転機

 季節は変わり、武蔵野にも春の訪れが感じられた。長野勢との小競り合いから半月以上経ち、四月も半ばに入っている。

 夜更けであった。

 綱成は城内の富士見櫓にいる。

 「兄者はまだか。この城が落ちてしまうわ。」

 綱成は苛立ちながら言った。

 小競り合いを制したものの、依然と上杉・足利連合軍は川越城を包囲していた。

 「余り情勢は芳しくありませぬ。兵糧は一月と持たぬかと。」

 傍らにいた康俊が冷静に言った。

 「如何したものか。」

 綱成が溜息交じりに言った。

 その時であった。

 「殿、あちらを。」

 康俊が唖然とした表情で外を指差した。

 綱成もその方向を見た。

 暗くてよく見えないが、上杉勢の陣の様子がおかしかった。

 「何かがこちらに向かって動いております。」

 「人のようだが。」

 暗がりを凝視すると、上杉勢の中央を一人の武者が馬を駆っていた。

 上杉勢はその騎馬武者を避けるように動いている。

 「上杉勢の武者では無いようでござる。」

 康俊が言った。

 「何が目的だろうか。警戒しておけ。」

 綱成の指示に城内が慌ただしくなった。

 

「開門して下され、味方でござる。」

しばらくして、門の方角から声が聞こえた。

先程の騎馬武者である。

「康俊、開門するべきか?」

「罠かもしれませぬ。追い返しましょう。」

康俊がたしなめた。

 「待て、今の声に聞き覚えがある。あの者を通せ。」

 綱成は、康俊の言葉を遮るように言った。

 「ですが、門を開いた隙に敵が入ってくるとも限りませぬ。」

 「それは大丈夫だ。あの者を入れたらすぐに門を閉める。」

 「では、よろしいかと。」

 康俊も納得した。

 「分かった。今すぐ開門してやる。」

 綱成は櫓から騎馬武者に叫んだ。

 綱成の声の後、門が開かれ騎馬武者は城内に入った。

 

 少し時が経って康俊がやって来た。

 「殿、先程の武者が参っております。お会いになりますか。」

 「うむ、通せ。」

 綱成は頷いた。

 「兄上、お懐かしゅうござる。」

 声と共に、秀麗な若武者が現れた。

 「やはりお前だったか。弁千代。」

 綱成が喜びの声を上げた。

 「はい、今はお館様より綱房という名を頂いておりまする。」

 綱房は綱成の五歳年下の実弟である。

 氏康に小姓として仕えており、綱成と会うのは数年ぶりであった。

 「それにしても、あの大軍の中をたった一騎で突破するとはな。」

 「そこまでの事は。その様な事より、御屋形様から兄上に言伝を預かっております。」

 綱房は謙遜して言った。

 「兄者の使者か。援軍が来るという事だな。」

 「さすがは兄上。話が早うござる。」

 「どのような算段だ?」

 綱成が聞いた。

 「お館様は明日の日没とともに、扇谷上杉勢の陣へ奇襲をかけまする。」

 「兄者の軍勢の数は?」

 「総勢八千でござる。」

 綱房は明朗に言った。

 「わしはどうすればいい?」

 「兄上には、足利勢を攻めていただきたい。」

 「いつ頃討って出ればいいのか?」

 「そこは、任せるとお館様は仰せです。」

 「相分かった。兄者の信頼を裏切る訳にはいかぬ。」

 綱成は、氏康が自分に対して全幅の信頼を置いてくれている事が嬉しかった。

 「では、私は失礼させていただきまする。」

 綱成は少し黙った後、口を開いた。

 「待て。さすがに敵の警戒も厳しくなっておろう。お前はこの城に留まるのだ。」

 綱成は綱房を制止した。

 「承知いたしました。この綱房、兄上と共に戦いまする。」

 綱房は素直に綱成の言葉に従った。

 「お前が居てくれればわしも心強い。」

 

 綱成は嬉しそうに言った。

 「綱房、久しぶりに会ったのだから共に酒でも飲もう。」

 「喜んで。朝まで飲み明かしましょうぞ。」

 「康俊、酒を持って来てくれ。」

 綱成は脇に控えていた康俊に言った。

 「かしこまりました。」

 しばらくして、康俊が酒を持って来た。

 「すまんな。綱房、まずは一献。」

 「美味い。さあ、兄上も飲んで下され。」

 綱房と綱成は酒を酌み交わした。

 酒宴は真夜中まで続き、二人は話に花を咲かせた。

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