第4話 光はさだめ さだめは死
息を止めたまま、視線だけで彼女の後を追い掛けます。今度こそ、見失う訳にはいきません。
女王様の室内への侵入を許してしまったのです。もう、なにがなんでも捕えねばならないでしょう。
猛将・島津義弘のように、陣中突破を試みて屋外へと血路を開こうとでもいうのならば援護もしましょうが、深夜一〇時をとうに回った時刻では無理と云うもの。ハチの女王様が、暗い闇の中へ突き進もうとする道理がありません。
かといってこのまま室内に留まられ、最悪家族に被害が及ぶのは、何としても阻止せねばならないのです。
彼女は一直線に上昇しようとしていました。その先にあるのは、部屋を明るく照らす照明器具。
凶悪なスズメバチだろうとやはり昆虫、明るい方へと進路を取ったのでした。正の「走行性」とかいうそうですけど。(反対に光から逃げるのは負の「走行性」)難しい理屈はともかく、彼女がわたしから離れて行ったのは紛れもない事実です。ようやく息が付けました。
そして飛び去る彼女の後姿を眺めつつ、わたしはひとつの可能性を考えていました。
的中すれば形勢逆転を計れますが、それには女王様がどう動くかがカギとなります。ここは静かに、彼女の動向を追うしかありません。
彼女が向かった先――蛍光灯は、デザイン自体はよくある円盤型(本体下部を覆うカバーがお椀型のもの)で、横から見ると蓋をした浅いお椀かボウルのような形をしています。カバーの中央からプルスイッチ(引きひも)が垂れ下がり、これを引くことで点灯・消灯する仕組みです。
器具は天井に設置された引掛シーリングに本体キャップを差し込む事で取り付けてありますが、ぺンダント(吊り下げ)タイプなので、天井と照明器具の間に一五センチほどの空間が
わたしは女王様がこの空間に着地し、
まずは敵の位置を
「いた! ハチ、なかにいる。入って来ちゃった、今、照明のところ!」
また日本語になっていませんね。ほぼ単語を並べただけです。
しかし夫婦生活ン十年、年季の入った夫婦間では、これが通じるのです。
「スズメバチが(多分)身体に付着していたらしく、わたしと一緒に部屋の中に入って来てしまった。今、照明器具のところまで飛んで行ったから、確認して欲しい」と。
女王様の姿を見つけられず、半ば興味を失っていた主人でしたが、即座に反応してくれました。キッチンに置いてあった脚立を持って、戻ってきます。もちろん片手には、我が家のエクスカリバーともいうべき、あの
照明の下に脚立を立てると、殺虫剤をすぐに放射できるよう右手の人差し指をスプレーのトリガーに掛けたまま、脚立のステップを一段一段慎重に昇って行きます。さすがに主人も緊張感を隠せません。
ステップは二段。上りきったところで、意を決して、照明器具へと顔を近づけます。
二~三秒の間ののちに、
「やった! いいところに入り込んでくれた!」
主人は、すでに勝利を手にした顔で合図を送ってきました。あの表情からして、どうやら彼女はこちらの思惑通りに動いてくれたようです。思わず頷いていました。
幸か不幸か。
ご自分の選択が勝負の明暗を分けていた――とは、この時、女王様は思ってもいなかったことでしょう。
でもね。想えば彼女だって不意打ちを喰らったのです。
物干しざおのハンガーの上を一夜の宿として眠っていたのに、急にガチャガチャと音を立ててベッドが揺れ始めたのですよ。なにごとかと目を擦り(←注:もちろん比喩)状況を窺っていれば、突然明るい光が差し、足の下では人間のつがいが大騒ぎを始めたのですから。
異変を感じ、逃げた先の物体に張り付いていれば、いきなり明るいところに連れて来られ、光源に向かって飛び立てば、またつがいが騒ぎ出す……。
とんでもない災難ですよね。
話を戻しましょう。
照明器具の
女王様はこの穴から照明内部に入り込み、蛍光灯とカバーの間においでになるというのです。正の「走行性」と云う本能の仕業もありましょうが、光源に導かれるままにおん自ら密閉された空間に飛び込んで、「袋のネズミ」ならぬ「袋のハチ」とおなりあそばされたのでした。
実は、以前にも夜間室内に迷い込んだ昆虫が、その空気穴から蛍光灯内部に侵入した事件がありました。
この和室に限らず、昼間野外で活動する昆虫が夜間室内に忍び込んだ場合、たいてい光源を目指しそこから離れようとしないのはよくあることです。
スズメバチの女王様が前轍を踏んでくださるか否かは賭けでしたが、安眠中を叩き起こされ、暗い屋外からいきなり煌々と明るい室内に連れ込まれた彼女とて動転していたと見えます。焦った人間が曲がり角で左へ曲がりたがる習性があるように、昆虫の彼女は明るい場所へと急いだのかもしれません(推測)。
そうはいっても、興奮状態の彼女が一か所にジッと留まっていてくれないばかりか、室内を飛び回り、勢いづいて攻撃に転じられることをわたしは危惧していました。
ですが照明器具内部に入り込んだ昆虫が、そこから抜け出すことは(十中八九)ないでしょう。特に、和室の照明のデザインは「密閉された箱」のようなもの。
小さな空気穴から入って、丸型LED蛍光灯とカバーの間に開いた(虫にとっては広い)空間にまで進んだら、眩しさと熱に煽られてしまいます。
そこから根性でもう一度暗い上部の空気穴まで這い上り脱出した――なんて例は記憶にありません。一種の、罠にかかったような状態なのです。
この絶好のチャンスを見逃す主人ではありませんでした。わたしとて、こうなっては生かして逃がすなどと云う余裕などありません。我が家の安全が優先、です。
可哀相とは思いましたが、女王様の運命は決定したのでした。
万が一のことを考えて、リビングとの境のふすまを閉め、和室を密室状態にしました。そして、主人は器具上部の空気穴から、内部に向かって殺虫剤を噴霧します。
勢いよく吹き出す毒ガス。女王様に逃げ場はありません。
何度トリガーを引いたでしょうか。昆虫一匹と云えど、反撃に出られたら、脚立の上と云う足場の不安定な場所にいる人間の方が危険なのです。処刑人は執拗でした。
照明器具内部と云う狭い空間は殺虫剤が充満し、ほどなく女王様は動かなくなりました。
* * * *
部屋の空気を入れ替え終わった頃、わたしたちは照明器具を天井から下ろしカバーを外してみました。
なかには、身体を丸めた女王様の亡骸が転がっています。体長2センチほど。
夫婦してため息を付いていました。
キイロスズメバチはスズメバチ科の中では小型だとは言われていますが、やはり大きいです。ミツバチやアシナガバチどころではありません。
「巣を作ろうとしていたのかな」
「う~ん、どうかしら」
死してなお鮮やかに美しい黄色と黒の模様を眺めながら、心の中で合掌します。
彼女の真意は、もう永遠にわかりません。でもこのお方にベランダもしくはその付近に城を築かれ、配下のメイドさんたちに飛び回られたら……などと想像しただけで、まためまいが襲ってきました。きっとニアミス事故が起こり、被害が出ていたに違いありません。
どうしても「未然に防げて良かった」と云う気持ちの方が勝ってしまいます。
プランターのいちごと、さして変わらぬ大きさの女王様。でもご存命のおりに拝見したお姿は、もっと威厳があり、もっともっと大きく強く見えたのに……。
ご遺体は新聞紙に包んで、更にコンビニのレジ袋に詰められ、ゴミ箱へ。敗者の最期は、いつも哀しいものです。
(不幸な偶然のせいで、種の繁栄を望みながら成し得なかった女王様……)
深夜に主人とふたりで、殺虫剤まみれになった照明器具一式を掃除しなければならなくなりました。致し方ありません。
が――。
手を動かしつつ、いつの間にか、あれほど「書かない!!」と誓ったエッセイ続編の構想を練り始めてしまったは、やはり災難でしょうか……?
* * * *
最後までお付き合い、ありがとうございました。これにて「リターンズ」も幕を引かせていただきます。
女王様の死で我が家にも平和が戻ってきましたが、彼女の名誉のために捕捉をさせてください。
アシナガバチもスズメバチも、人間が不用意に近づかなければ襲って来ることはありません。知らないうちに彼らのテリトリーに踏み込んでしまったり、不幸な偶然で接触してしまったりした場合が危険なのです。
そうなった場合、襲って来るのは働き蜂であり女王蜂はまず表に出てきません。役割が違うからです。今回のように営巣前の女王蜂を見かけたら、まず巣をつくらせないこと。
女王様は、いきなり攻撃を仕掛けるようなことはしません。でも、絶対刺さないという訳でもないようですから、そこはご用心を!
今回わたしが刺されずに済んだのは、相手が営巣前の女王様であったことや、夜間で彼女の動きが鈍かったことなど、ラッキーな偶然がいくつか重なっていたこともあるはずです。
おっとりしているといっても、決して油断をしてはいけません。だって、巣を作り始めたら仕事早いんですもの。あらまあ……なんて感心していると、いつの間にか彼女の周りには強屈なボディガード兼メイドさんが張り付いているのです。
この働き者で気の荒い戦うメイドさん(働き蜂は全員メス!)たちの増員だけは、何としても阻止しましょう。とはいえ、もうお城が出来てしまっていたら、無理をせずプロの方に撤去をお願いすることをお勧めします。
三話にも書きましたが、ハチの刺害は増えています。ときには、死者も出すほどです。アレルギーが無いからといって安心はできません。本当に、お気を付けくださいね。
それでは、今度こそ「続編は書きません!!」。
女王様とわたし リターンズ ~ベランダ春の陣~ 澳 加純 @Leslie24M
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