第4話

 猫をあたしが引きとってやってもチーコがいそがしいのは変わらなかった。チーコにはチーコの家庭があるから、あたしのことばかり考えているわけにもいかないのはしかたがないことなのだ。


 だがあたしはやっぱり、むすめのチーコが遊びにきてくれるほうがうれしかった。


 だから思ったよりうんと風呂の改装費用がかかったことも、あたしはたいして気にもしなかった。定年までつづけた競輪場の窓口の仕事は稼ぎがよかったし、あたしは金なんぞこれッぽっちもつかわない暮らしをしていたから、貯えはたんとあったのだ。


 はじめはチーコの家の風呂を改装してやろうと思っていた。チーコはよく風呂の不満を洩らしていたからだ。


「せまくてせまくて、体育ずわりで浸かってるんだから」


 口をとがらせてはよくそういうことを言っていた。あたしは風呂になんて興味がなかったから、せいぜい、狭ッ苦しい台所あたりをすこしばかり広くしてもらえばそれでよかった。それくらいの工事ならたいして金もかからないそうで、うんとあまるから、


「あんたンとこの風呂、改装すンならあたしがだしてやるヨ」


 あたしはチーコに言ってやった。チーコのやつ、聞くなり顔をパァッと輝かせたが、すぐにさーっと暗い顔になって、


「でもきっと、あのヒトが……」


 などと言う。そうしてチーコの言うとおり、あの婿はあたしの申し出を断ってきた。あたしに恩をきせられるのを嫌がったのだ。あたしは腹がたって、


「だったらあんたが金だして、もうすこしマシな風呂にしてやんなヨ!」


 よッぽどそう言ってやりたかった。だがそんなことを言ったって、あとでチーコが八つあたりされて泣かされるだけだと思うとできなかった。だがよくよく考えれば、そのおかげでチーコのやつが自家の風呂へ入りにくるようになったのだから、あの婿のおかげだと言えなくもないとあとで思ってあたしは苦笑いした。


 チーコが入りにくるので浴槽にはいつでもあたらしい湯を張っておくようになった。チーコが風呂に入っているあいだあたしは居間で茶をのみながらぼけーっとテレビなんかを観ているのだが、風呂のほうから、


「あー、極楽ゴクラク」


 チーコの、ほんとうに気持ちよさそうな声がきこえてくるものだから、


「それじゃァ、あたしも、あたしも」


 チーコのあがったあとにあたしもよく入るようになった。


 それが、もうチーコも来なくなって、あたしもからだが弱って億劫になって、やっぱりまた入らなくなった。そうしてもう、一年ほども、あたしは風呂に入っていない。


 疎開した山形の田舎は、さくらんぼが美味しいところだった。世話をしてくれた遠縁のひとたちもずいぶん親切にしてくれた。だからあたしはあの山形の土地にいたくて、東京になんぞ帰りたくなかった。


 それでも戦争がおわるとすぐ、むかえにきた両親に連れられてあたしは東京の葛飾へ帰ってきた。疎開まえに住んでいた家はとっくに焼けおちていて、お父ちゃんの兄貴がやっていたどうにか焼けのこった旅館の二階に家族三人住まわせてもらうことになった。客室をそれぞれひと家族にあてがった、長屋のような二階の一番奥の部屋があたしたちの家だった。


 そのとなりに、すこしおくれて越してきたのがジイちゃんの一家だった。ジイちゃんはからだがよわくて兵隊にはなれなかったそうだ。あたしより五ツも歳上の学生さんだったから、あたしは勉強を教えてもらうようになって、そうしてすぐに親しくなった。


 住みはじめて二か月もたつころには旅館ぜんたいが大家族のように仲良くなっていて、その「家族」たちから、


「おめえら早いとこ、くッついちまいナ」


 などとあたしたちはよく冷やかされた。 が、ほんとうにそのとおりになってしまうと、


「いやァたいしたもんダ、たいしたもんダ」


 とみんな舌を巻いていた。あたしたちは結局、すぐにいっしょになって、お腹にコドモも授かった。それからふたり旅館をでて、高円寺へ移ったり、国分寺へ越したり、ほかにもどこだかを転々とした。そうして埼玉のこのあたりへ落ちついたのは、五十年よりももっとむかしのことだった。


 あたしたちは娘をふたり持ったもった。だが最初の子、この子は産まれてまもなく死んだ。医者もおらず食うものもぜんぜんない時代で、こんなことはあたりまえに起きたのだ。チーコが産まれたのは、それから五年もしてだった。


 チーコは短大を卒業して東京へ勤めにでるようになり、この家をでてひとり暮らしをはじめた。そうして東京で暮らしつづけて、二十五のときだ、結婚した。チーコは結婚すると埼玉へ帰ってきてあたしとジイちゃんのすぐちかくで暮らすことをえらんでくれた。そうして男の子をふたり産んで、この孫たちはすっかり大きくなってとっくに成人している。


 ジイちゃんは孫たちの顔もみないうちに死んでしまった。二十七年もまえのことだ。まだ四十六だった。あの日ジイちゃんは縁側にいた。 ジイちゃんはこの家で死んだのだ。孫たちの顔もみないうちに死んだのだ。


 だが孫たちとにジイちゃんの話を言ってきかせるときには、


「おまえたちのジイちゃんはねェ……」


 あたしはいつでもそう言うようにしていたから、いつのまにかあたしひとりで思いだすときでも、


「ジイちゃん」


 そう呼ぶようになってしまった。

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