第二十六話 暗殺者
仕事を始めてからも、葵の眉間にはしわが寄ったままだ。休み時間、難しい顔を続ける葵の額がパチンッと弾かれる。現代で言うところの、所謂デコピンである。
「――いったい!」
「よくそれだけ難しい顔出来るよな。そろそろいつもの顔に戻さないと戻れなくなるぞ」
「千歳……」
目の前で歯を見せて笑う千歳を見て、葵は額を指でさすった。
「ごめん。でも、気になって仕方なくて」
「その気持ちは素直に嬉しいよ、ありがとう。でもそんな顔はしてほしくないかな」「う~……そうだね、気を付ける」
ぎゅっと目を瞑り、葵は首を左右に振った。そうして全てを元に戻したつもりになって、目を開ける。
目の前には、笑いを堪える千歳の顔があった。
「……千歳」
「ご、ごめんっ。何か頑張って元に戻そうとしてるのが可愛く……っ」
「どうしたの?」
急に顔を真っ赤にした千歳に、葵は首を傾げた。千歳は自分の口元を手で隠して「なんでもない」と呟く。
「――とにかく、おれのことは心配いらない。葵を悲しませるようなことはないから、葵も無茶だけはするな」
「うん、わかった」
よしっと気合を入れ直し、葵は再び仕事に向かう。その姿を見ながら、千歳は目元を優しく緩めた。
「……今度こそ、お前はおれが守るから」
「何か言った?」
千歳が何か言った気がして、葵は顔を上げた。しかし、千歳は首を横に振る。
「何も言ってない。おれは向こうに行くな」
「うん」
軽く手を振って葵の傍を離れた千歳は、一人草壁の宮を出た。少し、役所の方面に用事があるのだ。
「……」
幾つかの建物の横を通り抜け、目的地へと進む。歩く速度を変えず、ただいつも通りに歩いていた。
しかし、何かがおかしい。歩みを止めることなく若干速度を緩め、千歳は気配を探った。
(一人。いや、二人……複数か。おれ一人にご苦労だな)
千歳はため息を噛み殺し、そのまま目的地へと進むと見せかけて方向を変えた。そのまま行けば、役所に迷惑をかけるかもしれないからだ。
歩く先にあるのは、宮の建物ではない。それらを通り越し、田畑が広がる都の外側を目指す。
向こうもそれに気付いたのか、少しずつ殺気を隠すことを止め始めた。互いの距離が詰まっていく気配を感じる。
徐々に、胸の奥の鼓動が速まる。緊張か、不安か。そのどちらもだなと千歳は内心苦笑する。
そんなことをつらつらと考えている間に、周りには草や木といった自然物があるのみとなった。きょろきょろと見渡さずとも、建物がほとんどないことなどわかっている。
「……ふう」
まだ日は高いが、千歳の周りには冷え冷えとした空気が漂う。
息を吐き、千歳は立ち止まった。すると、彼を追っていた者たちの動きも止まる。くるっと体ごと振り返り、千歳は口を開いた。
「おれのこと、追って来たんだろ? 相手してやるから出て……っ」
ぐらり、と視界が揺れる。今か、と千歳が口惜しくなろうが後の祭りだ。
千歳の目の前に、現実の景色と見えた景色が重なる。その時に起こる強烈な頭痛は、千歳の悩みの種だ。時に気絶の原因ともなるそれは、抗うことも難しいものだ。
ズキズキと痛むものを持て余しながら、千歳は目の前に現れた者たちを観察する。同時並行でそれぞれの後の動きも見えるため、対策は立てやすい。
ただし、千歳がいつもの実力を発揮出来る状態であれば、の話だ。
「くっ……」
倒れそうになる体を両足踏ん張って支え、ガンガンと鳴る頭に左手を添える。添えただけでは気休めにすらならないが、うまい対処法が思いつかない。
千歳の前に出て来たのは、全部で四人。どの人も目が見える以外は全て素性を布で隠しており、誰かという判別はつかない。
二人が
(こんなところで殺されるわけには、いかないんだよな)
未来の光景が薄れるにつれ、頭痛は落ち着いていく。自分は殺されるのだから、その先のものは要らないということだろうか。
明瞭になった視界の中、千歳はこちらの様子を窺う者たちに尋ねた。勿論、返事を期待してなどいない。
「お前らの雇い主は誰だ? おれを殺しても、草壁皇子様が位を継がれる可能性が高いという事実は変わらないぞ」
「……」
誰も何も発しない。ただ静かな殺意がそこにある。
千歳は常に衣の下に隠し持っている短い剣を構え、いつでも動き出せるように片足を引いた。先程見えた未来の中では、矛を使う者が最初に動き出すはずだ。
「う、あああああっ!」
案の定矛が千歳を正面から襲い、千歳は紙一重で躱す。そして、振り向きざまに剣を一閃。矛の柄を二つに分裂させた。
更に弩が飛んで来る。千歳は跳んでそれを躱すと、地を蹴って距離を詰める。相手が矢を弩につけるよりも早く接近し、横腹に回し蹴りを食らわせた。
「―――っ」
二人を立て続けに倒され、相手が怯む。その隙を突き、千歳は剣を持つ相手の手から剣を蹴り飛ばす。ヒュンヒュンと回りながら飛んだ剣は、少し離れた場所に突き刺さる。
残りは、一人。
「……さあ、どうする?」
「……」
残ったのは、四人のまとめ役らしき図体の大きな男だ。その巨漢は喉を鳴らし、弩で千歳を狙ったまま口を開いた。
「お前が我々と共に来るのであれば、よかったのだが」
「申し訳ないが、期待には応えられない」
心底残念そうな男の声に、千歳は即答する。
千歳が見た未来で千歳を殺すのは、彼だ。一切の油断はしない。
男も、千歳が拒否することはわかっていたのだろう。薄く笑い声を上げると、弩を引く。
「それは残念。あの方も、口惜しく思われるだろうな」
「お前もな。無傷で帰れると思うなよ」
そう言うが早いか、千歳は助走をつけて跳び上がった。素早く動くことで弩の狙いを外す作戦だ。剣を振り下ろしながら地に降りるが、敵も簡単には諦めない。
弩で千歳の剣を受け止めると、力任せに千歳を投げ飛ばす。
「がっ」
木に叩きつけられた千歳は、ドサリと根元に尻もちをついた。しかし、痛みを訴える余裕など与えてはもらえない。
――ドッ
千歳のこめかみ近くを弩の矢が飛ぶ。木の幹に刺さったそれからは、嫌なにおいがした。
「毒か」
「ご明察。言うことを聞かない場合は殺せ、との命令だからな。悪く思うなよ」
においを嫌って幹から離れた千歳の耳に、男の忍び笑いが聞こえる。更につがえられた矢が、確実に千歳を狙っている。
(あれにあたったら、死ぬな)
それでは見えた通りの結果だ。千歳は、その未来を変えるために動いていた。
いつもならば絶対にしないことを、千歳はやる。助けを呼ぶのだ。懐から取り出した麻で造られた袋を見詰め、千歳は死なないために駆け出す。
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