第三話 防人の任

 大宰府にて。千歳と梓は壱岐に、そして一太は筑前の沿岸部に配されることとなった。

「ここで一時いっときの別れだな」

「ええ。一太さん、三年後にまたお会いしましょう」

「俺と梓さんと一太さん。きっと、一緒に帰りましょう」

「……そうだな」

 千歳と梓が壱岐に出立する時、三人は港で再会を約束した。

 港で手を振る他の防人たちと一太に船の上から手を振り、二人はまだ見ぬ島へと向かうこととなる。


 千歳たちの任は、沿岸部で外つ国から来るかもしれない軍を見張り、もし見つけた際には報告すること、そして迎え撃つことだ。

「もし敵がやって来たとして、僕たちに抗う術はあるんだろうか……?」

「梓さん、そんなことを言ってるのが役人に見つかったら大ごとですよ。気持ちはとってもよくわかりますけどね」

「ああ、そうだね」

 日がな一日、真っ直ぐに海を見つめる。素朴な防具に身を包み、潮風を浴びる。時折山の上で煙が上がり緊張が走るが、大抵は漁をする船を見間違えたものだ。

 壱岐に来て、ひと月。働きに対する報いはない。一応食べ物は最低限分け与えられるが、それだけだ。

 時折、大宰府内でむしゃくしゃすることでもあったのか、役人が理由もなく防人を蹴り倒したり殴ることがある。そんな時でも、誰も助けはしない。助けても、益はないからだ。梓もいつの間にか、ただそ知らぬふりをするようになっていた。

「―――っ、やめてください」

 しかし、千歳は違った。

 一方的に殴られるだけの青年をかばい、役人に盾突く。すっかり大宰府の問題児となっていた。それでいて喧嘩も強いのだから、役人も引き下がってしまう。

 今も役人は唾を吐き、肩を怒らせて何処かへ去って行った。

「怪我はないですか?」

「あ、ああ。助かったよ……。きみも生傷だらけじゃないか」

「いつものことですから」

 青年に傷口を洗うよう言い、千歳は梓の傍に戻って来た。

「いつも、よくやるよ」

「そうですか? でも、性に合わないので」

 先読みしながら喧嘩してますから。そんなことを言って笑うが、梓は知っている。

 自分を含め、千歳も先程の青年も、見るからに痩せている。力など、とうの昔に失ってしまった。役人に盾突こうなどと、考える余裕などない。

 それでも自分の意志を保ち続ける千歳を、梓は不思議に思っていた。だから、一度だけ聞いたことがある。

「……どうして千歳は、自分が正しいと思うことを実際にやることが出来るんだい?」

「どうしてって……」

 千歳は少し考え、優しく微笑んだ。

「待ってるやつに、顔向け出来ないことはしたくないんです」

「そう、か」

 千歳が言う『待ってるやつ』とは、官吏の娘である葵のことだろう。幼い頃から仲のよかった二人がお互いをどう思っているかなんて、あの村に暮らす同い年の少年少女やその少し上の年代ならば、誰もが気付いている。その想いが実るはずもないことすらも。

 それでも、千歳は葵との約束を守り続ける。

 どれほど報いのないやる気を失うような任だったとしても、どれほど理不尽な理由で殴られようとも、千歳は曲げない。真っ直ぐな木のようだ。


 二年後、一太が病にかかったことを二人は知る。

 しかし見舞いに行くことすらも許されない。熱病だとの噂はあったが、本当のところはわからなかった。

「一太さんに、会いたいですね」

「そうだね、千歳。……もう、帰りたいよ」

 壱岐は船でしか辿り着けない。しかし陸続きである筑前では、防人の任から逃げ出す者が後を絶たないらしい。誰もが、この終わらないのではないかとも思える任から逃げ出したいのだ。その後、故郷に帰れる保証もないが。

 一太が亡くなったと聞いたのは、その半年後だった。

 あの豪快な笑い方を見ることも出来なければ、大げさな冗談を聞くことも出来ない。千歳と梓は懐かしい友を喪った悲しみを、いつ見ても変わらない海に漂わせた。


 更に一年後、千歳と梓は防人の任を解かれた。春先の、まだ冷たい風が吹く頃である。

 当然のごとく、何も持たされなかった。服も食べ物も、何もかも。

 任が終われば死んでも良い。そう捨てられたような心地がした。

 既に体には充分な力がない。

「……確かに、これでは道半ばで死ぬ者がいてもおかしくないね」

「でも、ようやく故郷を目指せるんです。……きっと、戻りましょう」

 本当ならば、もう一人いてほしかった。梓の懐には、一太が亡くなる前に残したという貝殻と大宰府の砂を入れた小さな袋が入っている。これらを妻子に持ち帰りたがっていたのだと言う。

 何十日も経ったように思う。どうにか豊前と長門の間を渡り、土地の人々に助けられながら二人は播磨までやって来た。

 道が二つに分かれている。左を進めば、故郷へ近付く。

 迷うことなく左へ進もうとした梓に、千歳が待ったをかけた。

「……梓さん、おれは右へ行きます」

「右へ? どうして……」

「あいつとの約束、行く時には時間がなくて果たせなかったので」

「一人で、行くのかい?」

「はい」

 右は、梓も知らぬ道だ。きっと、千歳も。

 生きて再びこの分岐点に戻ってくることは難しかろう。もしかしたらを想像し、梓は千歳を止めた。

「都を見る、と言うんだろ? だけど今のぼくたちじゃ、辿り着けるかどうかもわからない。きちんと食べ物なんかを持って、改めて行くべきじゃないのかい?」

「そうかもしれません」

 千歳ははっきりと言った。そして、「でも」と微笑む。

「おれは、行きます。あいつには、梓さんが先に伝えておいてください。『千歳は、都を見てから帰る』って」

「千歳……」

「必ず、一太さんの残したものをご家族に渡してくださいね。……じゃあ」

 千歳はぺこりと頭を下げると、二度と振り返らなかった。

 未知の先へと、真っ直ぐに歩いて行く。

 それ以降、千歳の姿が故郷の村で見られることはなかった。


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