<TIPS2「再婚」>
詩織が死んだ。
交通事故だった。突然の訃報は意味が分からなかった。
人違いじゃないかとすら疑った。だって昨日、俺たちは夕方会ったんだぞ。そして……4年後の大事な約束をしたんだ。
昨日の今日だぞ、訳が分からない。俺たちは笑顔で別れた。
4年後が待ち遠しかった。それでも必ずやってくる4年後を夢見て、胸の高鳴りを抑え込んだ。
今年で中等部を卒業し、高等部にスライドする。高等部に入れば、クラス編成が行われるかもしれないが詩織とまた同じクラスになれたらいいなと思っていた。
仮に別のクラスになったとしても、放課後の時間は変わらない。
相変わらず、あるがままにそとはかとなく。詩織がピアノを弾く音楽室の逢瀬が続いていくはずだった……。なのに……。
その訃報を、俺は学校で知った。その日詩織は欠席していて不思議に思っていたが、お昼になると担任の先生は教室にやってきて困惑した表情で告げた。
「皆さん、落ち着いて聞いてください。昨晩、石川詩織さんが交通事故で病院に緊急搬送されました。意識不明の重体だったそうですが、今朝方……亡くなったそうです」
「は……なんだって!? 先生! それ本当なんですか!」
「先生! 石川が……どうして……!」
「嘘……詩織……」
「……先生も、詳しいことは分かりません。これから教頭先生と病院へ行ってお話を伺ってきます。明日……は休日ですね、明後日には皆さんにもちゃんと説明しますので――」
頭が真っ白になった。先生が何か言葉を続けていたが、もう俺の耳には届かない。
クラスの連中も泣き出す子や、先生に色々と聞こうとする生徒も居たが俺は意識が遠のくようにクラスの騒然たる空間と切り離されていった。
まだ残ってる、詩織の声。まだ聞こえてる、詩織のピアノ。まだ憶えてる、詩織の表情。
まだ……まだ……。だってそうだろう? 俺たちは、これからだったじゃないか……。詩織、詩織……。
涙だった。詩織のお陰で俺は、ネガティブな男から段々と前を向いて歩けるようになった。
地面ばかり見ていた時は見えなかった景色を、詩織は見せてくれた。外の世界の音なんて雑音だと思って閉じていた耳に、ピアノってこんなにいい音がするんだよと教えてくれた。
それはもう、俺の人生を変えてくれたのと同じことだ。
毎日の学校が億劫ではなくなった。また放課後に詩織のピアノを聴きに行きたいと思って一日のつまらない授業にも少しはまじめに取り組むようになった。それは詩織が俺にとっての、道しるべだったから。
俺が下を向ていても、前を明るく照らしてくれる存在。その明かりはとても温かくて、心地よくて、曲がっていた腰を正してくれるような存在だった。
それを、突然奪われたなら……。
次の日も、その次の日も詩織は現れない。もう、俺のこの先の人生を詩織が明るく照らしてくれることは……無い。
一週間が経ち、1か月が経ち……詩織が居た日常があの日を境に失われてしまった。朝挨拶をすると返ってくるピアノのような聞き慣れた声は聞こえない。
放課後、音楽室へ行ってもピアノの音は聞こえてこない。
誰もいない音楽室で、俺は空を見上げた。晴れているはずなのに、灰色に見えた。太陽が白く見えた。曇ってのは、白くなかったっけ。空ってのは青かったり、夕方は橙色じゃなかったっけ。
太陽は赤く、眩しい物じゃなかったっけ……。俺の世界は、色彩を失った。
気が付けば、高等部にスライドしていた。
その頃、両親も離婚していた。もともと家に居るのかいないのか分からないくらい父親とは話した記憶がない。母親はよく、俺の洗濯物を洗ってくれたりご飯を作ってくれたりして、居間で一緒にご飯を食べながらテレビを見たりした。
住む家は変わらなかったし、離婚の慰謝料があるとかでちゃんとご飯も毎日食べれたし、学校にも変わらず通うことが出来た。それでも当然働かなければいつかはお金が無くなってしまう。
母親は仕事を始めた。帰りが遅くなることもあったが、テーブルの上に置き手紙と、昨日の残りのご飯が冷蔵庫に入っていたりした。
たまにお金が置いてあって、それでお弁当を買って食べることもあった。始めの内は、テレビの話題を話したりニュースのことで会話をすることもあったが、次第にそれすらも億劫になっていった。
気のない返事をしたり、ご飯を食べ終わると自室に戻って会話をする時間も徐々に減っていった。自室にこもって、無関心なネットを徘徊する。
何に惹かれるでもなく、ただ眺めてはリンクを飛び、また少し眺めては適当にリンクを飛び……。
お風呂が出来たと呼ばれればお風呂に入って、眠くなったら寝る。
そんなつまらない毎日が続いた。
母親もそんな俺を見かねたのか、あまり話しかけてこなくなった。
休日も外出することが多く、作り置きのご飯か、お弁当代を置いて夜には戻ってくると置き手紙を残して家を空けることもしばしばだった。
父親ともこんな感じだったけど、母親はちゃんと仕事をしつつも家事は知らない間に片付いていたりした。ゴミが溜まることもなかったし、台所に食べ終わったお皿とか茶碗を置いておいても、次の日には全て無くなっていて洗濯物も干してある。
働きつつ、家事もこなし、プライベートもそこそこに楽しんでいるらしかった。
そうした日々が続き、高等部2年になってしばらくした頃。
珍しく休日に、一緒に外食しようと誘われて、母親とご飯を食べに行った。
そこで突然「近いうちに、再婚するかもしれないから」と告げられた。俺は「そう……」と素っ気なく答えた。興味はなかったからだ。
再婚をしても俺の生活は変わらない。屋根の下に一人増えたところで、息苦しさはあるかもしれないが、あるがままにそこはかとなく。同じような日常が続いていくだけだ。
その時は、そう思っていた。まさか一人ではなく、二人増えるなんて考えもしなかったんだ。
それから大して時間は開いてなかった気がする。とある休日に、それはやってきた。母親が今日は会わせたい人がいるから家に居て欲しいとだけ告げ、俺は大人しく家で待つことにした。
そして母親と一緒に帰ってきたのは、スーツ姿の男と小柄な女の子だった。
「初めまして、翔くん。石川といいます」
「始めま……し……。え……」
俺は一瞬目を疑った。男の方にじゃない、女の子の方にだ。ショートカットのストレートな髪は整っていて、肩幅は狭く華奢な身体のライン。手は畏まったように前で組まれていて、何よりも顔が……詩織とそっくりだった。
髪を伸ばして姿勢を正せば、詩織と見紛うほど似ているに違いない。
いや、一瞬詩織が来たんじゃないかとすら思った。そんなことあるわけないのに、詩織と名前を呼びそうになる。開いた口が塞がらない。
自分が名乗るのも忘れて口をパクパクさせていると、彼女が口を開いた。
「……石川、美笑です。こんにちわ」
「み、え……?」
聞いたことがある名前だった。いや、とぼけるのはよせ。
こんなにはっきりと言っているじゃないか。他の誰でもない、詩織の妹は美笑。
そして石川と名乗った。いやいや、同姓同名ってことも……。
だから! いい加減目を覚ませ! この子はおそらく、詩織の妹に違いないんだ。どうして母親が石川家と縁があったか知らないが、どうやら再婚相手はかつて詩織がいた、石川家なのだ。
ということは、これもなぜだか分からないが石川家も離婚していたということか。原因は、詩織の事故……?
分からない、分からない。考えても分からないことはひとまず置いておこう。
今目の前には、今は無き詩織の忘れ形見である美笑がそこにいる。
詩織の生き写しの様に綺麗な顔をした、正真正銘の妹の姿。今度は親が再婚することで、俺の義妹になる……。俺は美笑と呼べるだろうか。
詩織を失って自暴自棄に苛まれているのに、美笑とどう向き合っていけばいいんだ……。
再婚相手の父親に興味は無かった。俺にはもう美笑しか見えていない。だが、ふと美笑と目が合った時、どうしてか目を逸らしてしまった。
「よろしく……お願いします。すいません、ちょっとトイレに……」
これ以上直視出来なかった。自分でも分からなかったが、胃液がこみ上げるような気持ち悪さに襲われた。
急いでトイレに駆け込んで、喉に張り付いていた辛いような苦いような液体を吐き出した。
肩で息をしながら、俺はなぜか涙を流していた。分からない、分からない……。これはひょっとして、願ってもない再会なんじゃないか?
きっとこれは、喜ぶことなんじゃないか? 何の因果か知らないが、詩織を失った俺の所に妹の美笑がやってきた。妹を大切にして欲しいと願った詩織。
それが、詩織の死を通してようやくその時がやってきたのだ。
なのに、なのに……。美笑を見ると、苦しくて悔しくて、にがくて食べたものを吐き出してしまいそうになる。
それは……。美笑の顔が溶けて、詩織の顔に……。
「違う! 違う違う違う!……はぁ、はぁ……くっ」
俺は、美笑のことを見ていないんだ。美笑を通して詩織を見てしまっている。
これ以上、美笑のことを直視出来ない。あの子を見ていると、詩織のことを思い出してしまうから。それは……そう、悪心だった。
もう居ないはずの詩織が帰ってきたと思い込みたい自己欺瞞と、それは美笑という妹を詩織の代わりにしたい欲望と、狂気……。そこに詩織が愛した美笑本人は居ない。違う女の子として見なきゃダメなのに……。全部がグチャグチャで、全部訳が分からない。
胸のあたりが気持ち悪い、俺は一体なんなんだ……。
気が付けば、詩織が突然いなくなってから2年が経とうとしている。この2年間俺は、一日だって詩織のことを忘れたことは無い。
何度も何かの間違いだと思って、毎朝教室のドアを見つめていた。そんな日がずっと続くと、だんだん毎日絶望を味わうことも辛くて、目線は窓の外へと向いていた。
そんな日々を2年間も送ってきたんだ。そして再婚相手が石川さんで、妹の美笑が居て、俺の義妹になることになって……。
俺は美笑を受け入れたくないんだ……。受け入れてしまったら、詩織のことを忘れてしまいそうで怖かったから。
ごめん、詩織……。
トイレの壁におでこを当てて、女々しい自分を涙で噛み締めるしかなかった。
それから半年くらいは、悪心は収まらなかった。ようやく、同じ家に美笑がいることに慣れ始めた頃。
また家の中では、親の喧嘩が聞こえ出すようになっていた。どうしてこうも結婚て言うのはうまくいかないものなんだろうな。
それから次第に、義父はあまり家に帰ってこなくなった。美笑も時々、家にいないこともあった。それは母親から聞いたところによると、元の母親の家に行っているらしいということだった。
それならそれで構わないと母親も言っていたので、俺も大して気にはしなかった。
なぜかというと、この頃には義父は遠方に転勤になったらしくほぼ別居状態といっても過言ではなかったからだ。それと同時に、悪心が薄れていったのも近頃詩織の夢を見るようになったからだ。
ずっと詩織の夢なんて見ていなかった気がするけれど、詩織が夢に出てくるようになってから悪心は少しずつ消えていって、まだまだ少ないけれど美笑とも言葉を交わすくらいにはなれた。
もちろん、会話なんて上等なものは無かったけれど一先ず俺の身体に負担がなくなったので、少しずつ美笑のことも見れるようになったのだ。
まだ、詩織の死を完全に克服できてはいない。美笑のことも本当の意味で義妹だと思うことも出来ない。
そんな中途半端のまま、月日は流れ、美笑ももう少しすればあの日の詩織と同じ年の中等部2年生になる。
やはり詩織と比べると身体は小さかったが、綺麗な顔立ちは詩織の面影を残している。俺は詩織と出会う前のネガティブ男に成り下がっていた。ただ……詩織の夢が、俺の心の奥底に眠っている何かを呼び覚まそうとしているような……そんな気がしていた。
それから俺と美笑は、深く交わることなく一つずつ年を重ねた。
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