襲来
「とうとう来たか。」
綱成は緊張した面持ちで言った。
九月の二十五日、綱成は間者から報告を受けていた。
「はっ。上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏、その他の諸将が兵を引き連れて武蔵国へ侵入いたしました。」
間者が言った。
その風体は異様であった。
「兵の数は。」
綱成の声が響く。
「およそ八万。」
「城下にはいつ迫ってくるのか。」
「一両日中には城下に殺到いたしましょう。」
「報告、ご苦労じゃ。ところで、そなたの名は。」
「相州乱破の頭目、風魔小太郎でございます。」
乱破とは忍びの者の事である。小太郎は北条家に仕える風魔一族の棟梁であった。
「兄者の命か。」
「左様。それがしは、お館様に上杉らの動静を探るよう命じられております。」
小太郎は牙の様な歯を剥き出して不気味な
笑みを浮かべた。
「北条五代記」には、小太郎の容姿を「身の丈七尺二寸、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」と記されている。
「では、兄者によろしく伝えておいてくれ。」
と綱成が言ったが、聞こえたのは乾いた風音だけであった。
小太郎の姿は既にない。
「流石は忍びの者じゃ。去り際の気配すら感じぬとは。」
綱成は呆気に取られていた。
「先程は失礼を。忍びの術とは斯様なものでございます。」
突然、後ろから声が聞こえた。
「こ…小太郎殿。」
綱成が見ると、そこには消えたはずの小太郎の姿があった。
「悪ふざけでござる。ご容赦を。」
綱成は開いた口が塞がらなかった。
「では、ご免。」
そう言うとまた、小太郎の姿は見えなくなっていた。
「世の中には、不思議な者もおるのじゃな。」
綱成には小太郎の術が理解できなかった。
「康俊、康俊はおるか。」
綱成は大声で言った。
「殿、何でございましょう。」
足音と共に康俊が現れた。
「上杉方の軍勢が城下に迫っていると、乱破から報告があった。」
「分かりました。今すぐ戦支度をいたしましょう。」
「うむ、わしも参る。」
綱成はそう言って立ち上がった。
翌日、綱成は城内南西の富士見櫓にいた。
「中々、見事なものだ。わしもこのような大軍は見たことが無い。」
鎧を身に着けた綱成が呟いた。
櫓からは見渡す限り、軍勢が山野を埋め尽くしていた。既に、両上杉家と古河公方の連合軍が城を包囲しているのである。
「殿、この櫓の方面を包囲しているのは山内上杉でございます。」
康俊が指さしながら言った。
「戦意は旺盛か?」
綱成は康俊に聞いた。
「それがしにも、よく分かりませぬ。ただ、
士気が高くないのは確かでございます。」
康俊は曖昧に答えた。
「殿、大変でございます。」
突然、鎧武者が駆け込んできた。
「何だ。」
「山内上杉の軍勢が城門へ向かっております。」
「それは一大事じゃ。わし自ら向かう。」
そう言うと綱成は、櫓の階段を下りて外に出た。
「誰が兵を率いておる。」
綱成は歩きながら聞いた。
「長野信濃守の手勢かと。」
「何と、それは手強いな。」
長野信濃守は本名を業正といい、上野の有力な土豪の一人であった。業正は戦上手で、周辺からは「上州の黄斑」として恐れられていた。ちなみに、黄斑とは虎の事である。
話しながらしばらく歩くと、大勢の兵達が屯していた。
「準備が早いな、康俊。」
綱成は先頭にいる騎馬武者姿の康俊に声を掛けた。
「殿も早く、馬にお乗りください。」
そう言って康俊は、一人の足軽に合図を出した。
少しして、その足軽が馬を引いてきた。
「では、敵を蹴散らして参るとするか。」
綱成は馬に跨り、門に向かって進んだ。
「敵の数はそれ程のものではありませぬ。
こちらの出方を窺うつもりでございます。」
「我らが弱ければ一気に城を揉み潰すつもりか。」
「ですが、我が方の士気は高く負ける事は無いでしょう。」
綱成は頷いた。
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