第8話

 五月になった。だがいつものように池に、おたまじゃくしがひしめかない。


 池の水はずいぶん入れかえておらずドロっと緑色に濁っているから、池の底にゴムホースのように産みつけられる卵は外からはすこしもみえない。が、おたまじゃくしがいないということは、親蛙はこなかったのにちがいない。


 ジイちゃんが死んでからずっと、頼みもしないのにやってきては池一ぱいに卵を産みつけていった蛙は、こなかったのだ。

 

 何日かして遊びにやってきた上の孫にそのことを話したが、


「そうかァ、もう来ないのかもしれないネ」


 テレビのほうをみながらたいして興味もなさそうに言う。あたしは孫と反対を向いて、静かな池の水面をただじーっとながめている。


 孫たちは自家にきてくれても、三時間もいれば東京のじぶんの家へ帰ってしまう。最近では家にいるあいだだってほとんどは電話のキカイなんかをいじっていてぼけーっとテレビばかり観ていて、あたしなんぞ気にもされていないらしい。下の孫は仕事がいそがしくなってきたのかこのごろはすっかり遊びにこなくなったし、電話もとんとよこさなくなった。


 雨の日ばかりつづくようになった七月のある日、あたしはめずらしく調子もよくて、なんとなくしおちゃんのところへいってみようと思った。あたしたちの家の庭はつながっていて、まん中に立てられている竹づくりの柵、あれはただのおかざりで実際は柵の端のすきまから簡単に行き来ができる。


「しおちゃん、あがるよォ」


 あたしはそう言って、勝手口の戸をあけて家にあがった。しおちゃんは縁側につづく居間の、テレビのまえの籐椅子に座っているものと思ったが、台所からながめてみてもしおちゃんの姿はみえなかった。


 あの籐椅子はもともとあたしの家にあったものでジイちゃんのお気にいりの椅子だった。しおちゃんは自家に茶をのみにくるたび、


「あーこの椅子いいなァ」


 と、赤ん坊でもなでるようにうっとりした顔つきでその背もたれをさすっていた。だからジイちゃんが死んだあとあたしはあの椅子をしおちゃんにやることにした。ジイちゃんはあの椅子が好きだったが、あたしは痩せて骨ばっているから背もたれのかたい籐椅子はどうにもつらかった。


「だけど、旦那さんの形見だろうから……」


 しおちゃんはそう言ってなかなか受けとらなかったから、あたしは無理やり持っていってあの居間へ置いてきてやった。あのころはまだあたしのからだも、若々しくて力に溢れていたのだ。


 あたしは台所から居間にむかって、


「しおちゃん、いるかい?」


 もう一度呼んでみた。だがやっぱり返事はない。あたしの声ももうじぶんで思っているよりもちいさくて居間のほうまできこえないのかもしれない。


 ハッと、しおちゃんは二階にいるのかもしれないと思って心配になった。あたしはもう二階ではにあがることができないのだ。しおちゃんがもし二階で倒れていても、あたしは助けにいくことができないのだ。


 どうしようどうしようと思ったそのとき、


「ヨッちゃん、ヨッちゃん」


 居間のほうからそう呼ぶ弱々しい声がきこえて、急いでそっちへいくとしおちゃんが布団にくるまって寝ている。


 あたしはテレビのまえの籐椅子に座っているしおちゃんばかり想像していたから、その後ろで横になっているとは考えもしなかった。それにしおちゃんはカーペットの上に布団を一枚かけているだけで、 しおれた煎餅のように薄ッぺらく寝ていたのだ。


 あたしは関節の具合痛いのも忘れてわすれてしおちゃんのところへ寄っていって、


「しおちゃん、どうしたの?」


 そうきいたのだがしおちゃんは、


「……」


 肩で息をするばかりなのだ。肺の具合がひどくなってきたのかもしれない。


 その日、おそくまで看病してやってそれからあたしは自家へもどった。看病といってもあたしもじぶんのことで手一ぱいの年寄りだから、水をほんのすこし、唇をしめしてやるくらいに飲ませて、それから冷蔵庫のなかにあったプリンの残りを、これもひと口だがスプーンで掬って食わせてやっただけだ。


 そのあとまた水を飲ませて、ゆっくりと背なかをさすってやったらしおちゃんはすこしだけラクそうな顔をしていた。


「救急車を呼んだほうがいいかい?」


 そうきいたら、


「病院はやめて」


 しおちゃんは言った。


「カズオちゃんには、連絡しなきゃ」


 あたしはせめてしおちゃんの伜には教えてやらなければと思ったのだが、


「それも、やめて」


 しおちゃんはそう言ってきかないのだ。


 伜のカズオちゃんはおおきな石油の会社に勤めていてもうずいぶんながいこと外国で暮らしている。だがあの子もいそがしいだろうから連絡はしたくない、しおちゃんはそう言うのだ。


「メーワク、かけたくない」


 うわごとのようにくり返す。カズオちゃんのことはあの子がどうしようもないションベン垂れだったころからあたしは知っているが、考えてみたらもう何年も顔をみていない。カズオちゃんはどこか、ヨーロッパだかアフリカだかで暮らしていて、むこうで嫁もみつけてコドモまでいるらしい。もうあっちに住みつづけるつもりなのだろう。まいとし正月に年賀状がわりの手紙がひとつ届くだけで、ここ数年は電話もろくにかけてこないのだといつかしおちゃんは言っていた。

 

しおちゃんは寂しいにちがいなかった。だがそんなことよりも、カズオちゃんの邪魔になりたくないのだ。


 あたしはそれでも、


「連絡しといたほうが」


 そう言ったのだが、


「やめて、やめて」


 しおちゃんはきかない。すがるようになみだを目一ぱいに溜めて言うので、あたしはなにも言えなくなってしまった。


「全部すんだら、連絡して」


 あたしの顔をじーっとみつめて、しおちゃんは念をおすようにそう言った。しおちゃんは昔ッからいつも、


「病気になったら医者なんかいかずに、潔く死にたいヨ」


 と言っていた。これはジイちゃんの口癖だった。ジイちゃんは若いころからこんなことを言っていて、これはジイちゃんのポリシイだったのだ。いつでもそれを聞かされていたからあたしもしおちゃんも旦那さんも、みんなそう考えるようになったのだろう、それなのにあたしは、ものわすれがひどいせいかじぶんが不安だからか、ついうっかりして、


「しおちゃんを、病院へ」


 などと思ってしまったのだ。だが一度きめたら絶対に曲げないしおちゃんの強情ッぷりは長年姉妹のようにやってきたあたしが一番よくわかっている。だから、


「わかったよ、全部すんだら、ネ」


 あたしはそうこたえるしかなかった。だが外国にいるカズオちゃんにいったいどうやって連絡すればいいのかわからない。そのときは、そうだ、孫たちにおねがいしよう。下の子は外国をぶらぶらしていたのだから、今度あの子が電話でもよこしたらちょっと相談してみよう。

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