同時に。
「いいわね?」
ドロシィが踵を鳴らした。
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