第四十話 例え死のうと

 葵が突然の眩しさに目を閉じると、聞き慣れない声が降ってきた。

「おや、逃げようとしていたのか?」

「誰……?」

 明るさに目が慣れ、葵は薄目を開ける。すると、こちらを見下ろす大人の男の姿が見えた。

 紺色の衣、狐のように細く切れ長の目、そして感情を映さない面差し。得体のしれない男に、葵は身を固くした。

「誰、ですか」

「誰、か。私はかげと呼ばれる者。この国を陰から支える者だ」

「『陰』……」

 陰などという者のことを、葵は知らない。しかし、ここにいて自分を拐かしたということは、草壁の敵だと見て違いあるまい。

 口が塞がれていないことが幸いだ。時間を稼ぎ、引き出せるだけの言葉を彼から引き出さなければならない。

 葵は、首筋を冷や汗が伝うのを感じた。

「何故、わたしを拐ったのですか」

「何故。それは、きみがよくわかっているのではないかな? 草壁に組する都外そとの娘」

「わたしの考えが正しいというのなら、わたしを拐って草壁皇子様を春宮から下ろすための手駒とするためでしょう。わたしを盾に説き伏せられる、そう考えているのではありませんか?」

「ふふっ、さとい娘だな」

 否定しないということは、葵の推測が正しいということだ。しかし、彼らの主は誤算している。

 葵は出来るだけ不敵に見えるよう努め、笑みを浮かべた。彼女の表情を見て、男がぎょっとした顔をした。

「……何がおかしい?」

「あなたたちが、思い違いをしているから」

「思い違いか」

「ええ、そう」

 目の前に膝をつき、こちらに深淵のような瞳を向ける陰の男。葵はその瞳を逸らさず見詰め、落ち着いた声で言葉を紡ぐ。

 その実、胸の奥が激しく鼓動していたのだが。

「言ってみろ。私たちは、何を思い違いしている?」

「……」

 すっと息を吸う。今から葵が口にする言葉は、きっと真実だ。真実であると同時に、彼女にとっては自らを傷付ける刃ともなる。

(だとしても、皇子様を降ろしたくない。……わたしたちにも笑みを向けて下さる方だから)

 目を閉じ、心を落ち着かせる。大丈夫、と繰り返す。

「あなた方がもしもわたしを殺したとしても……皇子様の理想は、夢はついえません」

「――――ほお」

 大袈裟に驚いてみせた陰は、葵の目を覗き込んだ。大抵の子どもは、陰の目に射抜かれると泣き出すか気を失う。それ程に、彼の眼力は鋭い。

「っ」

 しかし、葵は折れない。その目に宿った決意の光は、陰の驚きを誘った。

「成程、ね」

 距離を取り、陰は自分の顎に指をあてた。そして、自分の雇い主のことを考える。陰の雇い主・佐庭の当主のことだ。

 今頃、陰の報告を待っていることだろう。葵がさらわれ、その交換条件として春宮の位を拒否することを提示すれば草壁は落ちる。佐庭はそう考えて疑わない。

(だが、そうはいかないようだ)

 陰の目が、再び葵に向く。葵は逃げ道を探して視線を彷徨わせ、陰に気付かない。だからこそ、面白い。

「……葵、といったか。外の娘」

「ええ」

「私は雇われた身だ。この世の泥底どろぞこの更に底にいて、佐庭に拾われた。命を救われた恩がある」

 そう言って、狐のような目を更に細める。

「きみの言ったことは、真実だろう。きみを殺してとしても、世は動かない。大王おおきみの地位があの男の思い通りになるわけでもない。でも、あの男はそれを事実としようとしている。それを止める術を、私は持たない」

 自分は所詮、この世の泥だ。陰は自嘲的に笑った。

「きみを逃がせば、私は殺されよう。だから、残念だが逃がすことは出来ない。……もしきみの友が命がけで助けに来ると言うのなら、こちらも相応のもてなしをしよう」

「あ、待っ……」

 陰の姿が、闇に溶ける。正しくは、部屋の外に出て行ってしまった。

 葵は這うようにして、閉じてしまった壁を殴った。ドンッという衝撃音はするものの、動く気配はない。

「だめ、か」

 耳を壁につける。すると、壁の向こう側に人の衣擦れの音がする。二人分だ。

 陰は、葵を見張る者を少なくとも二人は置いている。

「……帰りたい」

 唐突に、葵の胸に去来した。何処に帰りたいのか、その問いの答えは明快だ。

「ううん、帰る。千歳と、草壁皇子様と、白兎と、兼良さんがいる所に、必ず帰る」

 葵は再び、逃げ道を探し始めた。


 それから少し時が経ち、陰と呼ばれる男の姿は佐庭の邸に招き入れられていた。

 目の前には企み顔の佐庭当主が胡坐をかき、陰の報告を聞いていた。

「よしよし、娘を捕えることは出来た。これで、あの皇子もこちらの言いなりだ。……次代の皇太子は、大津様へと進言出来る」

 葵を閉じ込めたと聞いた当主は、うんうんと頷き嬉しそうに笑った。その胸にあるのは、当代大王へ自分の都合の良い皇子を推薦することのみだ。それさえ成せれば、あとはどうとでもなる。

 正式な皇太子選定のみことのりは、実はまだ出ていない。それが出されないのは、大王が迷っているからだという噂もある。

 だとするならば、佐庭が背を押して差し上げよう。そういう魂胆なのだ。

 佐庭は自分とひざを突き合わせている男を、よくやったと褒め称えた。

「これで、あの皇子も動けまい。よくやったぞ、陰」

「お褒めに預かり光栄です」

「うむ。では、次の指示があるまで待て」

「はっ」

 雇い主の眼前を離れ、陰は息をついた。

 思い出されるのは、囚われても尚光を失わない娘の姿だ。

「やってみろ、葵。お前たちの力で、夢をうつつと変えてみせろ」

 これから先は、陰のあずかり知らぬ領域だ。


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