戦備え
「何、兄者に会えなかっただと。」
綱成は声を荒げた。目の前には小田原から帰ってきた康俊が汗を流していた。
「申し訳ございません。氏康様は既に小田原の城にはおられませんでした。」
「そうか、小田原に居ないとなると戦に出ているのか。」
「では、今川が攻めて来たのでしょう。」
綱成は康俊の意見に頷いた。
「始まったか。我らも敵がいつ来てもいいように戦の準備をせねば。」
「城に籠る時に最も重要なのは兵糧でございます。」
康俊は早速提案を行った。
「分かった。調達はお前がやってくれ。わしは、城の周囲を見て回る。」
「では商人に掛け合ってまいります。」
「戻って来たばかりなのに済まんな。」
「なんの、殿の為なら何の事もございませぬ。」
「戦はすぐそこまで迫っておる。抜かりなく準備を進めてくれ。」
「はっ」
康俊は威勢良く言った。
翌日、綱成は馬上にあった。
「上杉の居城だっただけのことはある。中々に堅固じゃ。」
綱成がいるのは川越城の曲輪の一つの中城である。曲輪の周囲には堀が張り巡らされており、他の曲輪とは大きな橋で連結されていた。「道灌がかり」という、いくつもの曲輪が連結している構造は扇谷上杉家家臣の太田道灌という武将が造った。その曲輪の中で最も防御の要となっているのが中城である。この道灌独自の構造により、川越城の守りは鉄壁ともいえるものになっていた。
「この様子だと新たに手を加える事も無さそうだな。だが、相手はこの城の構造を知り尽くしておる。いかがしたものか。」
川越城は僅か八年ほど前まで扇谷上杉家の居城だったのである。上杉家が城の特徴や弱点を知らないはずが無かった。
「康俊も連れて来るべきだったな。わしには、皆目分からぬ。」
綱成は溜息をつくと、手綱を引いて馬首を翻した。
城の周辺の踏査から戻った綱成は、上座に寝そべって大きないびきをかいていた。
「殿、ここにおられましたか。」
突然大きな声が響いたと思うと康俊がやって来た。
「大きな声だな。驚いたではないか。」
眠りを妨げられた綱成は少し不機嫌そうだった。
「お休みのところ失礼いたします。報告したき儀がござります。」
康俊が申し訳なさそうに言った。
「何だ。」
「商人達が兵糧の値段を釣り上げております。これでは費用が多く掛かってしまいまする。いかがいたしましょう。」
「金の心配はせずともよい。ここで出し惜しみしても城が落ちてしまえば意味が無くなる。」
「では、城の金銀の蓄えを全て使わせていただきます。米蔵から溢れるほど用意いたしましょう。」
康俊は自信ありげに言った。
「お主の申したい事はそれだけか。では、わしの相談に乗ってくれ。」
「何なりと。」
「先程、城の防備を見て回ったのだが、一つ気になった事があってな。わし一人ではどうも見当が付かなかった。」
「お話下さい。私にできる事なら何でもいたします。」
「城の防備は鉄壁だと思う。だが、敵はこの城の元城主扇谷上杉だ。城の隅々まで構造を熟知しているのは明らかな事じゃ。」
綱成は自分の懸念を率直に言った。
「確かに扇谷上杉は城の事を隅々まで知っておりましょう。しかし、敵に戦意は無いと考えまする。」
「どういう事だ。」
綱成は怪訝そうに訊ねた。
「敵は大軍なれど利に釣られた烏合の衆でございます。扇谷上杉も進んで自ら損害を受けるような事はしますまい。」
康俊は持論を展開した。
「そう思うか。扇谷上杉にとって川越城は何としても取り返したい城じゃ。奴らは死に物狂いで攻めて来るのではないか。」
綱成は康俊の考えに疑問を呈した。
「扇谷上杉や山内上杉は我ら北条家が邪魔で一時的な盟を結んだだけでござる。我らが滅んでしまえばすぐにいがみ合い始めましょう。」
「確かにお主の言う通りじゃ。」
扇谷上杉家と山内上杉家は七十年程の間、戦を繰り広げていたのである。
「彼らは戦の後の主導権争いに向けて、兵力の温存を図るものと思われまする。」
「彼らにとってこの城など眼中に無いという事だな。」
綱成は核心を突いた。
「ただ、戦において油断は命取りでしょう。」
「その通りだ。相手の心の隙を突けば勝機も望めるかもしれぬ。」
綱成は自信を取り戻したようだった。
「康俊、お主の言葉でわしの懸念は吹き飛んだ。礼を申す。」
「いえ、そこまでの事はしておりませぬ。」
康俊は恥ずかしげに言った。
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