議論

 「殿、何でございましょう。」

 しばらくして、一人の男が綱成の前に現れた。

 「康俊か、今から小田原の兄者に文を書く故、筆と紙を持ってきてくれ。」

 間宮康俊は綱成に仕える武将の一人であった。綱成とは歳が近く、互いに信頼しあっていた。余談であるが、康俊の子孫には江戸時代に樺太の間宮海峡を発見した間宮林蔵がいる。

康俊は綱成に命じられると、足早に出ていった。

 綱成は、目を閉じ、口を真一文字に結んだ。

義兄氏康の事を考えている。綱成にとって氏康は越えられない兄であった。氏康は僅か十二歳で扇谷上杉氏の軍勢に大勝するなど兵の指揮に長けており、領国経営の手腕にも優れていた。綱成はこんな兄を、羨望の眼差しで見ながらも尊敬していた。

 果たして兄は助けに来てくれるのだろうか。

綱成は自分の他力本願な考えを恥つつも、兄の援軍に期待するしかなかった。

 「殿、筆と紙をお持ちしました。」

 康俊が床板を踏み鳴らしながら、駆けて来た。

 「焦るな康俊。お前に怪我でもされたら困る。」

 綱成は笑いながら言った。

 「小田原の殿に、城への後詰をお頼みするのでござるか。」 

 「うむ、その通りじゃ。だが、はたして文を送って兄者は来てくれるのか。」

 綱成は自分の不安を康俊に吐露した。

 「必ずや来られると思いまする。殿は、氏康様にとって無くてはならにお方、見捨てられるはずがありませぬ。」

 康俊は自信ありげに言った。

 「だが今川も敵に回っておるのだぞ。やはり難しいのではないか。」

 綱成は康俊に訊ねた。

 「今川には我が家を滅ぼす気など無いと思われまする。」

 「どういうことだ。」

 「今川が欲しいのは河東の地でござる。第一、今川は我が家を滅ぼしても何の得にもなりませぬ。」

 「何故だ。」

 綱成は端的に聞き返した。

 「関東の者にとって今川はよそ者、はたして素直に従うかどうか。今川の本国である駿河の統治が疎かになるのは必須でござる。」

 「今川は西の織田や東の武田を恐れておるのじゃな。」

 織田家の当主信秀と武田家の当主晴信は共に野心家であり、領土拡大に余念が無かった。

 「その通りでござる。今川が隙を見せれば

織田が牙を向けまする。そうなれば今川と盟約を結んでいる武田もどう動くか。」

 「何とそこまで考えておったか。」

 綱成は康俊の見識の深さに驚きを隠せなかった。

 「殿は氏康様が今川と和睦されるまで時間を稼げばよいのです。数ヵ月の辛抱でござる。」

 「だが、援軍が来たとしても十倍以上の敵に太刀打ちできるものか。」

 圧倒的に差がある場合は、正攻法では一撃で叩きのめされる恐れもあった。

 「そこは運を天に任せるほかありませぬ。

敵に綻びが見えれば奇襲によって活路が開けるやもしれませぬ。」

 「肝要なのは敵が隙を見せるまで耐え忍ぶことだな。戦う前から諦めてしまったら勝てる戦も負けてしまうわ。」

 綱成はそう豪語した。

 「ひとまず兄者に文を書くとしよう。」

 「かしこまりました。」

 康俊は文机の上に紙と筆を出した。

 綱成は静かに墨を溶き、黒く輝いた墨汁に筆を浸した。

 文には、扇谷上杉に川越城を攻める動きがあること、今川が河東を狙って策動していることなどを書き綴った。さらに、救援の要請と今川との和平に関する提案を記した。

 「書けたぞ。康俊、お前がこの文を届けてこい。」

 「私でござるか。忍びの者に命じなくてよいので。」

 「お前が一番信用できるからだ。忍びの者では、敵の手に渡ってしまうやもしれぬ。」

 「そこまで私を買ってくださるとは。誠に嬉しゅうござる。」

 康俊は破顔して喜んだ。

 「わしとお前の仲だ。信頼するなど当然の事ではないか。」

 綱成は康俊の肩を叩いた。

 「では、氏康様の所へ行ってまいります。」

 康俊が立った。

 「頼んだぞ。できる限り早く届けてくれ。」

 と、言ったものの既に康俊はいなくなっていた。

 「これから忙しくなりそうだ。」

 そう言って綱成は横になった。


 

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