地黄八幡
あっちゃん
風雲
「何と、あの難波田弾正殿であられるか。」
北条孫九郎綱成は自分の髭を触りながら言った。綱成は川越城の城代を務めている。
「いかにも。此度は我が主上杉朝定様の使者としてまいりました。」
綱成の目の前に座っている白髪頭の老人は鷹揚に言った。
「貴殿の和歌問答の話は義父氏綱から聞いてござる。」
氏綱とは今は亡き北条家二代当主・北条氏綱の事である。
「松山での戦の事でござるか。あの歌は思いつきのまま詠んだだけにござる。恥ずかしきかぎり。」
老人は首を横に振りながら言った。
老人の名は難波田憲重という。
松山での戦というのは、憲重の主家扇谷上杉家と北条家との間で起こった戦である。上杉家の居城松山城を当主氏綱率いる精鋭部隊が激しく攻め立てたのである。戦は憲重が奮戦し、城を守りきっている。この際、憲重は北条方の部将山中主膳と和歌問答を行った。
寄せ手の主膳が
「あしからじ よかれとてこそ 戦はめ
なにか難波田の 浦崩れ行く」
と問いかけると、城に戻る憲重は
「君おきて あだし心を 我もたば
末の松山 波もこえなん」
と返した。
二つの歌は主膳がなぜ兵を引いて退却するのかという問いかけに、憲重が主君を残して死ねば城が落ちてしまうと答えた形である。
この風流なやりとりには氏綱も感心したという。後にこの戦いは松山城風流合戦と呼称される。
「貴殿の合戦での武勇伝も聞かせてもらいたいが、使者として参られたのだから、用件を聞かせてもらうとしよう。」
「左様、此度は綱成殿に降伏を勧めにきたのでござる。」
憲重は不敵な笑みを浮かべながらいった。
「解せぬ、そちらが降伏するならまだしも、
急にわしに降伏を持ち掛けるとは。」
綱成が訝しむのも当然であった。扇谷上杉家はこの時すでに松山城に押し込められており風前の灯のはずであった。四年ほど前に北条家は三代目の氏康に代替わりしていたが、その力関係が逆転したわけではない。
「降伏しなかったらどうなる。」
綱成は訊ねた。
「軍勢が城を攻めまする。」
城とは今綱成と憲重がいる川越城のことである。北条家が奪取し、綱成が城主を務めていた。
「馬鹿な、上杉にそこまでの力があるとは思えぬ。来たとしても僅かであろう。」
「本当によろしいので。貴殿ほどの人材なら当家でも活躍できましょう。」
「もし、どれだけの兵で攻めようとも、わしは下らぬ。主家への恩は山よりも高く海よりも深い。」
綱成は氏綱の婿養子であり、現当主の氏康とは義兄弟であった。氏康からの信任は厚く、裏切れるはずもなかった。
「後悔されても遅いですぞ。我らはこの国始まって以来の大軍勢で攻め寄せまする。低く見積もって七万は下りませぬ。」
憲重が満悦の表情でいった。
「それはおかしい。上杉ごときがそれ程の大軍を集めることなどできぬはずだ。子ども騙しはいい加減になされよ。」
綱成の怒号が響いた。
「これだから若いものは困る。何も我が上杉だけとは言っておりませぬ。」
「何だと。」
綱成は困惑した。
「関東には北条に不満を持つ者がいくらでもおりまする。古河の足利、関東管領の山内上杉、まだまだおりますぞ。」
古河の足利というのは鎌倉公方の足利氏のことで当主は晴氏であった。山内上杉というのは扇谷上杉家の本家で、関東管領の官職に就いている上杉家のことだ。当主は憲政である。
「何と、彼らが総力を挙げてこの川越に押し寄せると。」
綱成は呆然とした。
「さらに、我らと密約を結んでいる者がござる。」
憲重は続けた。
「誰だ。」
「駿河の今川治部大輔義元殿でござる。」
狼狽する綱成を嘲笑うかのように憲重は言った。
今川家は、北条家に河東という駿河と相模の国境地帯を奪われている。それの奪回を目論む義元と北条を倒したい扇谷上杉家との利害が一致したのである。
「何という事か。我が北条家は東の上杉と西の今川から挟撃されれば滅んでしまう。この見事な策をたてたのは誰じゃ。」
「目の前におります。この老いぼれが裏で工作いたしました。」
「貴殿か、さすがは歴戦の難波田弾正殿。だが、わしは降らぬ。城を枕に討ち死にする所存じゃ。」
「威勢のいいことだが、せいぜい悪あがきなされよ。此度は我が殿も公方殿も憲政殿も本気であられる。あとで後悔なされても知りませぬぞ。」
憲重は吐き捨てた。
「帰られよ。今すぐ去らねば貴殿の命はない。」
「かしこまった。次は戦場でお会いいたしましょう。」
憲重がゆっくりと立ち上がった。
綱成は憲重の腰の曲がった後ろ姿を複雑な面持ちで見送った。そして、憲重が去ったのを確かめた綱成は
「誰かあるか。」
と、大声を出した。
声は静まり返った城内に響いた。
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