翔編 3日目
高等部3年の春、現在――。ゴールデンウィーク3日目。
今日も今日とて図書室の管理。生徒や先生の数が多いにしても、せっかくの連休中に開放する意味はあるのだろうか?
決して来る人はゼロではないが、生徒だけ見積もってもせいぜい10人程度というところだ。騒がしい公共施設や、お金が掛かるカフェでは勉強に集中できない人たちは無料で静かなこの場所を好むのだろう。
あとは先生たちが何か資料を探しに来るくらいしか来客はいない。これだけ広ければ一般開放にでもすれば、もっとたくさんの人は集まるだろうと思う。
しかし、そうともなれば生徒だけでの管理とはいかないのか……。
教員がつくか、図書室担当の臨時職員も雇用しないといけないのかもしれない。となると、やはり今の現状が学校側にとっては都合がいいということだ。
今日も、インドア派な生徒数名と先生数名が主な来客だった。
そんな中、音符のヘアピンをした縁先生は珍しく難しい本を開きながら難しい顔をしている。昨日はヘアピンなんてしてなかったよな……。
ノートパソコンも開いていて、画面を見つつ本を見つつ、何かを書きとっている。
「縁センセ、教師の次は弁護士ですか?」
「……ああ、翔くん。今調べものをしているの。集中したいから後にしてね」
六法全書に離婚と結婚に関して……。一体何を調べているのやら。すごい真剣な表情なのでこれ以上話しかけないでオーラを感じる。
まぁ、先生が何を調べていても構わない。俺は俺で雑務は終わったので、昨日の続きだ。
心臓病――。
この言葉は広義だが、風邪と同じように様々な疾患、症状の便宜的な言い回しのようだった。
様々な心疾患がある中で、もともと身体が弱かったり、母親も心疾患の可能性があるとなると先天性を疑った方がいいだろうか。
この本によれば、子どもの心臓病について……つまりは先天性心疾患についても触れられている。生まれたときに心臓に何らかの異常を持っている人はおよそ100人に一人の割合で存在する。
しかし、原因の多くは因子が複雑に影響している為、特定できないことがほとんどのようだ。
遺伝的な要因も少なからず存在するが、90%以上はこれらの環境因子によって引き起こされていると考えられていて、繰り返しになるが原因は不明とされている。この辺りは専門的な話なので俺では深入りしないほうがいいだろう。
統計データとしては、ここ30年ほどは100人に一人という確率は変化していないらしい。
ただこのデータは、元気に生まれた子を対象としている……つまりそのまま生きられなかった子は含まれていないのか……。
では、元気に生まれた人はどのように心臓病と付き合っているのだろう。症状が出なければ一般的な人と見た目は変わらない。
しかし、ずっと薬を飲み続けていたり、運動制限をしていたり、日常生活で自分の病気と闘いながら社会に生きている。
……理由はきいたことが無かったが、小学生や中等部の頃に休みがちだった人や一緒にプールに入れなかったクラスメイト、体育の授業で走るのが得意じゃないと言ってマイペースで動いていたクラスメイトたちはひょっとしたら……誰にも言えない辛さを抱えていたのかもしれない。
美笑も実は、彼らと同じように持病を抱える身だったのだろうか……。
とある医大のデータを見ると、先天性心疾患の中でも約60%を占めているのが心室中隔欠損症だ。
この病気は、心臓の中の左心室と右心室を仕切る壁に穴が開いて血液が逆流してしまうことで、5人に一人は自然に塞がってしまうという。
このように、手術を必要としない軽度のものからすぐに塞がなくてはならない手術を要するものと、個体差があるようだった。
最近は超音波検査、通称エコーで早期発見することが出来るようになったが、小さい頃は症状がなく成長して心臓が大きくなったり、運動をして心臓の活動量が増えたりしたときに発見される場合もある。
12万人を対象とした学童検診では、毎年5~10人の心房中隔欠損症が見つかっているそうだ。
これは持病と思わず後天的に捉えられるかもしれない。美笑はどちらか分からないが、今になって症状が悪化している可能性はあるだろう。
しかし、そうだとしても美笑は常備薬を持っているなんてことは今まで無かったはずだ。さすがに命に係わることで親が持たせないはずはない。
再婚した当初、美笑の父親はそんなこと言っていなかった。投薬での治療は必要としない程度だった……?
遺伝的なもの、という部分で考えると心筋症はどうだろうか。
心筋症には心筋が薄くなって心臓が大きくなる拡張型と、心筋が肥大するが心臓の大きさは変わらない肥大型、心筋が硬くなって心房が大きくなる拘束型の3タイプが存在するようだ。
いずれにしても、不整脈が伴うと致死性心事故が起こる可能性が高くなる為、見かけは元気でも不整脈を予防する為の薬の服用や運動制限をすることになると書いてある。
ただ、完治は見込めないにしても肥大型は投薬や日々の生活の中での制限と上手に付き合うことが出来れば十分に生きていくことは可能で、他の二つに関しては移植という選択が迫られる疾患である。
それこそ難病に指定されているので通院、入院という概念は必須と言えるだろう。
どうして遺伝と関係しているかというと、発症に家族性があることが半数に認められているからだ。多くは常染色体性優性遺伝という形で発見される。
サルコメア遺伝子の変異が主因であるため、遺伝子異常によって発症するリスクは否めない。そのため、親が発症した場合は必ず子も同様の検査を受けねばならないし、その逆も然りだ。
症状としては、不整脈に伴う動機やめまい、運動時の呼吸困難や胸の圧迫感が認められる。重篤な症状になると失神まで引き起こすという……。
美笑の母親が、肥大型の心筋症だった可能性は……?
でもそうなると、詩織も検査していたのか? 体育は普通に参加していたっけ……? 見えない所で通院していたのだろうか……。
確かに症状としてはもっともらしいが、気になるのはやっぱり咳なんだ……。
咳って、一体何なんだ……? 咳――。
図書室の入口の引き戸が閉じる音で、思考世界から現実へ引き戻された。
「あ……。縁先生が戻ったのか……」
気が付けば、先生が座っていた席には誰もいなくなっていた。
先生の残り香の正体は、受付台に置かれた貸出カードだった。俺がずっと考え込んでいたので、もう一人の図書委員が対応してくれたようだ。
11時か……。そういえば、今日は音楽室にいるだろうか? トイレにいくついでに少し見に行ってみよう。
今日来てくれている図書委員にトイレに行くことを告げて、俺は図書室を離れた。
図書室から音楽室まではさほど離れていない。
同じ棟の一つ下の階だ。階段を降りると、ピアノの音は聞こえてきた。どこかで期待している自分がいることに、苦笑しつつ俺は誘われるままに、音のするほうへと足を向けた。
いつかの光景を思い出す。昨日の既視感を覚え、俺はあの日のように廊下の壁に背中をあずけ、ゆっくりと腰を下ろした。
昨夜、俺は夢を見ていた。あの日、俺が告白をした日のことを……。
詩織はあの時、三つの約束をした。
一つは、4年後の同じ日あの場所で、一緒に夜空を見上げよう。二つ目は、俺の告白への返事はその夜に返してくれると。
そして最後に、美笑のことをちゃんと考えるということ……。
……俺は、この1年何をやってたんだ…………。
詩織の死が受け止められなくて、美笑を傷つけてしまうのが怖くて、詩織とした約束も忘れていて……。
俺は関心がないという欺瞞で、その実、逃げていただけなんだ。
それは分かっていた。自覚があるにもかかわらず、あらゆることを恐れていた。
なぜ? その先のことを想像出来てしまうからだ。確かに可能性の話をしたらキリが無い。物事が俺の想像どおりにばかり動くなんて自惚れるつもりはない。
しかし、俺はその恐怖を拭えない。囚われ、強迫観念を抱き、無関心を装うことで自己抑制をしていたに過ぎない。
まさか、詩織の口をつこうとしていた冗談が本当になってしまうなんて、誰も思っていなかったはずなんだ……。いや、あれは事故だった。
誰の思惑も、故意も関与していない。不慮の事故だったのだ。そう思い込もうとして、俺は全ての興味を遮断した。
それが、負の連鎖。俺が作り出した幻想の螺旋。結局この3年間、何をやっていたんだ俺は……。頭を抱えるしかなかった。
はっとして俺は顔を上げる。
この旋律、この曲……忘れるはずが無い。詩織が一番好きだった、あの曲だ。
まさか今この曲を聴けるなんて思っても見なかった。この曲を弾けるのは詩織だけだと思っていただけに、音楽室内にいる人が誰なのか無性に気になる。
細長い扉の小窓越しに中を見る。……あれは、美笑と、先生……?
やっぱり、昨日と同じ桜先生だったのか……。どうして桜先生が、詩織のオリジナル曲を弾けるんだ……?
その旋律が踊る空間に、俺は踏み入れたかった。かつての想いを抱き、なぜその曲を先生が弾けるのかと聞きたかった。
しかし……。俺の手はドアに掛からなかった。この空間に俺が入る隙間が見当たらなかったのだ。あの時のように彼女一人ではない。ここには美笑と、そして先生だけの世界が広がっている。
そこに俺が入っていくことは許されない。
でも……もう聴けないと思っていたこの曲をもう一度聴くことが出来て、良かった……。気がつけば視界がぼやけ、鼻をすする自分がいた。
ただ漠然と、この曲を聴くのはこれで最後になるだろうと思った。根拠は無い、ただ、そう俺が、思い込んだだけだ。
演奏が終わると同時に、俺はその場を後にした……。
図書室にもどって、お昼も食べずに閉館の14時までぼーっとしていた。
あの曲はかつて、詩織が美笑の為に贈った曲だ。即興で曲を作っては、美笑に聞かせていた詩織だが、あの曲だけは特別で美笑が9歳になる誕生日プレゼントとして贈った曲なのだ。
ピアノコンクールで最優秀賞を受賞した時も、この曲を弾いたそうだ。
詩織は自分の曲ではなく、美笑がみんなに認めてもらえたような気がして嬉しかったと言っていた気がする。
先生と詩織はどこかで出会っていたのだろうか? 分からないが、素直に詩織の意志を受け継いでくれている気がしてとても嬉しかった。
図書室を施錠して、もう一人の図書委員と職員室に鍵を返しに行ったが、縁先生の姿は見えず桜先生だけが席に座っていた。
と言っても、机に突っ伏しているので声が届いたか分からない。呼びかけても反応は無かった。
挨拶だけして俺たちは職員室を離れた。労いもそこそこに、今日来てくれた後輩の子に「お疲れ」と言って帰路に就いた。
自宅に戻ると、居間のゴミ箱の中に封の切られた封筒を見つけた。
普段は気にも留めないが、他に何もなくポツンと封筒だけ入っていたので、なんとなく気になってしまった。
「……大学病院?」
うちに医者に罹ってる人はいただろうか。母親が病院に行っているか……なんて話をしてないので分からないが。
とりあえず、中身が収まっていたので検める。
「石川、美笑様……」
それは、美笑に宛てた手紙だった。
内容は美笑に対する定期検診の案内と……。
それから、美笑が気管支喘息を患っていること。小さい頃は小児喘息に罹っていたこと。いつの頃からか、定期検診を受けなくなってしまったこと。その後の容態の問診。最後に気遣いの文で結ばれていた。
この医者の先生は、自分が受け持った一人の患者でしかない美笑にとても尽力してくれていただろうことが文面から分かる。
小さい頃からの主治医であり、美笑の病気を献身的に治療してくれていたに違いない。
しかし、美笑も離婚や何やらで住む家が安定していない。そして詩織の死のショックもあり、自分の身体のことを気にかけなくなってしまったのかもしれない。
大体、いつ頃から検診に来ていないということも書いてある。それはやはり、詩織が事故死してからだった……。
そして、気管支喘息についても少し書かれていた。
気管支喘息は、季節の代わり目に症状が出やすい。風邪であったり、花粉であったり、季節柄蔓延しやすい菌などがあるように、喘息という病気も発作が起きやすいそうだ。
加えて、天候が崩れているときにも発作率が高い。今のような梅雨空では美笑の体調も不安定なのかもしれない。
喘息という病気を軽く見ていると、大変なことにもなる。気管支喘息は軽度でも、死に至る病気である。これを、喘息死という。
幼い頃に小児喘息を患っていたりした場合、適切な治療を施さないと、悪化を防げない。自然治癒は望めないということだ。
美笑の場合は運動誘発型で、小さい頃から運動の後は軽い息切れを訴えていたそうだ。比較的身体も小さく、体力も並み以下だった美笑は、次第に身体を動かすことを自制していった。
そうか。喘息だ! 咳は、喘息のことだったんだ!
数日前も美笑は発作を起こしていた。いわゆる、喘鳴も聞こえていた。症状の程度は分からないが、もう深刻な状態なのかもしれない。
小児喘息を患っていた時は、詩織の看病もあった。そのお陰で、症状も落ち着いていたと思う。
しかし、詩織の死から家庭の崩壊。生活環境の著しい変化。それが引き金となり、また喘息をぶり返し気管支喘息を引き起こしてしまった。
さらに追い討ちをかけるように、精神的なショックからうつ病を併発し、身体も心も疲弊させていく……。
いや、うつ病が先で喘息が再発してしまったのか。
……もう、今となってはどちらがニワトリでどちらが卵かなんて関係ない。現に美笑は、もう擦り切れる寸前なのかもしれないということだ。
また美笑は、本当の母親のところに泊まりに行くことが多い。しかし、歩いて往復するには決して近い距離ではないと聞いたことがある。
運動誘発型の美笑にとって、その距離を歩くだけでも、相当の疲労があるに違いない。
いつまでも、このままじゃ駄目だよな……。
この手紙が良いきっかけになるかもしれない。一度検診を受けるように言おう。
……今更かもしれない、なんで今頃かと思われるかもしれない。それでも……。縁先生の叱咤。詩織との約束。もう一度、美笑と向き合わなきゃいけない時なんだ。
俺は手紙をそっとしまうと、部屋に戻り美笑の帰りを待つことにした――。
中等部2年の冬――。約束の場所。
「諦めるな! 最後までっ! 諦めたらそこで、人生終了だよ!」
なんて短い人生だったんだ俺……!
ていうか、遅刻ごときで俺の人生が終わってたまるかよ! どこかで聞いた台詞を詩織辞典にはどのように登録されているんだ!?
俺は朝から廊下を全力疾走で駆け抜ける。教室のドアからは詩織が顔を出していて、おかしな声援を送ってくれる。
反対側からは涼しい顔した担任が歩いてくるのが見えた。時間に厳格で、1秒の狂いもなく8時30分ジャストに教室にやってくるような先生だ。
遅刻なんてした日には、それこそ人生の終わりになりかねん! 俺は詩織の冗談(声援?)を冗談で終わらせるために、100m走を9秒ジャストで世界記録を更新するかの如く猛スピードで教室に飛び込んだ。
「セーフ! ほらほら早く、席に座って。……これで、中学MVPは貰ったね」
「詩織さん……酸素マスクが、欲しいです……」
そんな朝の小芝居も、最近では珍しくはなかった。いや、遅刻常習という意味ではない。俺と詩織との関係の変化という意味だ。
あれから詩織とは一緒に登下校したり、買い物にいったり……ということは一切無い。
今までと同じように二人きりの逢瀬は放課後の音楽室のみだった。詩織の望みどおり、まだ、彼氏彼女ではないし付き合っているというわけでもない。
何しろ、詩織の気持ちをはっきりと聞いていない。
俺が告白をした、そこまでなのだ。変化があったとすれば、教室で前より話すようになったことくらいだ。クラスでも友人の多い彼女が、特別俺に話しかけることは珍しいことではないし、その明るさから誰とでも気兼ねなく接していけるやつだ。
これは余談だが、こういう人は同姓からも異性からも人気がある。
クラスにおいて社交的な女の子というのは決して疎まれない。それでも。以前にも増して詩織は俺に話しかけてくれるようになった。
そして事あるごとに、妹の話を交え、美笑のことを大切にしてくれるかと聞いてくる。
それは決して嫌なことではなかったし、むしろ、詩織が俺を好きになろうとしてくれているんじゃないかという気もしていた。
そんな彼女にしてはささやかな努力が、たまらなく嬉しくて愛おしくて、自惚れだとは分かっていても俺ももっと詩織のことを知りたいと思った。
そう、俺たちは変わろうとしていたのかもしれない。
詩織は妹を溺愛しているが、異性を好きになることは初めてで手探りだけども慎重に、俺との距離を縮めようと努力をする。
俺は根暗で人との関わりを疎ましく思っていたが、詩織の価値観に感化され、昔ほど卑屈にはならなくなったようが気がする。
それをわざわざ口にするつもりはないが、ひょっとしたらこれが初恋ってやつなのかもしれない。4年後の約束の日に向けて、俺たちは新しい日々をスタートさせた。
それを傍から見たら、妙な形の始まりかもしれない。告白が先で、
なんとなく一緒にいた時間があって。
本当はもっと近道があった気がする。でも、不器用でも俺たちにとっては、相手を、人を、異性を、色んなことを、好きになろうとすることが〝はじまり〟だったのだ。
俺はもう、詩織が嫌悪するような後ろ向きな人間にはならない。
詩織に好かれる人間になろう。そして小さな努力を始めた詩織を、もっともっと好きになろう。……そう、心に誓ったはずだった。
しかし――。そんな決意をした矢先……はじまりを知らせる旋律が、終わりを告げる鐘の音だったなんて、俺は知る由も無かった。
中等部3年の春、5月3日の出来事。詩織は交通事故で、俺の前から姿を消した……。
だから前日の夕方が、俺が詩織と会った最後の日となった。
その日はゴールデンウィークで学校は休みに入っていた。特に用事もない俺は、夕方散歩に出掛け、頃合いを見て家路につくところだった。
とあるビルの前で詩織の姿を見つける。買い物の帰りのようで、片手にはスーパーの袋を抱えていた。
「……あ、翔くん。こんなところで会うなんて、奇遇だね」
あぁ。詩織こそ買い物の帰りか?
「うん。……このビルさ、近々取り壊しするみたい。でも、日時は未定なんだって」
最近多いよな。大方、過去の残骸ってやつだろ。作るだけ作って収集が付かなくなって、時代が変わってみたらこんなのが溢れかえってたって有様だ。
「……そうだね。でもさ、このビルの屋上から空見たら、一面見渡せるかな?」
空? まぁ割と高いビルではあるな。
「翔くん。ちょっと上ってみよっか?」
え!? 詩織の言葉にはたまに驚くぞ。取り壊しが決まってるんだから、危ないんじゃないか?
「まだ看板だけで中は何もしてなさそうだよ。あ! そろそろ時間! 急ごう!」
そういって詩織は俺の手を引っ張って連行していく。初めは危険だろうと思っていたが、中に入るとまだ手は付けられていなくて、老朽化とかは目立っていない。
階段を駆け上がっていくと、いっきに屋上の扉を開け放った。
簡単に侵入も出来るし、ビル内の鍵も施錠されてないし、ホント完全に放置って感じだな……。
「間に合ったセーフ! ほら、翔くん。太陽をじっと見てて」
詩織に言われるがままに俺は眩しさに目を細めながら、太陽を見ていた。すると、太陽が何かに隠れるように陰り始める。
「日食。今回は、部分日食みたいだね。珍しいのは皆既日食。もっと珍しいのは金環日食。皆既日食っていうのは太陽が月の陰に完全に隠れることを言うの。金環日食はその逆で、月の影が太陽にすっぽり収まるんだけど、その周りの淵から太陽の光がもれてリング状に光るの、それをダイヤモンドリングっていうんだよ」
へぇ……。詩織は、天体好きなんだな。
「好きだよ。綺麗で、神秘的で。金環食なんて、サロス周期だと18年、33年、11年、11年…っていう周期だから、運が良ければ人生で数回見ることが出来るらしいよ。それでね! そのうちの2回を恋人と一緒に見ることが出来たら、その二人の魂は永遠に結ばれるっていう伝説があるんだって」
サロ…なんとかというのは分からないが、人生で数回か。なんと貴重な。
「食いついて欲しかったのはそっちじゃないんだけど……。まぁいいや。私は、翔くんと見たいなーって思ってさ。おばあちゃんになっても、また一緒に見られたらいいなぁって」
……あぁ。そうだな。
「決めた。ここにしよう。高校卒業の年の約束は、この場所で一緒に空を見よう? さしずめ、約束の場所だね。ははっ、なんだかファンタジー世界に来たみたい」
リアル世界に戻すようで悪いが、このビルが取り壊されてたらどうする?
「大丈夫、このビルは壊されない。そんな気がする。私が、このビルの屋上で空を見上げたとき、隣に翔くんが居てくれたなら……。きっと約束を果たせるね」
俺も約束する。4年後この場所で、詩織の隣で、32年振りに極大になるみずがめ座流星群を一緒に見上げよう。
そしてもう1回言うよ、詩織のことが――。
「待ってー! それ以上はもう言っちゃダメ! そ、そういうのは何回も言っちゃダメだよ。その時まで取っておいて。ね」
はは……わかった。ところで詩織、妹の具合は最近どうなんだ?
「あ、うん。大分安定してきてるよ。でも、いつまたぶり返すか分からない。そういう病気なの」
無理にとは言わないけど、病名とか聞いてもいいか?
「喘息っていうの。美笑は小児喘息に罹ってたことがあって、もともと気管支が弱いみたい。多くの人は成長と一緒に良くなるみたいなんだけど、美笑の場合は季節的なものだったりストレスだったりでぶり返しちゃうんだって。発作がなくても、慢性的に炎症が続いてるみたい。だから、治療には根気がいるって先生言ってた」
そうか……。早く良くなるといいな、美笑ちゃん。
「ぷっ。〝ちゃん〟っていうの初めてだね。私のことは最初から呼び捨てだったのに」
あ、いや。なんとなくそう呼んでしまっただけだよ。次からは美笑って言う。
「ははっ。でも、ありがとう。心配してくれて。……もう何度もしてきた質問だけど、改めて聞かせて?」
詩織はくるりと振り返り、長い横髪を掻き揚げる。
「翔くんは美笑のこと、大切にしてくれる?」
ああ、約束する。もちろん、詩織のことも。
「……うん」
詩織は笑った。優陽に照らされた髪は赤く染まり、細められた目は潤んでいた。少しばかりの、憂いを含んで……。
そうだった……詩織はちゃんと、美笑の病気のことも教えてくれていたんだ。長い治療になることを詩織は分かっていて、美笑と寄り添ってくれる人を心から待っていた――。
あれ、詩織……? 詩織……?
目の前で、詩織の姿が霞んでいく。まるで欠けた何かを取り込むように。だんだん、目の前が暗く……なって……。
そうだった……今日を境にもう二度と、詩織は帰宅することはない。
この帰り道、詩織は――。
詩織……。詩織……。
気が付くと、俺はベッドに突っ伏していた。遠くの方で聞こえる音は、雨だろうか……。
腕に濡れた感覚があり、頬を触ると同じく濡れた感触があった。俺は、泣いていた……のか……?
時刻は7時過ぎ……7時……。あれから少し寝てしまったのだろうか。外はもう陽が落ちていて雨が降っている。美笑は帰ってきただろうか。
自室に居た俺は、ベッドにうずくまるようにしていつの間にか眠っていたようだった。
美笑が帰ってきたら手紙をきっかけに話し掛けようと思っていたんだ。このままでは駄目だからと、詩織との約束を思い出した。
居間に行くとテーブルに新聞紙。普段は気にもしないのだが、ふと目を落とす。視界に割と大きなコラムが目に入って、俺はもう1度新聞紙を見入った。
「5月3日……32年振りにみずがめ座流星群が極大に……。みずがめ座流星群……」
テレビをつけてニュース番組に変える。ゴールデンタイムだが、ここでは中継をやっているようだった。帰宅するときから降っていた雨は続いているが、奇跡的に雨は弱まってきたと中継キャスターが嬉々と伝えていた。
居間には母親の姿も、美笑の姿も見当たらない。
カーテンを開けてみると、確かに雨は弱まっていてひょっとしたら見えるかもしれないという期待の出来る空模様だった。
「星か……。32年振りの……」
ぼーっとしていて、頭が回らない。今日は何か、大切なことがあったんじゃなかったっけ……。
3時ごろ家について、封筒を開けた。それから自室に戻り美笑の帰りを待っていた。そしたらいつの間にか眠ってしまっていて、気づいたら夜の7時……?
なんてことだ。そんなに疲れていたのか俺は。その間に美笑は帰ってきてしまっただろうか。母親はまだ仕事で帰ってきていないのだろう。
「…………」
違う、なんだこの胸騒ぎは……。
昼食を抜いたから空腹を訴えている? 確かに空腹感はゼロではないが……。いや違う、こんなんじゃない。
あれから美笑は帰ってきたのだろうか? さすがに午後から雨が降ってたんだ、家に帰って着替えるくらいはしていっただろう。
……違う、これでもない。
そういえば……。5月3日は、詩織の命日。そして、約束の日だ。
詩織亡き今、約束の場所にいく理由は無い。しかし……なんか、なんか……。
美笑が居ない。帰ってきていない?
それがなぜが大きな不安感として募っていく。なぜだ? この胸騒ぎと嫌な予感がするのはなんなんだ?
俺は今まで、長い長い夢を見ていた気がする。具体的には思い出せないが、詩織と過ごしていたような気がする。
詩織の命日。約束の日。帰っていない美笑……。
それでなぜ、俺はあの場所に行かなければいけないという衝動に駆られるんだ……?
分からない。しかし、この感覚はやばい。俺の中の何かが警鐘を鳴らしている……!
混乱する頭をよそに、俺は気が付けば玄関のドアを開け放っていた。あの手紙を握り締めたまま……。
行くのは4年振りになるが俺の家からあのビルまでは、それほど遠くない。全力疾走で行けば20分と掛からないだろう。
俺の地元だ、裏道だって知ってる。自転車なんてない。インドア派の図書委員だって、遅刻しないために走ることだって出来る。
学校に遅刻しないために模索した道だって色々ある。それを詩織に紹介することは、ついに無かったが……。
そりゃそうだよな。詩織は遅刻なんてしない。一緒に登下校をすることは無かったが、もしも恋人として歩むことが出来たなら、俺の朝はあんなにも忙しくなかったかもしれない。
優しい、それでいて明るい時間が流れていたはずだ。過去の話だ。今思い出すことじゃない……。
『ねぇ。結城くんは、魔法って信じる?』
詩織の声が聞こえる。魔法か……もしもあるなら、俺の脚をチーターのように俊敏にしてほしいもんだ。そしてこの胸騒ぎを1秒でも早く消し去りたい。
……いや、夢、か。思えば詩織の夢を見たのも、何かの予兆だったのかもしれない。俺に大切なことを思い出させるために。
夢に出るという、魔法……。
『もしも、守護霊っていうのが本当にいるなら、どんな人がいい?』
そりゃ詩織。詩織みたいに真っ直ぐで綺麗で、俺を間違った道から正してくれるような、そんな人だったらいいな。俺が馬鹿やってたら、1発引っ叩いてくれ。
『私の妹の名前? みえ、だよ。美しい笑顔って書いて、美笑』
美笑……良い名前だな。詩織が愛した妹。
俺はかつて、美しいものはいつまでもそうあって欲しいと言った。でもそれは、ただ願うだけだった。願うだけでは駄目なのだ。守らなきゃ。
それは詩織の気持ちの裏返し。本当は詩織は、俺に美笑の笑顔を守ると言わせたかったのだろうか。そして、詩織のことも……。
『人間やれば、何だって出来るんだよ。人間諦めないことが肝心!』
ああ、そうだな。こうして夢にまで出てきてくれるんだから、詩織は本当にすげぇよ。でもそれと同時に、同じくらい俺の不安も広がってる。
こればっかりは、詩織の存在に対極してる……。
『君のそういう考え方。私嫌いって言ったよ』
はは……ははは。こんな状況で、思わず頬が緩んでしまう。思考の迷路。迷路には必ず出口が設けられている。
その時点で、抜け出せない道理は存在しないのだ。出口の確証が無いのは、ただの迷宮だ。
出口は分かってる。今日この日、約束の場所へ。あの場所に行けば、分かる!
『諦めるな! 最後までっ! そこで諦めたら人生終了だよ!』
ああ、そうさ! 終了させないために走ってるんだよ!
まだまだ俺たちはこれからなんだ。すごい遠回りをしたけど、結果……美笑を傷つけてしまったけど、まだ終わらせたくない!
俺は今一度、地面を強く蹴った。
「美笑ッ!」
ビルの屋上を見上げる。無用心にビル内も鍵が掛かっていないところだ。封鎖テープを潜るだけで誰だって屋上まで上がれてしまう。
淵のところに人影が座っているのはすぐに分かった。
見上げた俺は、言葉を失った。かつてエジプトで紅海を割ったというモーセのように、俺の呼び声で空に掛かる薄い雲がこじ開けられていくのだ。
いや、それはもしくは光芒か、エンジェルハイロウか……。
ああ、きっとあれは……そう、薄明光線に似た何か……。天使の、梯子……?
しかしその光は、太陽の光輝ではなく、月光と流星群の煌めき……。開いた口が塞がらなかった……。
それは、あまりにも美しい。空に散りばめられた星たちがいたるところから降り注いでいた。どう形容すれば伝わるだろう、この美しさを……。
きっと、言葉で表すことすらこの星たちの煌きに陰を与えてしまうだろう。みずがめ座流星群が極大になるというのは、なんて、なんて……。
ずっと梅雨空で、晴れ間なんて無かったここ数日。示し合わせたかのように、今夜は文字通り星が降り注いだ……。
この場所だけが、星の導きで雲が無くなっていたのだ。そこには、ただ一人。ビルの屋上……星空の中に美笑がいて……。
すると、ゆっくりと美笑の視線が俺に降りてきて……。
「―――」
口元がかすかに動くのが分かる。……なんだ?
「…………」
お・ね・え・ちゃん? ……違う。
―――さ・よ・う・な・ら!?
俺の目が見開かれると同時に、美笑は激しく咳き込み胸を押さえた。やばい、発作だ! あんなところに座って発作なんか起こしたら、……まずいッ!!
俺は駆け出した。屋上の美笑を目指して――。
「美笑ッ!!」
屋上の扉を蹴飛ばし、俺は駆け出した。手遅れかもしれない。届かないかもしれない。
それでも、俺はやっと気づけた大切なものを手放したくなかった。
それが例え、俺自身の過ちだったとしても。
それが例え、彼女の過ちだったとしても。
それがたとえ、終焉を知らせる鐘の音だったとしても……。
せめて、笑ってくれたなら――。
ただ強く抱きしめて、彼女との約束を果たしただろう。
しかし、少女の目はもうすでに、閉じられていた……。
「っ……」
フェンスなんてない無防備な屋上。ここからでも様子は分かる。美笑は立ち上がっていて、こちらを向いていた。誰かを待つように両手を空に持ち上げて……、ふわりと彼女の身体が後ろに倒れていく……。
そう、美笑が俺に笑いかけてくれることは、ついに無かったのだ。俺は、間に合わなかった……。
彼女との約束も守れず、少女の笑顔さえ導くことも出来ず、約束の日を迎えてしまった。
俺は当然の報いを受ける。少女の時間は有限。限りがあるから命は咲き煌くんだ。
死は、どんな時も背後に付いてまわる。たとえ症状が軽くとも、たとえ性急なものでなかったとしても……。
その認識の甘さが今日を招いた一つの原因。俺と、そして美笑の過ちだった。
それからもう一つ、俺は大事なことを忘れていた。
約束――。詩織との、最後の約束を……。
今日この日、俺たちは肩を並べて空を見上げているはずだった。そんな未来があったはずだった。
それが詩織の死により閉ざされ、俺の世界も閉ざされた。行き場を失った美笑の心は放り出され、壊れてしまった……。
きっかけは何だったのか、今ではもうきっかけでしかない。壊れてしまったものは、やがて朽ちるのを待つしかないんだ。癒せやしない……。
それでも……。だからといって……。
支えになることは出来たはずなんだ。かつて詩織が、俺を救ってくれたように……。
駆け出した俺の足はもつれ、思うように前に進めない。滑稽な足はいよいよ辿り着き、雨に濡れた屋上の淵に、覆い被さるように倒れ込んだ。
俺の手は、美笑の身体をかすめることもなく、美笑は支えを失った人形のように落ちていく……。
その眼前の光景が、スローモーションのように慈悲深く、俺に贖罪の時間を与えた。
落ちていく、美笑の身体……。俺は身を乗り出して、手を伸ばして……。何かを掴もうとした指の隙間に涙が一滴、零れ落ちる。
走馬灯を見る慈悲を与えられたのだ。俺の最大の過ちは、何だったのか……。
怖かった。……美笑を傷つけてしまいそうで。
苦しかった。……詩織を忘れてしまいそうで。
でも嬉しかった。もう一度チャンスが貰えた気がして。きっと俺は……美笑のことだって……。
「俺の……大馬鹿野郎おおぉぉぉおおおお!!!」
約束はかく語りき。全ての答えは、ここにあったんだ……。
詩織は最初から、俺のことを見てくれていた。俺が踏み外してしまった歩みを正そうとしてくれていた。
でも俺は、それに気づくのが遅すぎた……。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
「……まだだ!」
走馬灯の涙を弾き、俺は着地した美笑をもう一度見る。
美笑の周りには血溜りが出来ていた。だからといって、放っておけるか!
俺は弾かれるようにもと来た道を逆走する。絶望的かもしない。あれだけの出血をしてたら、助からないかもしれない。だけど……!
119番! 119番! 早く繋がれえぇぇええ!! 救急車を、お願いします!! 止血を! 止血をッ!!
美笑の人生を終わらせたくない。その一心で、俺は美笑のもとへ駆け戻った。
「……ぁ……ぅぁ……くッ!」
こんな……こんなのって……。首が、首がありえない方向に……。頭が、あたま……が……。血が、あふれ、て…………。
「う……ぅう、うあああぁあぁぁあぁあああッッ!!!!!」
俺は悲愴と後悔と無念に咆哮した。泣いたって、美笑はもう帰ってこない……。誰が見たってこれじゃあ、即死じゃないか……。降りしきる美しい夜空の流星群とは対極に、地上には凄惨な光景が広がっていた。
俺は美笑を抱きしめる。俺の涙も赤く染まり、いつしか俺も美笑の血を身に受けていた。美笑の過ちも、俺が全て被るように……。
死ぬべきは、俺の方だったんだ……!
詩織でもなく、美笑でもなく、こんなどうしようもない俺が――!
変われるのなら、あの日交通事故で死ぬのは、俺であって欲しかった……! それが、二人にとって一番の幸せだったはずなのに……なのに……!
俺は救急車が来るまで、赤い涙を流しながら、ずっと美笑を抱きしめていた……。
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