第二話 いざ、大宰府へ
「来たか」
心身ともに疲れ切った千歳たちを港で迎えたのは、これまで行動を共にした役人とは異なり、いかつい顔をした男だった。
難波津と呼ばれるその場所は、幾つもの川が流れ込む港だ。村では見たことのない鳥が、海へ向かって飛んで行く。
千歳は雪に包まれた故郷とはまた違う海辺の雰囲気に驚きながら、梓や一太と共に用意されていた船に乗り込んだ。
海へ出て、すぐに見えたのは淡路という島だ。その横を滑り、陸と陸に挟まれた海を行く。幾つもの島が混在するという、波の静かな青い世界。
「……う。気持ち悪い」
「だ、大事ないですか?」
何人かが梓と同じように臥せっている。船を操る男曰く、船酔いというらしい。
千歳は梓の傍に座り、彼に飲み水を手渡した。
「ありが、とう。千歳は、酔わないのかい?」
「はい。山育ちなのに、おれは何ともありません。だから、ゆっくり休んでください」
「ああ、そうする……」
目を閉じて休む梓のもとを離れ、千歳は船の上空を見上げた。
雲一つなく、晴れ渡っている。時折飛ぶ鳥は、船と並び、またどこかへと飛んで行く。山の中にいたのでは決して見られなかった光景が、ここにはある。
「……葵にも、見せてやりたいな」
故郷に残した幼馴染の顔を思い出し、息をつく。彼女がこの空と海を見たら、何と言うだろうか。
「……歌の才でもあれば、よかったのにな」
残念ながら、千歳は文字を満足に書いたり読んだりすることが出来ない。歌というものがあり、それがどんなものかは知っているが、自ら口ずさむことは難しい。それでも、心に浮かんだ言葉を呟いてみた。
「――わだつみの……っ」
左目に痛みが走る。時折起こる、幼い頃から慣れ親しんだ現象だ。千歳は首から下げた勾玉を握り締め、痛みに耐える。
その翡翠の勾玉は、幼い頃に葵から貰ったお守りだ。葵も同じものを持っているはずだ。
徐々に落ち着く痛みに安堵した時、千歳の中で色が広がる。
色は形を作り、景色を見せる。
それが意味することを感じ、千歳は微笑んだ。
「梓さんに、教えなくちゃな」
丁度、ふらつきながらも梓がこちらに手を振っていた。落ち着いたのだろう。
「梓さん」
「ああ、千歳。きみのお蔭で少しましになったよ」
「よかった。あ、そうだ」
にこり、と微笑んだ千歳は、不思議そうに首を傾げる梓にこう言った。
「明日の朝、美しいものが見られますよ」
「美しいもの……?」
それは何かと尋ねても、千歳は笑うだけだ。
「それは、見てからのお楽しみです」
千歳の言う意味がわかったのは、夕方からの大雨をくぐり抜けた翌日の早朝だった。
それは、複数色をした光の橋。海と空をつなぐ、美しい懸け橋。
雨の後、空が見せてくれる夢のような景色。人々は、それを虹と呼んだ。
ずぶぬれであることも忘れ、梓はぽかんと空を見上げた。隣に座る千歳は、まるで知っていたかのように当たり前の笑顔で虹を見ている。少し離れたところにいる一太も、他の防人たちと歓声を上げていた。
「……どうして、虹が出るとわかったんだい?」
「さあ、どうしてでしょうね。昔から、少しだけ先のことを見ることがあったんです。見る直前には目に痛みがあるんですけどね」
梓が千歳の目を見つめても、そこに何か特別なものがあるということはない。両目共に、鮮やかな若草のような緑色が見える。
「まだ先はありますけど、必ずやり遂げましょう」
「……そうだね、千歳」
苦笑のような梓の笑みに、千歳は安堵した。
大雨の後の虹は、驚きと共に心を揺さぶる。それは先を見る余裕をくれる。少しでも梓が船酔いを忘れてくれればと思っていたが、思った以上の結果を得られた。
だからこそ、幼い頃から抱き続けた疑問が頭をかすめる。
(何で、おれは先のことを知ることが出来るんだろう?)
知りたい時に見えるわけではない。時折、思い出したように発現する。その理由も何もかも、千歳はまだ知らない。
船は穏やかな波に揺られつつ、進んで行く。海へ出て、もうすぐ二日目の夜を迎えようとしていた。
大宰府まで、あと十数日はかかるだろう。
願わくは、誰一人欠けませんように。
何度も朝と夜を迎え、千歳たちは憔悴していた。陸地に足をつかない暮らしは、思う以上に過酷なものだ。
だからこそ、「陸だ!」と誰かが叫んだ時、船の上は歓喜に打ち震えた。
久し振りの陸地の感覚。遠くを見れば、大きな建物が見えた。山と山の間を塞ぐように一直線だ。
「あれは、
役人の男はそう言うと、川に沿って歩き始めた。彼について行くと、どんどんと水城が近付いて来る。そして、その先に立派な一つの町がある。あれが大宰府だろう。その更に向こうに見える山にも建物があった。聞けば、大野城というらしい。
脚はもつれ、倒れそうだ。
しかし、前を向くしかない。千歳は重たくなった足を上げ、役人について歩き出した。
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