第3話
「ずいぶん、風呂に入ってないんじゃないの?」
こないだ自家へあそびにきた下の孫が、にやにやと笑ったような顔をしながらそんなことを言った。バカにしてやがるのかァ? と一寸腹もたったが、たしかによく考えたらもうずっと、二階にあがれなくなるよりもずーっと、あたしは風呂に入っていない。
下の孫があざけるようにそう言ったのは、あたしの顔をじろじろみているときだった。あたしの皺だらけの顔にすっかりこびりついたように浮いている脂がみえたのかもしれない、ぼうぼうに伸びきった髪のあちこちに溜まっている白ッぽいフケが目についたのかもしれない。
あたしはもともとちいさいころから風呂なんぞたいして入りもしなかったから、そんな汚れは気にもならなかった。だがたしかに、一年ちかくも風呂に入らないのは、これはおかしなことだった。
一年とすこしまえ、あたしは家の風呂を改装した。ゆったりと足を伸ばして浸かれる、おおきな檜の浴槽にしたのだ。定年まで勤めあげた競輪場の仕事の退職金と遺族年金をこつこつと貯えていたから、そんな豪勢なこともできたのだ。だが考えてみれば、風呂好きでもないあたしがこんな思いきったことをやったのは、ひとり娘のチーコのやつが熱心にすすめてきたからだった。
チーコはすすめるというよりもしつこくねだったのだ。あいつはじぶんが、温泉宿でしか入れないような豪華な檜風呂にいつでも入りたかったのだ。あいつの家は自家のすぐちかく、歩いて十五分もないところにあったから、入りたいときにいつでも来ることができると思ったのだろう。
風呂の改装工事がおわるというその日、チーコのやつは、総菜屋のパートの仕事をわざわざ休んで、昼間ッからずーっと家にきて工事のおわるのを待っていた。一番風呂をねらっていたのだ。チーコは大工の、エイちゃんのすぐそばで、
「おじさん、そろそろ? もうそろそろ?」
などと急かすものだからエイちゃんも、
「これでも急いでやってんだヨ」
と苦笑いするばかりだった。あたしはすっかり呆れかえって、
「チョット、あんたの風呂じゃァないんだよ」
ブツブツ文句を言いながらチーコのためのタオルや着替えなんかをしょうがなく用意してやった。工事は夕方にようやくおわって、工具や何やらをまとめているエイちゃんを追いだすようにしてササッと玄関で、見送ったときだった。
「カァさん、ほらほら」
チーコはそう言って両手であたしの背なかをおしてきて、そうしてあたしを風呂場へと急がせた。
「入るのはあんただろう?」
あたしがぽかんとしながら、おされて風呂場のまえまでいくと、
「ほらほら一番風呂、お背なか、流してあげるから」
そう言ってあたしのセーターを脱がそうとするのだ。あたしはハッと胸をつかれたようになって、あわてて、
「じぶんでやるから、コドモじゃァないんだから」
チーコの手をバッと振りのけ自分でセーターを脱いだ。首をセーターのなかにうずめて、かなり時間をかけてあたしはゆっくりと頭をぬいた。泣いているのを見られたくなかったのだ。あたしはチーコの心づかいがただただうれしかった。この子はやさしい娘だった。昔ッからそういう子だったのだ。
あたしの背なかを流しているうち我慢できなくなったのか、 結局チーコも服を脱いで、あたしたちはいっしょに湯に浸かった。真あたらしい檜張りの浴槽は、まいとしチーコといく近場の温泉宿のものとはまったくちがう香りがした。あたしはこの香りを胸いっぱいに染みこませたくなって深く息を吸いこんだ。だがチーコのやつはそんなことは思ってもいないらしく、
「キャッキャ」
とコドモのようにいつまでもハシャいでいた。
それからほとんどまいにちのようにチーコは風呂に入りに自家へきた。あたしもチーコがきてくれるのはうれしかった。家がちかいといっても、チーコも暇ではないのだからこれまでは用事もなしに来ることなんてそうそうなかったのだ。
婿のやつは出張ばかりでほとんど家にはいないのだが、勤め人と大学生の伜がいて、ふたりとも実家ぐらしだったから飯の仕度や洗濯やらでチーコもなにかといそがしかった。そのうえ総菜屋のパートも週五日もあっていよいよ暇なしのくせに、
「ちッちゃい子もいないと、なーんかもの足りないのよネ」
などといって、あるときどこでみつけたのか捨て猫をひろってきてしまったのだ。まだうんと若い猫だと思ったらしい。が、動物病院で診てもらったら、
「七歳、いや八歳ぐらいですナ」という。
この場合産まれて八年ということだから、人間で考えたら五十ほどにもなるらしい。それをきいてチーコとつき添いのあたしは顔を見あわせて笑った。
「なーんだいい歳じゃないの。あんた童顔なのねェ」
チーコはそう言って舌をだし、アハハハハと笑っていた。
結局チーコの家で面倒をみるのはむつかしいということになって、その猫はあたしのところで飼うことになってしまい、いまでもあたしが世話をしてやっている。
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